Scene 13 時計を直す男
古い時計工房を訪ねる、ソウルとフィーナ。
そこには、
それぞれの速さで時を刻む、
たくさんの時計があった。
その中で、
ガルムが大切にする、
ひとつだけ動かない時計。
それは、
何を残しているのか。
忘れること。
忘れられること。
どちらも、
失うことに変わりはない。
動かない時計のそばで、
新たな時が刻まれていく。
Scene13「時計を直す男」
忘れた者もまた、
失った側なのだと知る物語。
翌日の昼。
俺とフィーナは、ラグナ街区の西側を歩いていた。
中央市場から離れるにつれ、行き交う人の数が減っていく。
屋台の呼び声。
荷車が石畳を軋ませる音。
焼いた肉と香辛料の匂い。
それらが少しずつ遠ざかり、代わりに金属を叩く小さな音が、建物の隙間から聞こえてきた。
古い石壁と低い屋根が並び、窓辺には大小の工具が置かれている。
職人たちが暮らす一角らしい。
フィーナは迷うことなく、細い路地へ入った。
「工房へ行く道で合ってるのか」
「ああ」
「人の家の裏側にしか見えない」
「表だ」
「狭すぎるだろ」
「お前が大きい」
「ガルムの方が大きいだろ」
「あれは邪魔だ」
「本人の前で言うなよ」
「本人にも言っている」
路地の奥に、古い二階建ての建物があった。
石壁には、長い年月をかけて風雨に削られた跡が残っている。
軒先には、丸い文字盤と二本の針を模した金属製の看板が下がっていた。
風に揺れるたび、かすかな音を立てている。
フィーナが木の扉を開けた。
扉の上に取りつけられた鐘が鳴る。
ガラン。
中へ足を踏み入れた瞬間、いくつもの音が一度に耳へ入ってきた。
カチ。
カチ。
カチ。
規則正しい音。
少し遅れた音。
急ぐような音。
途中で止まり、しばらくしてから思い出したように動き始める音。
壁掛け時計。
置時計。
懐中時計。
大きな振り子時計。
針のないもの。
文字盤の割れたもの。
歯車が露出したもの。
店の中にある時計は、どれも同じ時間を指していなかった。
それでも、それぞれが自分の速さで時を刻んでいる。
窓から差し込む昼の光が、空気中の細かな埃を照らしていた。
金属と油。
古い木。
わずかに焦げた匂い。
店の中央には、大きな作業台が置かれている。
その向こうで、ガルムが小さな歯車を扱っていた。
太い指と大きな手。
その手には不釣り合いなほど、細い工具。
ガルムは顔を上げなかった。
「うるさい」
「まだ何も言ってません」
「入ってきた」
「入っただけで?」
「扉が鳴った」
「それは工房の鐘でしょう」
「お前が開けた」
「フィーナです」
隣から鋭い視線が刺さった。
「押しつけるな」
「二人ともうるさい」
フィーナは短く息を吐き、店の奥へ入った。
「ガルム」
「何だ」
「昨日の話だ」
「昨日?」
「ソウルのことだ」
「もう忘れた」
「昨日会ったばかりですよ」
「忘れたことにしている」
「面倒なんですね」
「ああ」
ガルムは、ようやく工具を置いた。
椅子に座ったまま、俺を見る。
顔。
服。
両手。
立ち方。
病院で医師が患者を診る時とも違う。
敵を警戒するフィーナの視線とも違う。
何かを測るというより、知っているものと、知らないものを分けているような目だった。
「前にいた場所のことは、覚えているのか」
「はい」
「名前は」
「柳井蒼」
一度、言葉を切る。
「今は、ソウルと呼ばれてますけど」
「ソウルだ」
フィーナが即座に訂正した。
「まだ諦めてない」
「どうでもいい」
「少しくらい興味を持ってください」
「持っているから聞いている」
興味があるようには見えない。
だが、視線は俺から外れていなかった。
「身体に違和感は」
「今のところは」
自分の手を見る。
指の長さ。
皮膚の感覚。
身体を動かした時の重さ。
「少なくとも、見た目も感覚も、前と大きく変わってはいません」
「痛みは」
「森を歩き回った後なんで、筋肉痛くらいは」
「弱いだけだ」
フィーナが横から言った。
「ろくに休めないまま森を歩かされたんだぞ」
「休まなかったのか」
「休めなかったんです」
「身体に悪い」
「知ってます」
「前にいた場所でもか」
「仕事の時は」
「馬鹿だな」
「否定できないのが悔しいですね」
ガルムは鼻を鳴らし、フィーナへ視線を向けた。
「本当に魔力はないのか」
「ああ。何度調べても反応はなかった」
「残響は」
「森狼に触れた時に起きた。本人の意思では使えない。そもそも、魔法かどうかも分からない」
「そうか」
それだけだった。
驚かない。
すぐに答えを出そうともしない。
