第三章 欠けた息 1
今日から3章です。
三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。
この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか。
二〇二六年十月十六日〜十七日 東京
「被害者は、殴られてから少なくとも二十分は、生きていました」
監察医の言葉に、目白署の会議室が静まり返った。
十月十六日、午前九時。捜査本部の設置からまだ一日と経っていない部屋には、急ごしらえの長机が並び、ホワイトボードには氷室邸の見取り図と、関係者の名前が貼り出されていた。
久我慎一郎は最前列で腕を組んだまま、監察医の説明を聞いていた。
「後頭部の損傷は二か所。一つ目は大理石のブックエンドによる打撃で、頭蓋骨に線状の骨折があります。二つ目は、倒れた際にチェンバロの木枠の角に打ちつけたもの。どちらも致命傷になり得ますが、即死ではありません。硬膜外の出血がゆっくり進んで、意識を失い、そのまま亡くなったと考えられます」
「意識があった時間は」
久我が尋ねた。
「出血の量から見て、二十分から、長ければ四十分。硬膜外の出血だけなら、もっと長く意識が保たれることもあります。ただ、この方は脳挫傷を伴っているので、進行が速かったと考えられます。それに、ずっと明瞭だったとは言えません。朦朧としながら、手を動かすくらいはできたでしょう」
「鉛筆で字を書くことは」
「短い文なら、可能です」
「では、パソコンを操作して、メールを打つことは」
監察医は少し間を置いた。
「……否定はできません。ただ、あの状態で椅子に座り、机に向かい、キーボードで英文を打ち、送信するというのは、正直に言って考えにくい。まして、そのあとで、また床に戻って倒れるというのは」
会議室の空気が、わずかにざわめいた。
「死亡推定時刻は」
「胃の内容物と、室温、死後硬直の進み方から、十月十四日の二十一時から二十三時半のあいだ。これ以上は絞れません」
ホワイトボードの前に立った管理官が、赤いマーカーで時刻を書き込んだ。
二十一時〜二十三時半。
その横に、もう一行。
二十三時十分 被害者のPCから妻・冴子宛にメール送信。
「つまり」
管理官が、マーカーの蓋を閉めた。
「このメールを本人が送ったのなら、殴られたのは二十三時十分以降。本人が送っていないなら、誰かがあの部屋にいて、被害者のPCを操作した。どちらかだ」
久我は手元の資料に目を落とした。メールの文面を印刷した紙が、一枚挟まっている。
件名は、なかった。
本文は、二行だけだった。
Remember me, but forget my fate.
冴子、すまない
「妻宛のメールで、すまない、と謝っている」
管理官が続けた。
「自殺を装う意図にも見えるが、頭の傷は自分でつけられるものではない。とすれば、夫婦のあいだで、何か謝らなければならない事情があった。——久我。妻の聴取は、お前が行け」
「はい」
鑑識の係長が、手元の資料を読み上げた。
「もう一点。台所の水切りかごに、客用のカップが二つ、洗って伏せてありました。取っ手の向きが、きれいに揃えてある。指紋は、拭き取られています」
管理官が、眉を上げた。
「被害者が、客を迎えていたということか」
「その可能性があります」
久我は紙を二つに折った。
英語の一文。女王の最後の歌の歌詞だと、昨日あのチェリストが言っていた。
私を覚えていて。けれど、私の運命は忘れて。
◇
同じ日の午後、早瀬奏は久我の運転する覆面車の助手席に座っていた。
「音楽の専門的なことで、助言が欲しいんです」
昼過ぎに久我から電話があったとき、奏は自分のアパートでチェロを抱えたまま、ぼんやりと窓の外を見ていた。
「第一発見者に協力を頼むのは、本来あまり褒められたことではない。ですが、あの楽譜を読める人間が、うちにはいない」
車は、目白通りを西へ向かっていた。雲の低い午後で、フロントガラスに時おり細かい雨粒が当たった。
久我は信号待ちのたびに、ハンドルの縁を人差し指で四つずつ叩いていた。考えごとをするときの癖なのだと、あとで本人が言った。
「一つ、先にお伝えしておきます」
ハンドルを握ったまま、久我が言った。
「楽譜の余白の書き込みですが、筆跡鑑定の担当が、面白いことを言っていました」
奏は膝の上で指を組んだ。
「余白の一行は、ひどく乱れている。線は震え、何度も途切れている。死にかけた人間の字です。ところが、その一行の中で、一か所だけ、筆圧が違う」
信号が赤に変わり、車が止まった。
「『バッサカリア』の、最初の文字の濁点です。二つの点が、ほかの線よりもはっきりと強く押しつけて書かれている。紙の裏にまで、跡が残っていた。担当者の言い方を借りれば、『震える手で、わざわざ力を込めて打った点』だそうです。——ああ、それから五線の上に散っていた鉛筆の汚れのようなものは、書き込みの鑑定の対象外として、記録だけしてあるそうです」
奏は息を止めた。
信号が青に変わった。久我はアクセルを踏みながら、前を向いたまま言った。
「早瀬さん。昨日、あなたはあの字を、パッサカリアのことだと言った。でも、あのとき、何か言いかけてやめましたね」
奏は黙っていた。
フロントガラスのワイパーが、一度、雨粒を払った。
「……先生は、字を間違えない人でした」
奏はようやく言った。
「論文の誤植一つで、編集者と一週間口をきかなかった人です。学生のレポートで、パッサカリアをパッサカリヤと書いた子がいたら、授業の最初に読み上げる人でした。その人が、死ぬ間際に、自分の口癖を書き間違えるはずがない。昨日、それを言えなかったのは……言ったら、先生が本当に死んだことになる気がして」
「なるほど」
