閑話1 最初の給金 (Scene15の後)
誰かの世話になるだけでは、
この世界で生きているとは言えない。
働くこと。
役に立つこと。
自分の手で、明日の糧を得ること。
魔法を持たないソウルが、
初めてこの世界に居場所をつくる物語。
パンの匂いで目が覚めた。
焦げた匂いではない。
それだけで、昨日までより少しだけ朝らしかった。
工房の奥へ行くと、レンが台の前で生地を丸めていた。
小麦粉をつけた手で、一つずつ形を整えている。
並んでいるものは、丸いものもあれば、端が尖ったものもある。
同じ大きさのものは、一つもなかった。
「起きたんですね」
「ああ」
「もう少しで焼けます」
「焦げてないな」
「今回は大丈夫です」
レンは胸を張った。
前に焦がしたことを、まだ気にしているらしい。
俺も台の前に立った。
「手伝う」
「できますか?」
「丸めるくらいなら」
生地を一つ取る。
手のひらで転がす。
丸めたつもりだった。
台へ置くと、片側だけが妙に膨らんでいた。
レンがじっと見る。
「ソウルさんの、変です」
「丸ければ同じだろ」
「丸くありません」
「食べれば同じだ」
「フィーナさんみたいなこと言いますね」
「それは褒めてるのか?」
「分かりません」
背後から椅子の軋む音がした。
振り返ると、フィーナが壁際に座っていた。
眠そうな顔で、俺の作った生地を見ている。
「それは売れないな」
フィーナが、生地を見たまま言った。
「売るつもりはない」
「食べるのも少し迷う」
「そこまでひどくないだろ」
レンが俺の生地を手に取った。
指先で形を整える。
少し触っただけで、さっきよりまともな形になった。
「これなら大丈夫です」
レンは形を整えた生地を、ほかのものと並べた。
「最初から任せればよかった」
「手伝うって言ったの、ソウルさんです」
工房の奥では、時計の音が重なっている。
深夜に聞いた音とは違う。
朝の光の中で聞くと、少しだけ軽く感じられた。
レンが次の生地を丸めながら、何気なく聞いた。
「ソウルさんは、今日は何をするんですか?」
手が止まった。
「今日?」
「はい」
「……特に決めてない」
「仕事は?」
答えられなかった。
前の世界では、仕事があった。
病室があった。
患者がいた。
夜勤もあった。
朝になれば帰れる日もあれば、帰れない日もあった。
けれど、この世界では。
資格もない。
身分もない。
金もない。
着ている服は、あの橋から落ちた時のままだ。
何度か洗ってはいる。
だが、袖は擦れ、裾には取れない汚れが残っている。
食事は誰かが用意したもの。
寝床も借り物。
旅の途中で必要だったものも、ほとんどフィーナに頼っていた。
この世界へ来てから。
俺は一度も、自分の金を使っていない。
使っていないのではない。
持っていなかった。
黙り込んだ俺を、フィーナが見ていた。
「ようやく気づいたのか」
「気づいてはいた」
「気づいているだけでは、腹は満たせない」
「厳しいな」
「現実だ」
奥の作業台から、低い声がした。
「働け」
ガルムは時計の裏蓋を開けたまま、こちらを見てもいない。
「仕事があれば」
「ある」
「ずいぶん簡単に言うな」
「使えるかどうかは、向こうが決める」
工具を置く音がした。
ガルムが一枚の紙を差し出す。
「ラグナの外れに施療所がある」
「神殿の?」
「違う」
ガルムは短く答えた。
「神殿を頼れない者も来る。身分を明かせない者も。払える金が少ない者もな」
「そこが人を探している?」
「いつも足りていない」
「治療師を?」
「お前に治療師ができるのか」
「できない」
「なら、治療をしろとは言わん」
「何をする」
「運べ。洗え。見ろ」
「最後だけ曖昧だな」
「お前が一番できそうなことだ」
ガルムが、ようやくこちらを見る。
「誰にでもできる仕事でも、誰もやらなければ人は死ぬ」
低い声が続いた。
「魔法が使えないことと、何もできないことは同じではない」
返す言葉がなかった。
ガルムは紙を俺へ押しつけた。
「責任者はマレクだ。それを見せろ」
「何て書いた」
「口は多いが、人を見る目はある」
「褒めてないだろ」
「半分は褒めた」
「残り半分は?」
「事実だ」
フィーナが小さく笑った。
レンは焼き上がったパンを布へ包んでいる。
「仕事に持っていきますか?」
「まだ雇われてない」
「でも、お腹は空きます」
レンが一つ差し出した。