「何か分かるんですか」
「分からん」
「早いですね」
「分からないものを、考えたふりで埋めても仕方がない」
言い方は突き放している。
だが、知らないことを、もっともらしい言葉で飾らない。
その点だけは、信用できる気がした。
「転生者について、何か知ってるんじゃないんですか」
「世界の外から来たとされる者の記録はある」
「他にもいた?」
「記録が正しければな」
「正しくないんですか」
「古い記録だ。事実と伝承が混じっている。身体ごと現れたとも、夢で別の世界を見たとも書かれている」
「神殿の記録か」
フィーナが尋ねた。
「一部はな。神殿が保管するより古い記録もある」
ガルムの声は変わらない。
けれど、古いという言葉の重さが、俺の知っている時間とは違うように聞こえた。
「俺と同じかは、分からない?」
「ああ。そもそも、どこまでが事実かも分からん」
「役に立たない記録ですね」
「古い記録は、だいたいそういうものだ」
ガルムは一度だけ、作業台へ視線を落とした。
「役に立たないからといって、なかったことにはできんがな」
なかったことにはできない。
昨日、丘でフィーナへ言った言葉が戻った。
忘れたことまで、なかったことにはしたくない。
「俺がなぜここに来たかも」
「分からん」
「なぜ生きているかも」
「分からん」
「魔力がない理由も」
「分からん」
「何も分からないじゃないですか」
「だから調べる」
「誰が」
「お前が」
「俺ですか」
「自分のことだろう」
「少しは手伝ってください」
「気が向いたらな」
その時、店の奥から小さな金属音がした。
何かが床を転がり、木箱へ当たる。
「あっ」
聞き覚えのある声。
ガルムの眉間に、深い皺が刻まれた。
「触るなと言った」
「触ってません!」
「では、なぜ落ちた」
「時計が自分で動きました!」
「時計は歩かん」
「転がりました!」
「同じだ」
レンが、店の奥から現れた。
頬に油汚れ。
袖口にも黒い染み。
片手には小さな布。
もう片方には、外れた時計の蓋を持っている。
「何してるんだ」
「お手伝いです!」
「邪魔だ」
「お手伝いです!」
「壊している」
「まだ壊れてません!」
「蓋が外れている」
「最初からです!」
「今、外れた音がした」
「難しいです」
ガルムはレンの手から時計の蓋を取り上げた。
作業台の端に置かれていた先の尖った工具も遠ざけ、代わりに柔らかい布を渡す。
「これを磨け」
「任せてください!」
「力を入れるな」
「大丈夫です!」
「その言葉を使うな」
「どうしてですか」
「信用できん」
「同感です」
俺が言うと、レンがこちらを振り向いた。
「ソウルさんまで!」
「怪我をしたまま、大丈夫って言ったからな」
「あれは大丈夫でした!」
「血が出てた」
「少しです!」
「大丈夫ではない」
ガルムが低く重ねた。
「二人とも厳しいです」
レンが頬を膨らませた。
ガルムは、レンの頬についた油汚れを見る。
手を伸ばしかけ、途中で止めた。
代わりに、新しい布をレンへ投げる。
「顔を拭け」
「どこですか」
「全部だ」
「そんなについてません!」
「ついている」
フィーナが淡々と答えた。
「フィーナさんまで!」
ガルムはレンを褒めない。
心配しているとも言わない。
危険な道具を取り上げ、安全な仕事を渡し、汚れを拭く布を投げた。
レンは文句を言いながら、その布で頬を拭いた。
やがて、渡された布で時計の蓋を磨き始める。
最初は丁寧に。
しばらくすると、少しずつ腕へ力が入っていく。
「力を入れるな」
「入れてません!」
「入っている」
「やり直せ」
「まだ終わってません!」
レンは頬を膨らませながらも、布を持つ指の力を弱めた。
それから、フィーナへ顔を向ける。
「フィーナさん」
「何だ」
「今度、僕のパンを食べに来てください」
「なぜ私が」
「友達だからです!」
「いつ友達になった」
「昨日です!」
「昨日は、お前がソウルに名乗っただけだ」
「でも、もう友達です!」
「勝手に決めるな」
「友達、少ないだろ」
俺が言うと、フィーナが睨んだ。
「黙れ」
「僕がいます!」
「知っている」
レンが目を見開く。
「今、友達って認めました?」
「認めていない」
「でも、知っているって言いました!」
「お前が勝手に来ることを、知っているだけだ」
「それでもいいです!」
レンは明るく笑った。
フィーナの口元が、ほんの少しだけ動く。
昨日、丘で見たものより自然だった。
笑顔と呼べるほどではない。
ただ、レンのいる場所では、警戒を少しだけ下ろしているように見えた。
