Scene 14 神殿の二つの顔
白い神殿を訪れる、ソウルとフィーナ。
そこでは、空腹の人へ食事が配られ、傷ついた者が治療され、親を失った子どもたちが、自分の名前を書いていた。
けれど、同じ神殿の中では、人の記憶が集められ、管理され、誰かのために使われている。
人を救う場所。
人の記憶を奪う場所。
どちらも、同じ神殿の姿だった。
Scene14「神殿の二つの顔」
善い人がいることと、その制度が正しいことは、同じではないのだと知る物語。
翌日の朝。
レンは、両腕で大きな籠を抱えて歩いていた。
籠の中には、黒いパンが隙間なく詰められている。
籠が大きすぎて、今日もほとんど前が見えていない。
その少し後ろを、ガルムが歩いていた。
ガルムの視線は、何度も籠へ落ちている。
「落としませんよ」
「何も言っていない」
「ずっと見ています」
「配給用の籠に、お前の失敗作が混ざっていないか見ている」
「入っていません!」
「昨日は入れようとした」
「捨てるのが、もったいなかったんです」
「食わせる相手を選べ」
俺は横から尋ねた。
「失敗したパンは、誰が食べるんだ」
「俺だ」
ガルムが短く答えた。
「おじいちゃんは、何でも食べます!」
「食わせているのはお前だ」
「美味しい時もあります!」
「時も」
フィーナが短く繰り返した。
「フィーナさんまで!」
レンが振り返った拍子に、籠が傾いた。
ガルムの手が伸びる。
籠の底を支え、すぐに離した。
「前を見ろ」
「まだ落としてません!」
「落としてからでは遅い」
レンは口を尖らせたが、今度は前を向いて歩いた。
会話をしている間にも、通りの先に白い建物が見えてきた。
中央市場から東へ離れた一角。
周囲の家々より高い石壁。
白い柱。
広い階段。
ヴェスタ中央部に見えた大神殿ほど大きくはない。
それでも、蔦の這う古い家並みの中では、そこだけが別の場所のように白かった。
ラグナ神殿。
記憶取引所の壁にあった紋章と、施療所の扉にあった紋章。
同じ印だと分かってはいても、俺の中で、まだ一つにつながってはいなかった。
神殿前の広場には、朝から長い列ができていた。
老人。
幼い子どもを抱いた母親。
服の擦り切れた労働者。
杖をついた男。
片腕を布で吊った女。
列の先では、神官たちが木の器へ粥をよそっている。
焼いた根菜。
黒いパン。
湯気の立つ白湯。
豪華な食事ではない。
それでも、今日一日を生きるための食事だった。
「何の列だ」
「配給だ」
「神殿が?」
「ああ」
「記憶を買っている神殿が、食事も配るのか」
「神殿は、記憶だけを扱う組織ではない」
施療所の扉の前でも、似たことを聞いた。
あの時フィーナは、世界は分かりやすくできていないと答えた。
列の先で、若い神官が小さな少年へ器を渡した。
少年の器には、ほかの者より少しだけ多く粥が入っている。
少年が気づき、神官を見上げた。
若い神官は周囲を確かめてから、何もなかったように、次の器へ手を伸ばした。
人の過去を切り離し、瓶へ収め、魔法の燃料として扱う場所を管理している組織。
その同じ紋章を胸につけた人間が、空腹の子どもへ、少しだけ多く食事を渡していた。
レンが配給所の机へ向かう。
途中で石畳の段差に足を取られかけ、籠を抱えたまま両足を踏ん張った。
パンは落ちなかった。
「間に合いました!」
「今日は転ばなかったな」
「成長しました!」
「昨日から一日しか経っていない」
「一日でも成長します!」
配給所の若い神官が、籠の中を確かめる。
目の下に薄い隈があった。
施療所で見た神官と、よく似た疲れ方だった。
「いつも助かるよ、レン」
若い神官が、籠を受け取りながら言った。
「今日は全部、配給用のパンです!」
「当たり前だ」
ガルムが横から返す。
「レンが焼いたものは?」
若い神官が尋ねた。
「入れていない」
「食べられますよ!」
「配給は実験ではない」
ガルムが言った。
「次は美味しくします!」
「工房へ戻ってから言え」
ガルムは、籠の端に紛れていた少し焦げたパンを一つ取り上げた。
形を確かめる。
配給の机には戻さず、自分の荷袋へ入れた。
レンはそれを見ていた。
何も言わなかった。
口元だけが、少し緩んでいる。
「俺は詰所へ行く」
ガルムが言った。
「騎士団に用があるんですか」
「修理品を受け取る」
「時計か」
「ああ」
「僕も行きます!」
「パンを運べ」
「もう運びました!」
「空の籠を工房へ戻せ」
