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テルナ・ヴァイド -失われた神と残された記憶ー  作者: なるかめ
第2章 忘れても、愛は残るのか

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15/46

Scene 15 五百年を知る者

深夜の時計工房で、ソウルはガルムと向き合う。


止まった懐中時計。

五百年前に消えた創造神アルヴェ。

そして、その日を実際に生きた者の記憶。


神が消えたとき、

世界では魔法が乱れ、

人は家族の名を失い、

自分が何者なのかさえ忘れていった。


その混乱の中で、

神殿は人を救い、

記憶を守り、

やがて大きな力を持つようになった。


救うために始まったもの。

守るために縛られたもの。


Scene15「五百年を知る者」


これは、歴史を知る物語ではない。


歴史の中を生きた者から、

世界の真実の一端を受け取る物語。

 深夜。

 時計工房は暗かった。

 昼間は一つに重なっていた時計の音が、夜になると、それぞれ別の場所から聞こえてくる。

 カチ。

 カチ。

 

 カチ。

 壁を揺らす振り子。

 小さな歯車が噛み合う音。

 遠くで時刻を告げる鐘。

 同じ時間を刻んでいるはずなのに、どの音も少しずつ違っていた。

 工房奥の客用寝台では、フィーナが眠っている。

 その隣の小部屋からは、レンの寝息が聞こえていた。

 配給所の手伝いで帰りが遅くなったレンを、ガルムは夜道へ帰さなかった。

 眠る直前まで、レンは明日焼くパンの話をしていた。

 今度は焦がさない。

 朝になったら、生地を仕込む。

 明日。

 その言葉が、妙に頭へ残っていた。

 俺は眠れなかった。

 目を閉じると、今日見たものが浮かぶ。

 食事を渡す神官。

 負傷者を運ぶ騎士。

 自分の名前を書く子ども。

 息子に忘れられた老婆。

 淡い光を放つ記憶瓶。

 同じ神殿の中に、すべてが存在していた。

 だからこそ、眠れなかった。

 寝台を抜け出す。

 床板が鳴らないように、足を置く場所を選んだ。

 工房の奥から、淡い灯りが漏れている。

 扉を少しだけ開けた。

 作業台の前に、ガルムが座っていた。

 修理をしているのではない。

 工具は置かれたまま。

 大きな手の中にあるのは、あの止まった懐中時計だった。

 蓋を開き、動かない針を見ている。

 ただ、それだけだった。


「起きてたのか」

 声をかけると、ガルムは顔を上げなかった。

「老人は眠りが浅い」

「俺も眠れない」

「なら、お前も老人だ」

「三十二です」

「若いな」

「その言い方だと、あんたが百歳くらいに聞こえる」

「百なら若い」

 冗談を言ったようには見えなかった。

 返す言葉が止まる。

 ガルムは、懐中時計から目を上げない。

 灯りの下で、銀色の蓋に刻まれた紋様が淡く浮かんでいた。

「その時計」

「何だ」

「大切なんですね」

「ああ」

「誰かにもらった?」

「違う。昔から持っている」

「どれくらい昔から」

「お前が知る必要はない」

「隠されると、聞きたくなる」

「なら、一生聞いていろ」

 突き放すような言葉だった。

 だが、声にあったのは怒りではない。

 長く持ち続けたものへ、これ以上触れられたくない。

 そんな疲れに聞こえた。

 ガルムの親指が、蓋の紋様をなぞる。

 花とも、星とも見える模様。

 何度も触れられた部分だけが、滑らかになっていた。

 蓋の内側には、擦れた古い文字が刻まれている。

 俺には読めない。

 人の名前なのか。

 祈りなのか。

 作った職人の印なのか。

 分からなかった。

「何て書いてある」

「古い言葉だ」

「意味は」

「今のお前には関係ない」

「またそれですか」

「便利だからな」

 ガルムは蓋の内側から、止まった文字盤へ視線を戻した。

 二本の針は、少しも動いていない。

 これからも、同じ場所にあり続ける。

 俺は隣の椅子へ腰を下ろした。

 木が小さく軋んだ。


「ガルム」

「何だ」

「神って、本当にいたのか」

 ガルムの指が止まった。

 ほんの一瞬だった。

「いた」

「神殿が、そう言っているだけじゃなく?」

「いた」

「会ったことがあるような言い方だな」

「ある」

 返事が早かった。

 迷いもない。

 冗談を疑って、ガルムの横顔を見る。

 笑っていない。

「本気か」

「冗談を言う顔に見えるか」

「分かりにくい顔ですね」

「なら覚えておけ」

 ガルムは、止まった時計を見たまま言った。

「俺は、アルヴェを知っている」

 創造神アルヴェ。

 フィーナから聞いた名。

 五百年前に消えた神。

 祈っても戻らない存在。

 壁に描かれ、歴史の中に残されている名前。

 けれど、ガルムは遠い神話を語っているのではなかった。

 昔の知人を口にするように、その名を呼んだ。

 知っている。

 会ったことがある。

 その言葉が本当なら。

「いつ会った」

