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テルナ・ヴァイド -失われた神と残された記憶ー  作者: なるかめ
第3章 正義という名の暴力

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Scene 17 忘れるな

正しい命令に従うことが、

いつも誰かを守ることになるとは限らない。


守るための制度が、

人の記憶を奪い、

証言を消し、


名前の残らない傷をつくっていく。


その時、

命令に従うのか。

目の前の人を守るのか。


そしてソウルは、

レンが隠していたもう一つの立場を知る。


忘れてはいけないものを、

誰が記録し、

誰が抱えていくのかを問う物語。

 フィーナは、レンが消えた路地を見たまま答えなかった。

 やがて、封鎖区域の内側へ視線を戻す。

「見て、忘れるな」

「何を」

「ここで起きることを」

 それは答えではなかった。

 沈黙をごまかすために置かれた言葉に聞こえた。


 問い返す前に、木柵の向こうから若い神官が駆けてきた。

 息を切らし、額に汗を浮かべている。

「ソウルさん」

「どうした」

「マレクさんから、区域内の救護を手伝ってほしいと頼まれています。検査で気分を悪くした人が増えて、手が足りません」

 旧市場区の内側へ目を向ける。

 朝に嗅いだ鉄と湿った革の匂いに、焦げた木と薬品の匂いが混じっていた。

 さらに、人の汗。

 恐怖で浅くなった呼吸。

 病棟で、患者の容体が急変した直後に似ていた。

 誰もが動いている。

 それなのに、何を優先するのかだけが揃っていない。


「行きます」

 若い神官が頷いた。

 封鎖線へ近づくと、兵が槍を横へ出した。

「許可がありません」

「施療所の手伝いだ」

 リオルが、封鎖線の内側から歩いてきた。

「マレクからの要請を受けている。住民救護のため、区域内へ入れる」

 兵は現場指揮官を見た。

 灰色の外套を着た男は、俺を頭から足元まで一度見た。

 肩の医療鞄で視線が止まる。

 それから、何も言わずに目を逸らした。

 答えないことが、通行の許可になった。

 リオルは小さく頷いた。

「中では、勝手に動かないでください」

「怪我人がいても?」

 一瞬、返事が遅れた。

「怪我人がいたら、私を呼んでください」

 命令の中で守れる範囲を探している声だった。


 俺とフィーナは木柵の隙間を通った。

 旧市場区は、外から見た時より静かだった。

 声を上げれば、自分が次に選ばれる。

 そう知っている人間の静けさだった。

 仮設検査所には、椅子が三脚並べられていた。

 記憶管理官が一人ずつ住民を座らせ、額と胸元へ細い術式具を当てている。

 淡い光が皮膚の上を走った。

 名前を聞かれる。

 光に包まれる。

 終わった者は立たされ、次の者が座らされる。

 何を調べているのか、列にいる者へ説明はなかった。

「これは何をされているんですか」

 椅子に座った女が聞いた。

 記憶管理官は術式具を額へ当てたまま答えなかった。

 光が強くなる。

 女の肩が跳ねた。

「頭が……」

 術式具が離された。

 女は立ち上がろうとして、膝から崩れた。

「何をしたんですか」

 付き添っていた男が叫ぶ。

「記憶反応を確認しました」

 管理官が、倒れた後になって説明した。

「外部記憶との接続と、不自然な欠損がないかを調べる検査です」

「先に言ってください」

「緊急措置のため、説明は後になります」

 女は両手で頭を押さえていた。

 呼吸が浅い。

 肩が小刻みに上下している。

 俺はそばへ膝をついた。

「聞こえますか」

 女が頷く。

「吐き気は」

「少し……頭の奥が、引っ張られるみたいで」

 手首へ触れる。

 脈は速い。

 意識はある。

「横になれますか」

「照合が残っています」

 若い兵が言った。

「今は動かさない方がいい」

「検査が終わっていません」

「立てない人間に続けるのか」

「命令です」

「救護を優先しろ」

 リオルの声が飛んだ。

 若い兵が振り返る。

「ですが、検査が――」

「呼吸が止まれば、照合もできない」

 リオルは女の反対側へしゃがみ、肩を支えた。

「外へ運ぶ。歩かせるな」

「現場指揮官の許可が」

「住民救護は命令書にある」