少し不格好なパンだった。
俺が丸めたものかもしれない。
「ありがとう」
「今日は焦げてません」
「それが一番大事だな」
「待て」
工房を出ようとした俺を、ガルムが呼び止めた。
作業台の引き出しから、小さな革袋を取り出す。
受け取ると、硬貨の音がした。
「これは?」
「前金だ」
「まだ何もしてませんけど」
「工房の仕事の分だ」
「俺がここで働くことになったのか?」
「寝床と食事をただで使い続けるつもりなら、追い出す」
「何をすればいい」
「掃除。部品の仕分け。配達。荷物運び。客の案内」
「時計は?」
「触るな」
「そこだけ即答だな」
「壊されたくない」
ガルムは俺の服へ目を向けた。
「その格好では、配達にも出せん」
「まだ着られる」
「装備を整えろ」
革袋を持ち上げる。
「そのための前金か」
「ああ。働いた分から引く」
「借金から始まるんですね」
「嫌なら返せ」
手を差し出される。
俺は革袋を握ったまま、一歩下がった。
「働きます」
「なら、無駄に使うな」
「その辺は信用してください」
「信用がないから言っている」
施療所の給金が得られるかは、まだ分からない。
それでも、これで最低限の服と道具を整える金はできた。
誰かから無条件に与えられたものではない。
これから働いて返す金だった。
少しだけ、受け取る重さが違った。
施療所は、白い神殿とはまるで違っていた。
ラグナ街区の外れ。
細い路地の先にある、古い石造りの建物。
壁は黄ばんでいる。
扉の上に、小さな木の看板が下がっていた。
文字は読めなかったが、薬草を束ねたような印が描かれている。
中へ入る。
薬草。
血。
煮沸した布。
汗。
いくつもの匂いが重なっていた。
寝台は並んでいるが、数が足りない。
壁際に座る者。
床へ布を敷かれている者。
子どもを抱いた母親。
腕を押さえる男。
咳を繰り返す老人。
治療師らしい者たちは、誰も立ち止まっていなかった。
「邪魔だ」
声をかけられた。
振り向く。
四十代後半くらいの男が立っていた。
腕まくりをした服には、乾いた血の跡がある。
短く刈られた髪。
目の下に深い隈。
こちらを見る目には、歓迎する色がなかった。
「ガルムの紹介で来ました」
紙を差し出す。
男は受け取り、読む。
眉間の皺が深くなった。
「口が多い、か」
「そこだけ読み上げないでください」
「人を見る目がある、とも書いてある」
「そっちを先に言ってほしかった」
「治療師か」
「違います」
「薬草師か」
「違います」
「魔法は使えるか」
「使えません」
男は紙から顔を上げた。
「では、何ができる」
「人の変化を見ることです」
「見るだけなら、家族でもできる」
「見続けることは、簡単ではありません」
男の目が細くなった。
「名前は」
「ソウル」
「俺はマレクだ」
紙を折り、懐へ入れる。
「口が多いというのは、本当らしいな」
「まだほとんど話してません」
「もう十分だ」
マレクは奥を指した。
「水を汲め。床を拭け。汚れた布と、使える布を分けろ」
「その後は?」
「終わってから言え」
仕事は、いくらでもあった。
床を拭く。
水を運ぶ。
寝台を空ける。
汚れた布を集める。
血の染みた布と、洗えば使える布を分ける。
動けない患者の身体を起こす。
治療が終わった者を壁際へ移す。
水を欲しがる者へ渡す。
吐いた者のそばを片づける。
誰でもできる仕事だった。
だが、誰かがやらなければ、治療師は治療を止めなければならない。
魔法が使えないことと、何もできないことは同じではない。
ガルムの言葉の意味が、少しだけ分かった。
昼を過ぎても、仕事は途切れなかった。
水を飲むために外へ出た時、懐に入れていたパンを思い出した。
少し硬い。
形も歪んでいる。
それでも、焦げてはいなかった。
立ったまま半分だけ食べ、残りを布へ戻した。
施療所へ戻る。
少しずつ、仕事の流れが見えてきた。
治療師は怪我を見る。
魔法を使う。
薬草を使う。
血を止める。
骨を固定する。
そして、次の患者へ移る。
治療後の患者を、誰かが続けて見ているわけではない。
呼吸。
意識。
熱。
痛み。
出血。
さっきよりよくなっているのか。
悪くなっているのか。
そこを確かめる者が少なかった。
俺は壁際に置かれていた板切れを借りた。
木炭筆で、患者ごとに印をつける。
名前。
怪我をした場所。
意識があるか。
呼吸はどうか。
