第三章 欠けた息 2
三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。
この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか。
午後四時。目白署の小さな取調室で、久我は氷室冴子と向かい合っていた。
冴子は昨日よりも落ち着いて見えた。黒いワンピースに、髪をきつく結い上げている。舞台に立つときのように、背筋を伸ばして座っていた。
「このメールについて、伺いたいんです」
久我は印刷した文面を机の上に置いた。
冴子は紙に目を落とし、動かなかった。
「……ディドの歌詞ね」
「ご主人は、ふだん、奥さんに英語でメールを送ることがありましたか」
「ありません」
冴子ははっきりと言った。
「あの人は、日本語でしか私に連絡してこなかった。英語は仕事の言葉だって。家では使わない人でした」
「では、このメールを受け取ったとき、おかしいとは思わなかった?」
「思いました。でも、夜中の一時過ぎよ。私は食事会でワインを飲んでいて、疲れていた。あの人が、酔って感傷的になったんだと思ったの。珍しいことじゃなかったから」
「珍しくない、というのは」
冴子の指が、机の縁をなぞった。一、二、三、四。歌い手が拍を数えるときの、無意識の動きだった。
「ここ一年くらい、あの人は、夜になるとときどき、そういう文面を送ってきた。すまないとか、君には迷惑をかけたとか。理由を聞いても、言わなかった」
「理由に、心当たりは」
冴子は答えなかった。
久我は机の上に、もう一枚の紙を置いた。
「大阪での十四日の夜の行動について、確認させてください。公演が終わったのが二十時。そのあと、関係者の食事会に参加された。これは店の人間も、共演者も証言しています」
「ええ」
「ところが、食事会の途中、二十一時十分ごろから二十二時四十分ごろまで、あなたが席を外していた、という証言があります」
冴子の顔から、色が引いた。
「一時間半。どこにおられましたか」
「……外の空気を吸っていました」
「一時間半も、ですか」
「そうです」
久我は冴子を見ていた。冴子は、目を逸らさなかった。けれど机の上の指先が、かすかに震えていた。
「奥さん。あなたが大阪から東京まで戻って、ご主人を殴って、また大阪に戻ることは、時間的に不可能です。それは、はっきりしている。ですから、あなたが犯人だと言っているわけではありません。ただ、あなたが何かを隠していると、捜査は、その隠しているものを掘り返しにいきます。そうなれば、隠したかったものは、もっと大勢の目に触れる」
冴子は、取調室の壁の時計に、一度だけ目をやった。
やがて、息を吐いた。
「……人と、会っていました」
「どなたと」
「言わなければいけませんか」
「いずれは」
冴子は目を閉じた。
「大阪のオーケストラの、指揮者です。三年前から」
取調室の換気扇が、低く唸っていた。
「夫は、知っていたと思います。だから、すまない、なんて書いてくる。謝るべきなのは、私のほうなのに」
冴子はそこで初めて、声を詰まらせた。
「でも、あの人は、私を責めなかった。一度も。ディドを歌わせ続けてくれた」
久我は冴子の前にティッシュの箱を押し出した。
「もう一つだけ。ご主人の遺産は、この家と、楽器と、蔵書だと伺っています。どれくらいの価値になるか、ご存じですか」
冴子は赤くなった目を上げた。
「チェンバロ二台で、たぶん三千万円くらい。蔵書は、わかりません。あの人は、そういう話を私にしなかった」
久我は手帳の頁をめくった。
「台所に、客用のカップが二つ、洗って伏せてありました。ご主人が、ご自分で洗われたのでしょうか」
冴子は少し考えてから、首を振った。
「あの人は、自分でカップを洗う人じゃなかった。飲んだら、流しに置きっぱなし。取っ手の向きを揃えるなんて、一度も」
◇
取調室を出た久我を、廊下で若い刑事の三浦が待っていた。
「警部補。例のメールの件で、解析班から第一報です」
三浦はタブレットの画面を久我に向けた。メールのヘッダー情報が、細かい英数字の列になって並んでいる。