 言葉は静かだった。

 だが、返事を待つ声ではなかった。

 兵は唇を結び、もう一人を呼んだ。

 二人で女を持ち上げる。

 リオルが書記役の神官へ向いた。

「検査前の説明を省略したこと。検査後に頭痛と吐き気が出たこと。現地記録へ残してください」

 書記役が現場指揮官を見る。

「記録しろ」

 指揮官は短く言った。

 紙へ文字が残る。

 それでも、次の住民が椅子へ座らされた。

 異議が記録されたことと。

 目の前の検査が続くこと。

 二つは、何の矛盾もないように並んでいた。


 俺は医療鞄から記録帳を出した。

 女の名前。

 検査を受けた時刻。

 頭痛。

 吐き気。

 呼吸の速さ。

 説明が後から行われたこと。

 書けるものから書いた。

「何をしている」

 フィーナが聞いた。

「残す」

「神殿も記録している」

「神殿が残さないこともある」

 返すと、フィーナは検査所の周囲を見た。

 兵の位置。

 木柵の切れ目。

 管理官が出入りする天幕。

 住民が外へ抜けられる細い路地。

 視線が順番に動いた。

「北側の路地は、兵が少ない」

「逃がすのか」

「女は逃げると言っていない」

 フィーナは、検査所へ視線を向けたまま答えた。

「見ているだけだ」

 その声には、見ているだけでは終わらない何かがあった。


 次に座らされたのは、白髪の老人だった。

 椅子へ座る前から、右手が震えている。

「名前を」

 管理官が聞いた。

 老人は口を開いた。

 だが、声が出なかった。

 付き添っていた娘らしい女が答える。

「ハルドです。父は、名前が出てこないことがあります」

「本人に答えてもらいます」

「だから、出ない時があるんです」

 術式具が老人の額へ当てられた。

 淡い光が走る。

 老人の身体が強く揺れた。

「父さん!」

 娘が近づこうとする。

 兵が前へ出て止めた。

「検査中です」

「苦しんでるでしょう!」

 老人の喉から細い音が漏れた。

 両手が椅子の縁を掴んでいる。

 指の関節が白くなっていた。

「中止してください」

 俺が言った。

「強い反応があります」

「だから止めろ」

「危険記憶との接続が疑われます」

 フィーナが一歩前へ出た。

「術式だけを見るな。本人の顔色も見ろ」

 管理官が老人の顔を見る。

「呼吸が落ちている。続ければ意識を失う」

 老人の息が一度途切れた。

 術式具が離される。

 身体が崩れた。

 俺は肩と頭を支え、床へ横向きに寝かせた。

「聞こえますか」

 返事はない。

 呼吸はある。

 脈は弱いが触れる。

 娘がそばへ膝をついた。

「父さん」

「呼び続けてください。手を握って」

 娘が老人の手を包む。

 俺は記録帳へ書いた。

 検査中に意識を失いかけた。

 中止要請後も継続。

「その記録を提出してください」

 記憶管理官が言った。

「何のために」

「作戦中に作成された関連記録です」

「被害を受けた人のために書いた」

「提出を拒否すれば、作戦妨害と判断します」

 俺は記録帳を閉じ、医療鞄へ入れた。

「なら、そう書け」

「何を」

「誰が、いつ、何を理由に、被害者の記録を取り上げたのか」

 管理官の表情が硬くなる。

 フィーナが、俺と管理官の間へ半歩入った。

 剣に手はかけていない。

 それでも、そこを通れる空気ではなかった。

 管理官はそれ以上近づかなかった。

 昼を過ぎる頃には、検査所の外へ具合を悪くした者が増えていた。

 頭痛。

 嘔吐。

 記憶の混乱。

 手足の震え。

 転倒して額を切った者。

 拘束の際に肩を痛めた者。

 俺は一人ずつ名前を聞き、状態を書いた。

 名前を言えない者には、家族へ聞いた。

 家族がいなければ、服装と特徴を書いた。

 誰かが忘れた後でも。

 少なくとも、ここにいたことが分かるように。


 旧市場区の奥から、三人の兵に囲まれた男が連れてこられた。

 腕を後ろで縛られている。

 頬が腫れ、口元から血が流れていた。

 革を扱う職人なのか、袖口には細かな切り傷がいくつも残っている。

 左の袖には、小さな花の刺繍があった。

 子どもの手で縫ったような、不揃いな形だった。


「その男は」

 リオルが近づく。

「地下倉庫の場所を知っている」

 現場指揮官が答えた。

「証拠は」

「複数の住民が、覚醒派と接触していたと証言した」