「神が消える前だ」

「五百年前?」

「ああ」

 否定しない。

 言い間違いでもない。

 五百年という時間を、昨日の出来事のように扱っている。

「待て」

「聞こえただろう」

「あんた、何歳なんだ」

「五百三十三だ」

 声が出なかった。

 ガルムが、ようやくこちらを見た。

「何だ」

「昨日は、年齢を忘れたって」

「忘れたことにしていると言った」

「ちゃんと覚えてるじゃないか」

「増え続けるものを毎年確認しても、面白くはない」

 ガルムは懐中時計の蓋を閉じた。

 カチリ。

 小さな音が、工房の中へ落ちた。

 周囲の時計は動いている。

 振り子が揺れ、歯車が回り、針が少しずつ進んでいく。

 ガルムの手の中にある時計だけが止まっている。

 目の前の男は生きている。

 呼吸もしている。

 声もある。

 大きな手には、体温もあるはずだ。

 それでも、目の前の男の時間の一部だけが、五百年前から動いていないように見えた。


「神が消えた日」

 ガルムは何も言わない。

「何があった」

 すぐには答えなかった。

 視線が、手元の灯りから外れる。

 工房の小さな窓。

 その向こうの夜空。

 星を見ているのか。

 星のない場所を見ているのか。

 俺には分からなかった。

 しばらくして、ガルムは空を見たまま口を開いた。

「多くのものが壊れた」

「多くのもの?」

「空も。魔力の流れも。神代から残っていた術式も」

 一度、言葉が止まる。

「人の記憶も」

 声は低い。

 感情を込めないように、必要な部分だけを削って話している。

「各地で魔法が制御を失った」

 ガルムの視線は、まだ夜空にある。

「止め方を知っていた者が、その方法を忘れた」

 時計の音が続く。

「家族の名を失った者もいた」

 カチ。

「自分が何者かを失った者もいた」

 カチ。

「街そのものが、残らなかった場所もある」

「世界中で?」

「ああ」

 五百年前。

 神が消えた。

 それは、一人の神がいなくなっただけの出来事ではなかった。

 人は、世界とともに、自分が誰なのかまで失った。

「アルヴェは」

 喉が乾いていた。

「何をしていた」

「止めようとしていた」

「何を」

「崩れていくものをだ」

「全部を?」

「少なくとも、あいつはそうしようとしていた」

 ガルムの視線が、夜空から時計へ戻る。

 それ以上は語らなかった。

 何が崩れようとしていたのか。

 アルヴェが何をしたのか。

 どうして消えたのか。

 ガルムが最後に何を見たのか。

 聞きたいことは増えた。

 答えは、ほとんど増えていなかった。


「それで、神殿が秩序を引き継いだ?」

「神殿だけではない。各地で、生き残った者たちが街を立て直した」

 ガルムは、閉じた懐中時計を作業台へ置いた。

「だが、神殿には、他の組織より多くのものが残っていた」

「何が」

「記録。術式。食料。結界」

 ガルムは、言葉を区切った。

「それに、人を守る騎士と、失われる記憶を保存する技術だ」

 今日、神殿の廊下で見た記憶瓶が浮かぶ。

 誰かの人生から切り離され、箱の中へ収められていたもの。

「誰が神殿をまとめた?」

「アシュ・カルテア」

「アシュ?」

「今の最高司祭だ」

「今の?」

「ああ」

 嫌な予感がした。

「まさか」

「そいつも、五百年前を知っている」

 ガルムの目が、わずかに変わった。

 怒りなのか。

 懐かしさなのか。

 後悔なのか。

 それらすべてなのか。

 俺には断定できなかった。

「混乱の中で、神殿は人を救った」

 ガルムは淡々と続ける。

「食料を配った。暴走する術式を止めた。街を守った。失われる記憶を保存した」

 今日見た神殿の光景と重なる。

 食事を配る神官。

 傷ついた人を運ぶ騎士。

 名前を書く子どもたち。

「最初は、生かすためだった」

 ガルムの手が、懐中時計の上に置かれる。

「残すためだった。同じことを、二度と起こさないためだった」

「それが、今の管理になった?」

「ああ」

「どうして」

「保存するために集めた。守るために制限した」

 ガルムは、言葉を重ねていく。

「制限するために規則を作り、規則を守るために力を持った」

 今日、神殿で感じた違和感が、言葉になっていく。

 救うために始まった。

 残すために集めた。

 守るために縛った。

「最初から支配するつもりだった?」

「違う」

 ガルムの返事に迷いはなかった。

「多くの間違いは、正しい理由から始まる」

 その言葉が、暗い工房へ残った。

 誰かを生かすこと。

 同じ惨事を繰り返さないこと。

 どちらも、間違っているとは言えなかった。

 それでも今、人は記憶を売り、神殿がその使い道を決めている。


「じゃあ」

 俺はガルムを見る。

「神は、なぜ消えた」

 答えはなかった。

「あんたは会っていた」

 ガルムの手は、時計の上に置かれたまま動かない。

「消えた日も見た。アルヴェが何かを止めようとしていたことも知っている」

 時計の音だけが続く。