久我はそれ以上は何も聞かなかった。
「でも、震える手で、わざわざ力を込めて点を打ったのなら」
奏は窓の外の雨を見た。
「間違いじゃない。先生は、わざと『バ』と書いたんです」
「誤記ではなく、メッセージだと」
「はい」
久我は小さく頷いた。
「では、そのメッセージを読みましょう。そのために、あなたを呼んだ」
奏は膝の上で組んでいた指をほどいた。ワイパーが、また一度、雨を払った。
◇
氷室邸の書斎は、昨日と同じ静けさの中にあった。
遺体のあった場所には、白いテープで人の形が描かれている。チェンバロの蓋は閉じられ、鑑識の番号札も片付けられていた。窓際の机のノートパソコンは、証拠品として押収され、机の上には四角い埃の跡だけが残っていた。
「メールの送信記録は、いま解析に回しています」
久我が言った。
「送信は二十三時十分。送信元は、このパソコンにインストールされたメールソフト。パスワードは、被害者が手帳に書き留めていた。つまり、この部屋に入れた人間なら、誰でも送れたということです」
奏は書棚の前に立った。
大理石のブックエンドは、もう片方だけが棚に残っていた。対になっていたもう一つは、証拠品として持ち去られている。支えを失った楽譜の束が、斜めに倒れかかっていた。
その束の背表紙に、奏は見覚えのある文字を見つけた。
「刑事さん。これ、触ってもいいですか」
久我が、白い手袋を差し出した。
奏が引き出したのは、厚手の紙挟みだった。表に、氷室の几帳面な字で「Chelsea MS ―― 検討用」と書かれている。中には、高精細の写真を印刷した紙が、数十枚綴じられていた。
「チェルシー写本の、複製です」
奏は一枚目をめくった。
黄ばんだ紙の写真だった。十七世紀の手書きの五線に、茶色く褪せたインクで音符が並んでいる。表題はない。だがページをめくっていくと、見覚えのある旋律が次々と現れた。序曲。ベリンダの歌。魔女たちの合唱。
そして、最後の数枚。
When I am laid in earth.
奏は息を詰めてそのページを見つめた。
低音の五線に、あの六つの下降音が、繰り返し書き写されている。写譜師は、繰り返しの記号で省略していなかった。すべての回を、律儀に書き出していた。符頭の丸みも、符尾の傾きも、驚くほど揃っている。インクの濃淡のむらもほとんどない。行の端から端まで、まるで定規を当てたように整っていた。
美しい、と奏は思った。
そして同時に、背筋のどこかが、冷たくなった。
「どうしました」
久我が、奏の顔を覗き込んだ。
「……きれいすぎるんです」
奏は写真の縁を指でなぞった。
「十七世紀の写譜師は、みんな人間です。インクが途中で薄くなったり、ペン先が紙に引っかかって染みができたり、書き間違えて消した跡が残ったりする。先生の研究室で、その時代の写本の複製を何十冊も見てきました。どれも、もっと……汚いんです。生きている手の跡がある。でも、これには、それがほとんどない」
「偽物だ、と?」
「わかりません。上手な写譜師なら、こう書けるのかもしれない。でも、先生はこれを見て、同じことを感じたんだと思います」
奏は紙挟みの最後のページをめくった。
そこには写真ではなく、氷室の手書きのメモが一枚、挟まっていた。
鉛筆で、数字が二列に書かれている。
左の列には、1から11までの数字。右の列には1から10までの行に、小さな「・」の印が一つずつつけられていた。11の行だけが、空欄だった。そして「・」の列の一番上に、疑問符が一つ、書き添えられていた。
そして紙の一番下に、一行。
「W. ――照合要」
「W?」
久我が、覗き込んだ。
「何の略でしょう」
奏は首を振った。
「わかりません。でも、この1から11は、たぶん……」
奏は昨日の楽譜を思い出していた。グラウンドの頭に振られた、1から11の番号。
「低音の、繰り返しの回数です。先生はこの写本の低音を、一回ずつ何かと比べていた」
久我はメモの写真を撮った。
「比べる相手が、W、というわけですね」
書斎を出て、玄関で靴を履きながら、久我がふと尋ねた。
「早瀬さんは、どうして氷室さんの弟子に?」
奏は靴紐を結ぶ手を止めた。
「……大学に入ったころは、普通のチェロを弾いていました。オーケストラに入るつもりで。でも、二年生のとき、コンクールの本番で、弓が震えて止まらなくなったんです。一音も出せなかった。それからしばらく、楽器に触れなくなりました」
玄関の小窓から、雨に濡れた庭の欅が見えた。
「半年くらいして、先生のゼミに、何となく顔を出したんです。先生は私のことを何も聞かずに、チェンバロの前に座って、このディドの低音を弾きました。そして同じ音を、チェロで一緒に弾いてみろって。旋律じゃない、低音だけでいい。上に誰が立っていても、君は同じ地面を歩けばいい、って。……それから、パを濁らせればバッサ、イタリア語で『低い』だ、答えはいつも低いところにある、なんて駄洒落を言って、一人で笑っていました」
奏は靴紐を結び終えた。
「低音なら、弓が震えませんでした。それからずっと、低音を弾いています」
久我は黙っていた。
「私の父は、刑事でした」
唐突に、久我が言った。
「子どものころ、父に言われたことがあります。事件というのは、同じ話を何度も聞くことだ、と。十回聞いて、十回とも同じなら、それは本当か、よく練習した嘘だ。一回だけ違うところがあれば、そこに何かがある」
久我は玄関の扉を開けた。湿った空気が流れ込んできた。
「あなたの先生の言っていたことと、少し似ている気がしました。繰り返しの中で、何が変わったかを見る」
奏は思わず久我の横顔を見た。
久我はもう車のほうへ歩き出していた。
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