 覚醒派。

 神殿の記憶管理に反対する者たちを指す名らしい。

 何をしている集団なのかまでは、まだ分からない。

「本人は」

 リオルが聞いた。

「否認している」


男が顔を上げた。

「怪我人を運んだだけだ」

 声が掠れている。

「雨の日に、倒れていた女を屋根のある場所へ運んだ。それだけだ」

「地下へ運んだのか」

「そうだ。でも、そこが何の場所かは知らない」

「その女の名前は」

「知らない」

 現場指揮官が記憶管理官へ目を向けた。

「反応を確認しろ」

 男は椅子へ押しつけられた。

 額へ術式具が当てられる。

 光が走った。

 さっきまでの検査より強い。

 男の背が弓なりに反った。

「本人のものではない記憶との接続が確認されました」

 管理官が言った。

「外部記憶との接続は、どの程度だ」

「強い残響反応があります。ただし、危険記憶との接続かは断定できません」

 現場指揮官が一歩近づく。

「地下の違法術式に接触した可能性は」

「否定はできません」

「なら、危険記憶との接続が疑われる対象だ」

 リオルが命令書を開いた。

「疑いだけでは、記憶切離しの条件を満たしません」

「反応がある」

「具体的な危険性は確認されていない」

「証拠を消されるおそれがある」

「拘束と移送で対応できます」

 男の前へ、黒い布に包まれた術式具が運ばれた。

 細い針のような金属が三本。

 中央には空の小瓶が固定されている。

 フィーナの呼吸が変わった。

「何をする」

「記憶を切り離す」

「どの記憶を」

「地下への経路と、接触した人間に関するものだ」

「選べるのか」

「範囲を絞る」

 フィーナの目が術式具へ向いた。

「嘘だ」

 管理官が顔を上げる。

「完全には選べない」

 フィーナの声は低かった。

「場所を切れば、そこで会った人間が抜ける。人間を切れば、その前後の出来事も崩れる」

 神殿で術式を教え込まれた者の声だった。

「必要な範囲に限定します」

「必要だと決めるのは誰だ」

 現場指揮官が手を上げた。

「実施しろ」

「待ってください」

 リオルが男と術式具の間へ入った。

「命令書では、生命または人格へ重大な危険を及ぼす接続が確認された場合に限るとあります」

「確認した」

「管理官は断定できないと言った」

「現場判断だ」

「証言だけを根拠に、人の記憶を切り離すのですか」

「騎士リオル」

 現場指揮官の声が低くなる。

「任務を妨げるな」

 男が椅子の上で身をよじった。

「やめてくれ」

 兵が肩を押さえる。

「娘がいる」

 男の声が震えた。

「娘の顔まで、なくなるかもしれないんだろ」

「対象外の記憶は保全します」

「さっき、選べないって言ったじゃないか!」

 男の叫びが天幕の中へ響いた。


 俺は前へ出た。

 兵が腕を伸ばす。

 フィーナが、その手首を掴んだ。

「離せ」

「その手を引け。離すのはそれからだ」

 フィーナは兵士の腕を掴んだまま、目を逸らさなかった。

 剣はまだ鞘の中にある。

 それでも、空気が張り詰めた。

 管理官が、術式具を男へ向けた。

 針の先が、男のこめかみと胸元へ触れた。

 淡い光が小瓶へ集まり始める。

 男の身体が震えた。

「娘の名前は」

 俺は叫んだ。

 男が目を見開く。

「名前を言え!」

「ミ、ミラ」

「もう一度」

「ミラ!」

「何歳だ」

「九つ」

「髪は」

「黒い。母親に似て、長くて――」

 声が途切れた。

 光が強くなる。

「忘れるな!」

 自分でも、誰へ向けた言葉か分からなかった。

 男へ。

 俺へ。

 ここにいる全員へ。

「ミラだ。九歳。黒い髪だ。忘れるな!」

 男の口が動いた。

「ミラ」

 声は、さっきより弱かった。

「ミラ……」

 小瓶の中へ、薄い光が流れ込む。

 男の目から焦点が消えた。

「聞こえますか」

 男が俺を見る。

 焦点は合っている。

 けれど、さっきまでの怯えが消えていた。

「ミラは」

 男は、ゆっくり首を傾げた。

「誰だ」

 胸の奥が冷えた。

 左の袖にある、不揃いな花の刺繍。

 それを縫った人間の顔も。

 その手を見て笑った時間も。

 同じ場所から崩れているのかもしれない。

 小瓶が術式具から外された。

 記憶管理官は封をしようとした。

 現場指揮官が言った。

「現地で処分する」

「移送できます」