「神殿も案内できます!」
「遊びに来たのか」
「違います!」
「なら働け」
ガルムは、レンの頭へ手を置きかけた。
だが、触れる直前で止まる。
そのまま、籠の持ち手を握り直させた。
「昼までに戻れ」
「大丈夫です!」
「その言葉を使うな」
「分かりました!」
「分かっていない」
ガルムは神殿の北側へ歩いていった。
レンは頬を膨らませながら、空になった籠を配給所の裏へ運んでいく。
神殿の中へ入るのは、俺とフィーナの二人になった。
白い階段を上る。
大きな扉の向こうは、思っていたより静かだった。
祈りの声。
水を汲む音。
石床へ響く足音。
壁には、神と人間を描いた古い絵が並んでいる。
中央に立つ一人の人物へ、人々が手を伸ばしていた。
あれが、創造神アルヴェなのだろう。
絵の中の神は、笑っても、泣いてもいなかった。
差し伸べられた無数の手を、何を考えているのか分からない顔で見下ろしている。
「礼拝に来たのではないだろう」
「ああ」
「なら、こっちだ」
フィーナは広間を横切り、建物の裏手へ向かった。
神殿の裏手には、小さな中庭があった。
十数人の子ども。
古い木の机。
平たい石板。
若い神官が、子どもたちへ文字を教えている。
石板に書かれているのは、難しい祈りの言葉ではなかった。
一人ひとりの名前だった。
「これで合ってる?」
「最後の線が反対だ」
「難しい」
「何度でも書けばいい」
神官は、石板を少女へ戻した。
「名前は、何度書いても減らないからな」
少女は、自分の名前をもう一度書いた。
今度は合っていたらしい。
神官が頷くと、少女は名前を書いた紙を大切そうに折りたたみ、服の内側へ入れた。
「孤児院もあるのか」
「親を失った者」
フィーナは中庭を見たまま答えた。
「親に忘れられた者。親自身が、自分を失った者」
フィーナの声が、ほんの少しだけ低くなった。
「理由はいろいろだ」
記憶取引所の前で見た母娘が、頭に浮かんだ。
母親の袖を掴み、自分が誰なのかを必死に伝えようとしていた子。
あの二人がその後どうなったのか、俺は知らない。
今も一緒に暮らしているのか。
それとも、あの子もいつか、この中庭へ来ることになるのか。
名前を書く。
自分が誰なのかを、文字として残す。
俺のいた世界では、子どもが最初に覚える当たり前の練習だった。
この世界では、それが、自分を失わないための準備になることがある。
神殿の北側へ回ると、詰所の方から数人の騎士が戻ってくるところだった。
泥のついた外套。
擦れた鎧。
血のにじんだ包帯。
その中の一人が、負傷した旅人を背負っている。
旅人の服に、神殿の紋章はなかった。
「北街道で魔獣に襲われた」
「こちらへ」
「先にこの人を」
「あなたも怪我をしています」
「歩ける」
騎士は、自分の傷を後回しにした。
病院で、何度も見た。
人を運び、誰かを支え、自分の傷を見ようとしない人間。
「神殿騎士は、魔獣を討つのも仕事なのか」
「ああ。街道や集落へ危険が及ぶならな」
「森で死んでいた狼も?」
「神殿に属する者が関わった可能性はある。だが、確かなことは分からない」
「神殿兵の刃に似てる、って言ってただろ」
「あの時は、刃の痕を見ただけだ」
フィーナは、詰所の方を見た。
「紋章も確認していない。兵の仕事か、騎士の仕事か。それすら分からない」
「兵と騎士は違うのか」
「神殿兵は、巡回や警備を担う。騎士は、魔獣討伐や住民の保護に出る」
「所属は同じなのか」
「ああ。同じ神殿に属し、同じ紋章をつけている」
「それでも、同じ命令で動くわけじゃない?」
フィーナは、負傷者を運んでいった騎士の背中へ目を向けた。
「神殿の人間がすべて、同じ命令で動いているわけではない」
「同じ組織なら、責任も同じじゃないのか」
「組織の責任と、個人の責任は同じではない」
「だが」
少しの間があった。
「無関係でもない」
「どっちなんだ」
「簡単に分けられないと言っている」
フィーナは俺を見た。
「お前はまだ、何も知らない」
反論しかけて、やめた。
負傷者を背負っていた騎士。
魔獣を討つ騎士。
命令に従う騎士。
同じ剣。
同じ紋章。
それだけで、同じ考えを持つ人間だと決めていいのか。
まだ、分からなかった。
騎士たちを見送った後、俺たちは再び神殿の中へ戻った。
礼拝の広間から離れた廊下には、いくつもの掲示板が並んでいた。
公認記憶取引所の価格表。
記憶瓶の搬入記録。