出血はあるか。
痛む場所。
さっきと変わったこと。
「誰に頼まれた」
マレクが背後に立っていた。
「誰にも」
「余計なことをするな」
「忘れないためです」
「俺たちは忘れん」
「患者は一人ではありません」
マレクの顔が険しくなる。
「ここでは、俺の指示を優先しろ」
「分かりました」
「記録に気を取られて、仕事を止めるな」
「止めません。必要な時だけ確認します」
「役に立たなければ、すぐにやめさせる」
「それで構いません」
マレクは板を一度見てから、別の患者のもとへ向かった。
午後。
荷運び人らしい男が、若い同僚に肩を貸されて入ってきた。
三十代後半くらい。
大柄な体。
服には埃がついている。
脇腹を押さえていたが、自分の足で歩いている。
「倉庫で荷が崩れた」
連れてきた若者が言った。
「箱が当たっただけだ」
男はそう言って笑った。
「少しぶつけただけだ」
その時、奥で子どもの泣き声が上がった。
腕を大きく切った者も運ばれてくる。
床へ血が落ちていた。
治療師たちは、そちらへ動く。
荷運び人は壁際に座らされた。
「待ってろ」
治療師の一人が、それだけ言った。
男は脇腹を押さえたまま、壁へ背を預ける。
俺は板に時刻の印をつけた。
「どこを打ちました」
「右の脇腹だ」
「息は苦しいですか」
「少しな」
「気を失いましたか」
「してない」
「吐き気は」
「ない」
「痛みは」
「大したことない」
男は笑った。
「大丈夫だ」
その言葉が引っかかった。
大丈夫。
病室でも、よく聞いた。
迷惑をかけたくない人。
仕事へ戻りたい人。
家族を安心させたい人。
本当に大丈夫な時ほど、わざわざ口にしないこともある。
しばらくして、もう一度男を見る。
顔色が変わっていた。
さっきより白い。
額に汗が浮かんでいる。
呼吸も浅い。
「痛みは?」
「変わらない」
返事が少し遅れた。
「手を見せてください」
「何だ」
手首に触れる。
脈が速い。
弱い。
男が手を引こうとした。
「仕事へ戻らないと」
「立たないでください」
「この程度で休めるか」
「親方、今日は戻らなくていい」
連れてきた若者が、男の肩へ手を伸ばした。
「荷を待たせてる」
「俺たちで何とかする」
「お前たちだけでは無理だ」
男は立ち上がろうとした。
だが、膝が揺れた。
俺は肩を支えた。
「座ってください」
「離せ」
「大丈夫なら、さっきより顔色が悪くなって、呼吸が浅くなることはありません」
声を強めた。
男は抵抗する力を失ったように、壁へ背を預けた。
俺はマレクのもとへ向かった。
「壁際の男を先に診てください」
「見れば分かる。ほかが先だ」
「悪くなっています」
「血は出ていない」
「外から見えていないだけかもしれない」
マレクが手を止めた。
「お前は治療師ではない」
「分かっています」
「なら口を出すな」
「でも、あの人は、ここへ来た時より悪くなっています」
「根拠は」
俺は板をマレクへ見せた。
「ここへ来た時は、自分で歩いていました。呼吸も今ほど浅くなく、返事もすぐに返ってきた」
最初につけた印を指で示す。
「今は呼吸が浅い。顔色も青白くなっています。汗が増え、返事も遅い。脈も弱く、速くなっています」
マレクは板と、壁際の男を見比べた。
「怪我の大きさではなく、変化を見てください」
数秒。
長く感じた。
マレクは治療中の患者を隣の治療師へ任せ、立ち上がった。
荷運び人の前へしゃがむ。
脇腹へ手を当てる。
男が顔を歪めた。
「痛くないんじゃなかったのか」
「大したことはない」
「黙れ」
マレクの手元に、淡い光が集まる。
光は男の腹部へ沈んだ。
右の脇腹で、光が大きく揺らぐ。
マレクの表情が変わった。
「寝台を空けろ」
声が飛ぶ。
「早くしろ!」
周囲が動いた。
俺は男の身体を支え、寝台へ横たえる。
「動かすな」
マレクが言った。
「布を。多めに」
マレクの指示に従い、清潔な布をまとめて渡す。
「呼吸を見ろ」
「はい」
男の胸の動きを数える。
浅い。
速い。
マレクともう一人の治療師が、腹部へ魔法を使う。
男が苦しげに息を吐いた。
外からは見えない。
だが、内側で何かが壊れていた。
治療は長く続いた。
俺にできることは少ない。
身体を動かさない。
呼吸を確認する。
名前を呼ぶ。
意識が落ちそうなら、声をかける。
必要な布を渡す。
治療師の邪魔をしない。
それでも、そばを離れなかった。