 管理官の手が止まった。

「封入状態は安定しています」

「危険記憶だ。処分しろ」

 別の管理官が、小瓶を術式台へ置いた。

 金色の線が一瞬走る。

 乾いた音がした。

 瓶が割れた。

 中の光が煙のように散った。

 男が生きていた記憶。

 娘の名前。

 黒い髪。

 九歳。

 それが、目の前で消えた。


「今の処置を記録してください」

 リオルの声だった。

 顔から、いつもの柔らかさが消えている。

「記録は不要だ」

「証拠記憶の破壊です」

「危険媒体の処分だ」

「移送可能でした」

「私の判断だ」

「命令書は、移送可能な証拠記憶の保全を定めています」

 現場指揮官は答えなかった。

 リオルは、割れた瓶の跡を見ていた。

 命令書を握る指が、ゆっくり閉じた。


 リオルは、男の腕を押さえていた兵へ向いた。

「縄を解け」

「何を」

「解け」

「指揮官の命令が」

「今の命令は、俺が出している」

 兵は動かなかった。

 リオルが自分で縄へ手をかけた。

 現場指揮官の部下が前へ出る。

「騎士リオル。命令違反になります」

「分かっている」

 縄が解けた。

 男の腕が力なく落ちる。

「北側の路地へ運べ」

 リオルは先ほどの若い兵へ言った。

「しかし」

「住民救護だ」

 若い兵はリオルと現場指揮官を見比べた。

 やがて男の肩を担いだ。

「残りの住民も、検査を中止して外へ出せ」

「騎士リオル!」

 現場指揮官の声が響く。

「これは浄化ではありません」

 リオルは振り返らずに言った。

「命令に書かれた住民保護でも、証拠保全でもない」

「部隊を妨害すれば拘束する」

「その前に、住民を出します」

 リオルは木柵の留め具を外した。

 若い兵がもう一人、手を貸す。

 北側の路地へ通じる隙間が開いた。

「走るな。子どもを先に」

 住民が動き始める。

 混乱は一瞬だった。

 誰かが叫び、誰かが転びそうになる。

 フィーナが列の外へ出た。

「壁沿いに進め。押すな」

 短い指示で、人の流れを整える。

 俺はハルドを背負った。

 娘が隣で手を支える。

 特務隊の兵が出口へ回り込もうとした。

 リオルと若い兵たちが、その前へ立った。

 剣は抜かない。

 ただ、道を塞ぐ。

 ラグナの神殿兵が、特務隊の進行を止めていた。


 遠くで石が崩れる音がした。

 封鎖区域の奥から煙が上がる。

 次いで、二人の負傷者が担架で運ばれてきた。

 一人は神殿兵。

 もう一人は、顔を布で隠した若い男だった。

 どちらの腕にも血が流れている。

 煙の向こうで何が起きているのかは見えなかった。

 ただ、抵抗する側も無抵抗ではなかった。

 怒鳴り声と、何かがぶつかる音が続いていた。


 俺たちは負傷者をマレクの施療所へ運んだ。

 施療所は、夕方になる前から満員だった。

 寝台は足りない。

 床へ布を敷き、壁際まで人を並べる。

 マレクは運び込まれた者の外套や紋章を見なかった。

 誰の側かではなく、傷の深さだけを見ていた。

「呼吸が悪い者を奥へ」

 それだけ言った。

「神殿兵もいます」

 若い手伝いが小声で言う。

「紋章を気にするな。顔色と呼吸を見ろ。状態の悪いやつから先だ」

 マレクは血の流れる腕を押さえたまま答えた。


 俺は記録を続けた。

 ハルド。

 記憶反応検査中に意識低下。

 ミラという娘を持つ男。

 切離し後、ミラという名に反応を示さず。

 娘に関する記憶が失われた可能性。

 切り離された記憶は現地で破壊。

 時刻。

 場所。

 部隊の紋章。

 そこにいた者。

 覚えているうちに書いた。

 記憶を失った本人に代わって。

 見ていた者が、残すしかなかった。


 床を拭く。

 水を運ぶ。

 血の染みた布と、洗えば使える布を分ける。

 動けない者の身体を起こし、水を飲ませる。

 治療が終わった者を壁際へ移す。

 いつもと同じ仕事を繰り返した。

 違うのは、数だけだった。

 日が沈む頃、負傷者の搬送がようやく途切れた。

 施療所の裏にある小さな物置へ入り、記録帳を机へ広げた。

 壁には包帯と薬草の袋が積まれている。

 灯りは、小さな油皿が一つだけだった。

 書いた文字を、最初から読み返す。

 名前。

 症状。

 検査。

 拘束。

 切り離された記憶。

 破壊された瓶。