術式の使用許可証。
神殿印の押された帳簿。
職員が、記憶瓶を収めた木箱を慎重に運んでいく。
「取引所で買われた記憶は、全部ここへ来るのか」
「一部は、ラグナで使われる」
「何に」
「施療。結界。街道灯。食料や薬を保存する術式」
フィーナは歩きながら続けた。
「大半は、ヴェスタ中央神殿へ送られる」
「誰の記憶を、何に使うかも、神殿が決める?」
「ああ」
「売った本人には?」
「用途が知らされる場合もある。知らされない場合もある」
「それが認められているのか」
「記憶取引に関する規則は、神殿が定めている」
フィーナは、掲示板の許可証を目で示した。
「施設を認可するのも。術式の使用を許可するのも。記憶瓶の流通を管理するのも。違反を判断するのも、神殿だ」
「管理する側と、許可する側と、違反を決める側が、全部同じなのか」
「ああ」
「それは管理じゃなくて、独占だろ」
「そう呼ぶ者もいる」
「お前はどう思う」
フィーナは、すぐには答えなかった。
「技術がなければ、結界も、治療も、記憶障害者への支援も維持できない。管理が必要なのは事実だ」
「だから、一つの組織が全部持っていいと?」
「いいとは言っていない」
廊下の向こうで、記憶瓶の箱が傾いた。
職員の一人が慌てて支える。
箱の隙間から、淡い光が漏れた。
青。
金。
薄い赤。
一つひとつが、誰かの人生から切り離されたもの。
問題は、記憶を扱う技術があることだけではない。
誰が管理するのか。
誰が使い方を決めるのか。
誰が拒否できるのか。
間違った時、誰が止められるのか。
そのすべてが、一つの組織へ集まっていた。
神殿を出ると、階段の下ではまだ配給が続いていた。
さっきの若い神官が、同じ少年へ二杯目の粥を渡している。
旅人を背負ってきた騎士は、ようやく自分の腕を治療されていた。
中庭の子どもたちの声が、壁の向こうから聞こえてくる。
俺は、白い神殿を振り返った。
「分からないな」
「何が」
「人を助けてる。食事も配る。怪我人も治す。親のいない子どもも守る」
白い壁の向こうを思う。
「それなのに、同じ場所で、人の記憶を買ってる」
「矛盾しているか」
「矛盾してるだろ」
「人間は、一つの顔だけでは生きていない」
「神殿も人間か」
「人間が作ったものだ」
「善い人がいるなら、神殿は正しいのか」
「違う」
フィーナの答えに、迷いはなかった。
「善い人間がいることと、制度が正しいことは別だ」
「悪い制度なら、壊せばいい」
「壊した後」
フィーナは、配給の列を見た。
「食事を配るのは誰だ。怪我人を治すのは。街道を守るのは。孤児を育てるのは」
言葉に詰まった。
「壊すだけなら、簡単だ」
フィーナは静かに言った。
「その後を作る方が難しい」
階段の脇で、配給を受けた老婆が、俺たちの話を聞いていた。
黒いパンを、胸に抱くように持っている。
「神殿がなければ」
老婆は言った。
「私は去年の冬に死んでいたよ」
返す言葉が見つからなかった。
「息子が記憶を売った。その金で、私の薬を買った」
老婆は、パンを抱く手に少しだけ力を込めた。
「今は、私のことを覚えていない」
「それで……」
聞き方を選ぶ前に、言葉が出ていた。
「よかったんですか」
口にしてから、間違えたと思った。
よかったか。
悪かったか。
そんな二つで決められる話ではない。
老婆は、怒らなかった。
「よかったかどうかなんて、今でも分からない」
「息子が何か大切なものを失うかもしれないことは、分かっていたつもりだった」
「でも、私が死ぬのを、あの子は選べなかった」
老婆は、少しだけ黙った。
「ただ、あの時は、あの子にとってそれしかなかったんだと思うよ」
老婆は、少しだけ目を伏せた。
「やさしい子だよ」
老婆はそれ以上何も言わず、階段を下りていった。
食事を持つ手。
息子に忘れられた母親の手。
どちらも、同じ一人の人間のものだった。
正しいことだけでは生きられない。
記憶取引所の前で聞いた、フィーナの言葉が戻ってくる。
正しくないと分かっていても。
何かを失うと分かっていても。
それしか選べない時がある。
問題は、選んだ人間だけにあるのではない。
それしか選べない場所へ追い込んだもの。
選ばなくても生きられる道を、用意しなかったもの。
そこにも、あるのかもしれない。
神殿の門を出る手前で、先ほどの若い騎士が立っていた。
二十代半ばほど。
胸には神殿騎士の紋章。
負傷した腕に、新しい包帯が巻かれている。