レンがそれに気づき、何かを言いかける。
「それで」
俺は、その前に声を挟んだ。
「パンは焼けるようになったのか」
「練習中です!」
「まだ食えん」
ガルムが作業台から言った。
「食べられます!」
「食えることと、美味いことは違う」
「今度は美味しくします!」
「今度は?」
「前のことは忘れてください!」
「都合よく記憶を消すな」
フィーナの返しに、レンが肩を落とした。
「次は大丈夫です!」
「信用できん」
ガルムが即座に言った。
レンの声が、時計の音に混じる。
カチ。
カチ。
カチ。
会話が途切れた。
工房の中には、再び時計の音だけが残る。
俺は作業台へ目を向けた。
細かな工具。
歯車。
文字盤。
分解された時計。
その端に、一つだけ、蓋の閉じた懐中時計が置かれていた。
修理中の時計とは違う。
周囲に工具はない。
外された部品もない。
その時計の周りだけ、何かを避けるように、作業台の一角が空けられていた。
銀色の蓋には細かな傷が無数に走り、花とも星とも見える古い紋様が刻まれている。
長い間、何度も人の手に触れられてきた跡。
「それも修理品ですか」
「違う」
「動いてないみたいですけど」
「知っている」
「直さないんですか」
「直らん」
「部品がない?」
「そういう壊れ方ではない」
ガルムは懐中時計へ手を伸ばした。
扱いは丁寧だった。
レンから工具を取り上げた時とも、小さな歯車を扱っていた時とも違う。
壊れやすいものを持つというより、傷つけてはいけないものへ触れるような手つきだった。
ガルムが蓋を開く。
文字盤。
二本の針。
針は、同じ場所で止まっている。
工房の時計がそれぞれの音を鳴らす中で、その時計だけが沈黙していた。
「動かないのに」
レンが、ガルムの手元を覗き込む。
「どうして、いつもそこへ置いてるんですか」
「邪魔にならんからだ」
「毎日見てますよね」
「見ていない」
「見てます」
「見ていない」
「どっちなんですか」
「見ている」
フィーナが答えた。
「お前らは黙れ」
ガルムは、止まった針へ目を落とした。
誰かを待っているようにも、過ぎた時間を確かめているようにも見えた。
「時計屋でも、直せない時計があるんですね」
「時計屋だから分かる」
「何が」
「直せるものと」
ガルムは、止まった文字盤を見たまま言った。
「直せないものだ」
その言葉が、胸の奥へ残った。
病気。
記憶。
死。
直せないと分かっていても、何かできることはないかと探し続けた。
それでも、最後まで直せなかったものの方が多い。
「直らないと分かっていても」
俺は時計を見ながら尋ねた。
「持っているんですね」
「ああ」
「捨てない?」
「捨てる理由がない」
「動かないのに」
「動くことだけが、残しておく理由ではない」
ガルムは、それ以上説明しなかった。
いつ止まったのか。
なぜ直らないのか。
なぜ、捨てずに持っているのか。
聞いても、今は答えない気がした。
ガルムは、懐中時計を閉じなかった。
止まった針が、昼の光を小さく返している。
昨日の丘で、フィーナが見せた記憶帳を思い出した。
母の名。
髪の色。
歌。
煮込んだ林檎。
私は母を愛していた。
文字には残っている。
けれど、愛していた自分を、フィーナは思い出せない。
俺は一度、フィーナへ視線を向けた。
フィーナも、止まった時計を見ていた。
何を考えているのかは分からない。
本人を前にして、本人の記憶を第三者へ解説させるような聞き方はしたくなかった。
「ガルム」
「何だ」
「誰かに忘れられた時」
言葉を探す。
「忘れられた側は、どう受け止めればいいんでしょう」
「知らん」
「即答ですね」
「受け止め方まで、他人が決めることではない」
「じゃあ」
もう一度、フィーナを見る。
フィーナは何も言わない。
「忘れた人間は」
「忘れたことで、責められても仕方がないんですか」
「選んで忘れたのか」
「違います」
「なら、責める相手が違う」
「誰を責めればいい」
「それも知らん」
ガルムの目は、止まった時計から離れない。
「魔法か」
「記憶を奪った人間か」
「そうしなければ生きられない仕組みか」
低い声が続く。
「答えは、一つではないだろう」
「忘れたら」
喉の奥が、わずかに詰まる。
「何も残らないんですか」
「知らん」
「またですか」
「知らんことを、知っているふりはできん」
ガルムの親指が、懐中時計の縁をなぞる。
「消えるものもある」
「残るものもある」
「だが」
「大切だから残るとは限らん」
「大切だから」
「燃えることもある」
フィーナの指が、左目の下の傷へ触れた。