「送信サーバーの記録では、十四日の二十三時十分に、被害者のアカウントから送信されています。ここまでは、奥さんの受信記録と一致します。ただ……」
「ただ?」
「パソコン側のログは、破損している部分が多いそうです。強制的に電源が落ちた形跡もある。全部を復元して読むには、一週間はかかると」
「一週間か」
久我は画面を見つめた。それから、手帳に一行だけ書きつけた。
——二十三時十分。
「奥さんのほうは、どうでした」
三浦が尋ねた。
「大阪で、人と会っていた。本人も認めた。裏付けを取れ。ただし、静かにな」
「犯人の線は」
「薄い。だが、あの人は、夫の『すまない』の意味を、自分の秘密のことだと思い込んでいる。本当にそうなのかは、別の話だ」
◇
同じころ、奏は神保町の古書店の二階にいた。
篠原玲司の店は、靖国通りから一本裏に入った雑居ビルの中にあった。路地の角の喫茶店から、挽きたての珈琲の匂いが、古本の棚の並ぶ通りにまで漂ってきていた。一階は洋書と古地図、二階は古い楽譜と音楽書で埋め尽くされている。窓のない部屋に、紙と埃と、かすかな黴の匂いがこもっていた。
篠原は、奏を奥の応接用の小さなテーブルに案内した。自分で淹れた紅茶のカップを置く手が、落ち着きなく揺れていた。
「警察の方にも、同じことをお話ししました」
篠原は眼鏡の位置を何度も直した。
「十四日の昼に、先生からお電話をいただいたんです。写本の件で、残念な報告になるかもしれない、と。詳しいことはもう少し確かめてから話す、と」
「残念な報告」
「ええ。私はてっきり、年代の話かと思いました。十七世紀のものではなく、十八世紀の初めくらいの写しかもしれない、とか。それなら、価値は下がりますが、まだ売れます。でも……」
篠原はそこで口ごもった。
「偽物、という可能性を言われたわけではないんですね」
奏が尋ねると、篠原は顔をこわばらせた。
「そんなはずはありません。あれはロンドンのオークションで、正規の手続きを経て落札したものです。来歴の書類も揃っています。それに、高槻先生が、あれほど詳しい論文で、本物だと証明してくださった」
篠原の声が、少し大きくなった。
「早瀬さん、正直に申し上げます。私はあの写本のために、借金をしています。英国の財団が買い取ってくれなければ、この店は年を越せない。だから、先生の鑑定が、どんな結果になるのか、怖かった。それは本当です」
篠原は両手でカップを包み込んだ。
「でも、だからといって、私が先生に何かするはずがないでしょう。十四日の夜は八時までこの店にいて、そのあとは、一人で家に帰りました。証明してくれる人はいませんが」
奏はテーブルの端に置かれた、チェルシー写本のカタログに目をやった。オークション会社が作った、光沢紙の冊子だった。表紙には、例の低音のページの写真が、大きく使われている。表紙に巻かれた帯には、金色の筆記体で、Remember me, but forget my fate. と刷られていた。
「このカタログ、少しお借りしてもいいですか」
「どうぞ。何冊もありますから」
奏はページをめくった。来歴の欄は、小さな英文の活字で組まれていた。
【ロット四十七 来歴】
Provenance: By descent in a West Country family; sold 1868; thence private collections, England and Switzerland. Accompanied by a photograph of the family bookplate.
(英国南西部の旧家に伝来。一八六八年に売却。以後、英国およびスイスの個人蔵。旧家の蔵書票の写真を添付)
「篠原さん。この写本を落札する前に、誰かに相談しましたか」
「高槻先生に、画像を見ていただきました。先生は、ぜひ落札すべきだと。これは歴史的な発見になる、と。……氷室先生とは、その写本のことで、ずいぶん意見が分かれていたようですが」
「それは、いつごろですか」
「去年の、十一月です」
奏はカタログを閉じた。
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