 紙の上には、名前と、その人に起きたことが順に書き足されていった。

 神殿の兵も、旧市場区の住民も、同じ書き方で並んでいく。


 入口で布が擦れる音がした。

 振り返る。

 レンが立っていた。

 パン籠はない。

 昼間と同じ伝令鞄を、肩から下げている。

「ソウルさん」

「昼間、どこへ走ってた」

 レンの足が止まった。

 驚いた顔ではなかった。

 聞かれると思っていたわけでもない。

 ただ、質問の意味を確かめるように俺を見た。

「手紙を届けていました」

「誰の手紙だ」

「覚醒派のです」

 短い答えだった。

 誇るでもなく。

 隠そうとするでもなく。

「僕は、見習いの伝令なので」

 言葉が、すぐには頭へ入らなかった。

 レンは十四歳だ。

 転んで膝を擦りむいて。

 形の崩れたパンを焼いて。

 いつか店を持つと笑っていた。

 その同じ肩に、伝令鞄が掛かっている。


「いつから」

「工房へ通うようになって、少ししてからです」

「ガルムは知ってるのか」

 レンは頷いた。

「フィーナも」

「はい」

 昼間、問いに答えなかったフィーナの顔が浮かんだ。

「十四歳がやる仕事じゃない」

 声が低くなった。

 怒りより。

 胸の奥が冷えていく感覚の方が近い。

「パンを運ぶのと、そんなに違いはありません」

 レンは、本当にそう思っている顔だった。

「頼まれた紙を、知っている人へ届けます。戦うわけじゃありません」

「パンを運ぶのとは、話が大きく違う」

「でも」

「捕まったら、殴られるかもしれない」

 昼間、頬を腫らした男を思い出した。

「何を知っているか調べるために、記憶を切り離されるかもしれない」

 娘の名前を失った目。

「帰れなくなるかもしれない」

 レンの手が、鞄の紐を握った。

「大丈夫――」

 そこで止まった。

 いつもなら続く言葉が、最後まで出てこなかった。


 レンは一度、口を閉じた。

「……気をつけます」

「気をつければ済む話じゃない」

「でも、届けないと困る人がいます」

「お前が届けなくても」

 言いかけて止まった。

 誰かがやればいい。

 大人がやればいい。

 そう言うのは簡単だった。

 だが、その誰かが足りないから、レンが運んでいる。

 それを認めたくはなかった。

「続けるのか」

「はい」

 返事は小さかった。

 それでも、迷ってはいなかった。

 俺には、やめさせる言葉がなかった。

 許す言葉もなかった。


 机の上には、記憶を奪われた人たちの名前が並んでいる。

 目の前には、これから奪われるかもしれない少年が立っていた。

 レンは鞄の紐を握ったまま、俺の返事を待っている。

 俺は何も言えなかった。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

Scene17「忘れるな」では、神殿の命令が、ついに人の記憶そのものを傷つけるところまで進みました。


正しい手続き。

住民を守るという目的。

秩序を維持するための判断。


どれも、最初から間違っていたわけではありません。

けれど、その正しさの中から人の声が消えた時、制度は静かに暴力へ変わっていきます。


今回、特に描きたかったのは、命令と良心の間に立たされたリオルの選択でした。

神殿を否定したいわけではない。

自分が守ってきたものまで捨てたいわけでもない。

それでも、目の前で行われていることを見過ごせない。

その迷いの末に出した答えは、彼にとって決して軽いものではなかったと思います。


そして、レンが隠していた立場も明らかになりました。

いつも明るく、「大丈夫です」と笑っていた少年が、どんな危険を抱えながら街を走っていたのか。

ソウルは、その事実を知っても、簡単に止めることも、認めることもできませんでした。


守りたいと思うことと、相手の選択を奪わないこと。

その二つは、時に両立しません。

答えの出ないまま残った問いを抱えて、次のSceneへ進みます。


次回、Scene18「神殿を壊す女」。


覚醒派の拠点で、ソウルは一人の女性と出会います。

神殿を壊そうとする者は、本当に正しいのか。

そして、傷ついた敵を助けることは、仲間を危険へさらすことになるのか。


次回も読んでいただけたら嬉しいです。

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