昨日も、同じことを聞いた。
大切な記憶は、強い感情と結びついている。
だからこそ、魔法に引かれ、失われることがある。
「じゃあ」
「どうすればいいんですか」
「知らん」
「そればかりですね」
「分からんものは分からん」
ガルムは、そこで初めて顔を上げた。
「ただ」
「忘れた者を責めるな」
「そいつも」
「失った側だ」
フィーナが、わずかに目を伏せた。
フィーナは、母親の顔を思い出せない。
声も。
手の温かさも。
忘れたくて、忘れたわけではない。
忘れたことで、フィーナ自身も失っている。
記憶は戻らない。
それでも、母を愛していたという事実まで、消えてしまうのだろうか。
記憶がなくなっても、愛は残るのか。
俺には、まだ分からなかった。
工房の奥で、大きな置時計が時刻を告げた。
一つ。
二つ。
三つ。
少し間を置いて、四つ。
ガルムは音を数えるように目を閉じた。
最後の音が消えた後も、しばらく目を開けなかった。
忘れた者も、失った側だ。
あの言葉は、知識だけで言えるものには思えなかった。
「長く生きてきた人の言い方ですね」
「お前よりはな」
「それは見れば分かります」
「なら聞くな」
「どれくらい長いんですか」
「忘れた」
「嘘だ」
フィーナが口を挟んだ。
「忘れたことにしている」
「さっきも聞きましたね」
「便利だからな」
「忘れたことにするのが?」
「ああ」
「本当に忘れるのとは、違いますよ」
「分かっている」
返事だけが、それまでより少し低かった。
ガルムは懐中時計の蓋を閉じた。
カチリ。
動いていない時計から、その時だけ音がした。
ガルムは時計を胸元へ戻した。
動作は、妙に丁寧だった。
レンが、磨いていた時計の蓋を持ち上げる。
昼の光を受け、表面が少しだけ明るくなっていた。
「できました!」
「まだ汚れている」
「さっきより綺麗です!」
ガルムは蓋を一度だけ光へかざした。
「さっきよりはな」
「褒めました?」
「褒めていない」
「でも、さっきより綺麗って言いました!」
「事実だ」
「それでも嬉しいです!」
「やり直せ」
「厳しいです!」
「パンより時計の方が、向いてないんじゃないか」
俺が言うと、レンは胸を張った。
「僕はパン屋になります!」
「なら、時計を壊すな」
ガルムは磨かれた蓋をレンへ戻した。
「壊してません!」
「蓋を外した」
フィーナが指摘する。
「外れただけです!」
「結局、外れたことは認めるんだな」
「次は大丈夫です!」
「信用できん」
ガルムが即座に返した。
「二人とも、同じことばかり言います!」
レンが頬を膨らませる。
フィーナの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
俺もレンも、今度は何も言わなかった。
口にすれば、その小さな変化まで消えてしまいそうだった。
工房の中に、いくつもの時計の音が重なっていた。
進み続けるもの。
遅れているもの。
直されるもの。
動き出す時を待つもの。
時間の進み方は、それぞれ違う。
止まったままでも。
失われたままでも。
残るものは、あるのかもしれない。
ガルムの胸元で眠る時計が、その答えを知っているような気がした。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
Scene13では、ソウルとフィーナが、古い時計工房を訪れました。
そこには、進む時計も、遅れる時計も、止まったままの時計もあります。
けれど、ガルムが大切にしている懐中時計は、直せないから残されているのではありません。
止まった時ごと、失ったものを抱えているからこそ、捨てられずにいる時計です。
忘れること。
忘れられること。
忘れられた側にとっては、自分だけが取り残されたように感じることがあります。
けれど、忘れた者もまた、かけがえのないものを失っています。
ガルムの言葉によって、ソウルは、忘れられる側の痛みだけではなく、忘れてしまう側の痛みに触れました。
壊れたものを、すべて元どおりにできるとは限りません。
止まった時計が、もう一度動き始めるとも限りません。
それでも、止まった時の横で、新たな時は刻まれていきます。
過去を取り戻すことではなく、今ここから、新しい関係をつくっていくこと。
第2章で描いているのは、失われた記憶の中に、何が残るのかという問いです。
ガルムの時計は、動きません。
けれど、その工房では、ソウルとフィーナとレンの時間が、確かに動き始めています。
次は、第2章 Scene14「神殿の二つの顔」へ。