夕方近く。
男の呼吸は、少しずつ落ち着いていった。
顔色はまだ悪い。
すぐに立てる状態でもない。
だが、意識はある。
若い同僚が、寝台のそばで何度も頭を下げていた。
「助かったのか」
俺が聞く。
「今のところはな」
マレクは疲れた顔で答えた。
「数週間は働けん」
「休める状況ではないんでしょうね」
「だろうな」
寝台のそばで、若い同僚が俯いている。
「仕事のことは、俺たちで何とかします」
若者は、寝台の男へそう言った。
男は目を閉じたまま、小さく息を吐いた。
「それでも、今戻れば、二度と働けなくなるかもしれない」
俺が言うと、マレクがこちらを見た。
「簡単に言うな」
「簡単ではないから言っています」
マレクはしばらく俺を見ていた。
「お前は、あの男の何を見た」
「変わったところを」
「それだけか」
「それを見落とさないのが、俺の仕事でした」
口にしてから、気づいた。
過去形だった。
マレクは、俺が持っていた板へ目を落とした。
「過去形にするには、まだ早い」
短く言い、背を向けた。
仕事が終わった頃には、外は暗くなり始めていた。
身体が重い。
服には水と汗と薬草の匂いが染みついている。
マレクは、机の端に置かれた板を手に取った。
荷運び人の名前。
来た時の状態。
変化した時刻。
短い言葉が並んでいる。
「次からは、字をもう少し小さく書け」
「読みにくかったですか」
「板が足りなくなる」
それだけ言って、マレクは板を机へ戻した。
「治療師としては雇えん」
「分かっています」
「魔法も使えん。薬草も知らん」
「はい」
「だが、患者を見る者は足りていない」
机の上へ、硬貨が置かれた。
銅貨が数枚。
小さな銀貨が一枚。
「人手が必要な日に来い。働いた分は払う」
硬貨を見る。
この世界へ来て初めて、自分の仕事で得た金だった。
多いのか少ないのか。
まだ分からない。
ガルムから借りた前金と合わせれば、服と最低限の道具はそろえられるはずだ。
ただし、前金は働いて返す金だ。
今、机の上にある硬貨だけが、自分の手で得たものだった。
マレクは、棚の奥から革の鞄を出した。
古い。
角は擦れている。
だが、縫い目はしっかりしていた。
蓋を開くと、中は細かく仕切られている。
「以前、ここで使っていたものだ。今は誰も使っていない」
マレクが、鞄を机の上へ置く。
「それも持っていけ」
「給金から引かれますか」
「引かん。中身は空だ」
「鞄だけでも高そうですが」
「使われない道具に価値はない」
「でも」
「道具は、使う者が持て」
マレクはそれ以上、鞄へ目を向けなかった。
俺も、すぐには手を伸ばせなかった。
朝までの俺には、金も仕事もなかった。
今は、硬貨がある。
次に来る場所がある。
そして、持つ理由を与えられた鞄がある。
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、役に立ってからにしろ」
「今日は役に立ってませんか」
「口は減っていない」
「そこは仕事と関係ないでしょう」
「次からは、その口を動かす前に手を動かせ」
鞄を肩へ掛ける。
中身は空だった。
それでも、朝より重いものを背負っている気がした。
次も来いと言われた場所。
患者の変化を見落とさないという仕事。
そして、使う者が持てと渡された鞄。
初めての給金を、手の中で握る。
借りた金とは違う。
自分で働いて得た金だった。
少しだけ。
この世界でも、働ける気がした。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
閑話1では、ソウルがこの世界で初めて働き、自分の力で給金を得ました。
魔法は使えない。
薬草の知識もない。
それでも、人の変化を見続けることならできる。
前の世界で身につけたものが、形を変えて、この世界でも誰かの命につながっていく。
その瞬間を書けたことが、筆者としても嬉しく感じています。
同時に、働くことは、ただ金を得ることではありません。
役割を持つこと。
必要とされること。
そして、自分がここにいてもよいと思える理由を得ることでもあります。
次の閑話2では、ソウルが得た給金と、ガルムから預かった前金を使い、新しい衣装と道具を整えていきます。
少しずつ、この世界で生きる姿へ変わっていくソウルを、引き続き見守っていただければ幸いです。