そこへ、空の籠を抱えたレンと、ガルムが戻ってきた。
レンが騎士へ手を振る。
「リオルさん!」
「レン。今日は転んでいないな」
リオルが空の籠へ目を向けた。
「成長しました!」
「一日でな」
俺が言うと、レンは胸を張った。
「そうです!」
リオルと呼ばれた騎士が、俺へ軽く会釈した。
「レンが話していた人か。森で行き倒れていたと聞いた」
「行き倒れ……」
「事実だ」
フィーナが即答する。
「拾われた、までは認めてたけどな」
「僕が話しました!」
「半分はお前の声で広まった」
ガルムが言った。
「半分だけです!」
「そこは認めるんだな」
リオルが小さく笑った。
「リオルだ。神殿騎士団のラグナ詰所にいる」
「ソウルです」
差し出された手には、細かな傷が残っていた。
握る力は強いが、こちらを試すような手ではなかった。
通りかかった住民たちが、次々にリオルへ声をかけていく。
壊れた柵のこと。
戻らない荷車のこと。
夜の街道で聞こえた魔獣の声のこと。
リオルはそのたびに足を止めた。
話を遮らない。
最後まで聞く。
覚えておく、と答える。
信頼されていることが、言葉ではなく伝わってきた。
その時、神殿の職員がリオルへ近づいた。
差し出されたのは、封蝋のされた一通の書状。
封には、見慣れない紋章が押されていた。
ラグナ神殿のものより、装飾が多い。
「ヴェスタ中央神殿」
フィーナが小さく呟いた。
「上層部からです」
職員が言った。
リオルは書状を受け取った。
封を確かめた瞬間、表情が、ほんのわずかに硬くなった。
「どうかしたんですか」
レンが見上げる。
「いや。何でもない」
「大丈夫ですか」
リオルの返事が、少し遅れた。
「……ああ」
リオルは、書状から目を上げた。
「大丈夫だ」
大丈夫。
レンがよく使う言葉だった。
平気な時より、平気ではない時に口へ出る言葉。
ガルムが、リオルを一度だけ見た。
何も言わなかった。
リオルは書状を折り、胸元へ収めた。
中身は見えない。
ただ、さっきまで住民へ向けられていた表情は、戻らなかった。
神殿の鐘が鳴った。
配給の終わりを知らせる鐘。
施療の時間を知らせる鐘。
祈りの時間を知らせる鐘。
そして、記憶瓶の搬送を知らせる鐘。
同じ音が、人を救うためにも、人の記憶を運ぶためにも鳴る。
神殿は、人を助けている。
神殿は、人の記憶を管理している。
どちらかが嘘なのではない。
たぶん、どちらも本当だった。
白い神殿は、昼の光の中でも、長い影を落としていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
Scene14では、ソウルとフィーナが、ラグナ神殿を訪れました。
そこでは、空腹の人へ食事が配られ、傷ついた者が治療され、親を失った子どもたちが、自分の名前を書くことを教えられています。
人を助ける神官。
傷ついた旅人を背負う騎士。
住民の声に耳を傾けるリオル。
神殿には、確かに人を救おうとする者たちがいました。
けれど、その一方で、神殿は、人の記憶を集め、管理し、誰の記憶を、何のために使うのかを決めています。
人を救う仕組みと、人の大切なものを奪う仕組み。
その二つは、別々の場所にあるのではありません。
同じ神殿の中にあります。
善い人がいることと、その制度が正しいことは、同じではありません。
けれど、悪い制度だからといって、ただ壊せばよいとも限りません。
その仕組みによって、今日の食事を受け取る人がいます。
治療を受ける人がいます。
守られている道や、育てられている子どもたちがいます。
壊した後に、誰がその役割を引き受けるのか。
フィーナの言葉は、ソウルに、正しさだけでは答えられない現実を突きつけました。
そして、息子に忘れられた老婆は言います。
あの時、息子には、それしかなかったのだと思う。
やさしい子だよ、と。
記憶を失っても、相手を想う気持ちまで、すべて消えるわけではない。
その言葉は、第2章で描いている、「忘れても、愛は残るか」という問いへ、静かにつながっています。
神殿は、人を助けています。
神殿は、人の記憶を管理しています。
どちらかが嘘なのではなく、どちらも本当です。
だからこそ、簡単に善悪だけでは分けられません。
白い神殿が落とす長い影の先で、ソウルは、正しさとは何かを考え始めます。
次は、第2章 Scene15「五百年を知る者」へと続きます。