「理由も、知っているんじゃないのか」

 カチ。

 カチ。

 カチ。

 俺は待った。

 ガルムは、懐中時計を手の中で握った。

「俺が見たのは、起きたことだけだ」

「理由は分からない?」

「アルヴェが何を考えていたのか、すべてを知っているわけではない」

「でも、何か考えている」

「ああ」

 ガルムは否定しなかった。

「俺なりの答えはある」

「聞かせてくれ」

「今は話さない」

「なぜ」

「お前は、まだこの世界を知らない」

「知らないから聞いている」

「先に一つの答えを聞けば、お前はそれだけを見る」

 ガルムの目が、まっすぐ俺へ向いた。

「自分で見ろ」

「何を」

「神殿も。人間も。魔法も」

 ガルムは、一つずつ言葉を置いていく。

「記憶を売った者も」

 老婆の顔が浮かぶ。

「奪った者も」

 淡く光る記憶瓶。

「失った者も」

 母の顔を思い出せないと話した、フィーナの横顔が浮かんだ。

「それから、俺の答えを聞け」

 ガルムが見たものと。

 ガルムがそこから出した答えは。

 同じではない。

 今は、それだけ分かった。


「いつかは、教えるつもりなんだな」

「お前が生きていればな」

「物騒だな」

「この世界で、明日を約束する方が無責任だ」

「それでも、人は約束する」

 ガルムの眉が、わずかに動いた。

「なぜだ」

「明日があると、思いたいからじゃないか」

 ガルムが初めて、俺を正面から見た。

「お前は、面倒なことを考える男だな」

「よく言われます」

「嘘をつけ」

「一度くらいは」

 言いながら、声が浮かんだ。

 生きる話をしない。

 そう言われた夜。

 明日も会おう。

 また話そう。

 あの頃の俺は、そんな言葉を受け取れなかった。

 それなのに今、自分の口から「明日」という言葉が出ていた。

 なぜなのかは、まだ分からない。

「あんたの答え以外に」

 俺は、ガルムの手の中の時計を見る。

「神が消えた理由を知る手掛かりは、残っていないのか」

「答えに近いものなら、カルテスに残っている」

「カルテス?」

 初めて聞く名だった。

「神殿を束ねる中央聖域だ」

「そこに何がある」

「神が消えた日に、封じられたものだ」

封じられたもの。

 神の遺物か。

 記憶か。

 術式か。

「それを見れば、理由が分かる?」

「分からん」

「またそれか」

「答えが一つとは限らん」

「じゃあ、カルテスってところへ行けばいいのか」

「今のお前が行っても、入口にすら辿り着けん」

「どうして」

「神殿の中枢だ。」

 ガルムは、俺を見た。

「魔力もない。身分もない。この世界のことも知らない」

「そんな人間が、知りたいと言って入れる場所ではない」

「なら、どうすればいい」

「生きろ」

「それだけ?」

「見ろ」

 ガルムの声が、暗い工房に落ちる。

「知れ」

 時計の音が続く。

「選べ」

 ガルムは、懐中時計を胸元へ戻した。

「その先に、まだ行く理由があるなら、いつか辿り着く」


 その時、工房の時計が新しい日を告げ始めた。

 一つ。

 少し遅れて、別の時計が鳴る。

 二つ。

 さらに奥で、三つ。

 それぞれ少しずつずれた鐘が、暗い工房の中へ重なっていく。

 日付が変わる。

 明日が、今日になる。

 俺は、ガルムの胸元を見た。

 工房のすべての時計が、少しずつ違いながらも、新しい時間へ進んでいる。

 その時計だけは、動かない。


「その時計」

 ガルムがこちらを見る。

「いつ止まったんだ」

「五百年前だ」

「神が消えた日に?」

 返事までに、わずかな間があった。

「……ああ」

 ガルムは、それ以上を話さなかった。

 なぜ止まったのか。

 止まった時、何を見たのか。

 どうして今も持ち続けているのか。

 分からない。

 ただ。

 目の前の男は、歴史を読んだのではない。

 神が消えた日を、生きていた。

 新しい日を告げる鐘の中で。

 ガルムの時計だけが、五百年前に取り残されていた。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


Scene15では、ガルムが五百年前に消えた神アルヴェと、その日に起きた出来事を語りました。


神殿は、人を救うために記憶を集め、守るために管理するようになりました。

けれど、善意から始まった仕組みが、長い時間の中で人を縛るものへ変わることもあります。


そしてソウルは、ガルムから一つの答えを与えられるのではなく、自分で見て、知って、選ぶよう促されます。


止まったガルムの時計。

動き始めたソウルの時間。


第2章「忘れても、愛は残るか」は、ここで一区切りです。


ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。


物語は、第3章「正義という名の暴力」

― 怒り・日常・思想対立 ―

Scene 16「浄化、と呼ぶ」へと続きます。

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