第三章 欠けた息 3
三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。
この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか。
夕方六時過ぎ、奏は久我と東都藝術大学の正門前で落ち合った。
高槻誠の研究室は、音楽学部棟の四階の角部屋だった。かつて、氷室慧が使っていた部屋だ。奏にとっては、学生時代に何度も通った部屋でもあった。
扉を開けた高槻は、昨日、署の前で奏にマフラーを巻いてくれたときと同じ、穏やかな顔をしていた。
「どうぞ。散らかっていますが」
研究室は氷室が使っていたころとは、すっかり様子が変わっていた。壁一面の書棚は、床の目地の線に一段ずつ合わせるように整然と並べ替えられ、窓際には大きなモニターが二台置かれている。壁には、額に入ったポスターがいくつか飾られていた。高槻が出演したテレビ番組の告知や、公開講座のチラシだった。
「氷室先生のことは、本当に残念です」
高槻は二人にソファを勧め、自分は向かいの椅子に腰を下ろした。
「私にとっては、恩師であり、目標でした。写本の件で意見が分かれていたのは事実です。先生は、慎重な方でしたから。でも、学問の議論と、人としての敬意は、別のものです」
「十四日の夜の行動を、確認させてください」
久我が、手帳を開いた。
「池袋の東京芸術劇場のリハーサルルームで、古楽アンサンブルのリハーサルに参加されていた。二十一時十五分に終了。そのあと、二十二時三十分から、四谷の店での打ち上げに合流された。この間の一時間十五分は、どちらに」
高槻は少し困ったように笑った。
「刑事さんには、もうお話ししましたが……歩いていました。リハーサルで少し揉めごとがありまして。団員の宮坂くんと、少し。頭を冷やしたかった。池袋から、雑司が谷のほうを抜けて、護国寺のあたりまで。そこでタクシーを拾って、四谷へ」
「雑司が谷」
奏は思わず繰り返した。雑司が谷は、目白のすぐ隣だった。
高槻は奏の反応に気づいて、苦笑した。
「ええ、わかっています。氷室先生のお宅の、目と鼻の先です。だから、最初に警察の方に言いました。疑われても仕方がない道を歩いた、と。でも、嘘をついて、あとで防犯カメラに映っていたら、そのほうがよほど疑われるでしょう。……私は、先生のお宅には寄っていません。寄っていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。それを思うと、悔やまれます」
久我が、手帳から顔を上げた。
「揉めた相手の方は」
「宮坂透。うちでヴィオラ・ダ・ガンバを弾いてもらっています。昔、氷室先生のゼミにいた男です」
高槻は少し言いにくそうに目を伏せた。
「先生とは、いろいろあって。三年前、宮坂くんの博士論文を、先生が審査で落とされたんです。他人の論文からの剽窃がある、と。本人は、いまも納得していない。……気の毒な男です。あの夜も、先生の名前が出たとたんに、真っ先にリハーサルルームを飛び出していった」
高槻は少し間を置いてから、自分から付け加えた。
「そういえば、十四日の夕方、五時ごろでしたか、先生からお電話をいただきました。写本のことで、明日ゆっくり話そう、と。……それが、先生の声を聞いた最後になりました」
久我は顔を上げずに、その言葉を書き取った。奏は高槻の率直さに、胸を打たれていた。
高槻の背後の壁で、額に入った公開講座のチラシが、窓からの夕日を受けて光っていた。深い藍色の地に、大きな白い文字で「新発見写本が語る『ディドの嘆き』」。その下に、小さな英文の副題と、講師の名前。
「写本の鑑定について、氷室さんは、どういう点に疑問を持っていたんでしょう」
「紙の年代と、インクです。先生は、化学分析をやり直すべきだとおっしゃっていた。私は、すでに英国の研究所で行われた分析で十分だと考えていました。まあ、そこは見解の相違です」
「低音の、繰り返しについては」
奏が口を挟むと、高槻はわずかに眉を上げた。
「低音?」
「先生が、写本の低音を、一回ずつ何かと照合していたようなんです。メモが残っていて。『W』という略号と一緒に」
高槻の表情は、変わらなかった。
「さあ……先生は、細かいところまでご覧になる方でしたから。私にはわかりません。お役に立てず、申し訳ない」
高槻は立ち上がって窓のブラインドを下ろした。部屋が、暗くなった。
「早瀬くん。こんなときに話すことではないかもしれないが」
高槻は奏のほうへ向き直った。
「十一月の演奏会のことだ。氷室先生の追悼公演として、私のアンサンブルで引き受けさせてもらえないかと、主催者に相談している。冴子さんが歌えるなら、ディドはもちろん冴子さんに。そして通奏低音は、君に弾いてほしい。先生が一番信頼していた低音だ」
奏はすぐには答えられなかった。
高槻の声は穏やかで、誠実だった。追悼公演。師の最後の舞台になるはずだった演奏会を、形を変えてでも実現させる。それは奏自身が昨夜、何度も考えては打ち消してきたことだった。
「……考えさせてください」
「もちろんだ。急がなくていい」
高槻は微笑んだ。
「先生の低音を、君の手で残してほしい。それが、私にできる、せめてもの恩返しだと思っている」
帰り際、高槻は、奏の首元を見て言った。「あのマフラーは、返さなくていい」
◇
大学を出たとき、あたりはすっかり暗くなっていた。
正門の前で、奏のスマートフォンが震えた。画面に、見知らぬ番号が表示されていた。
「早瀬さん? ルーシー・ブラントです。突然すみません」
電話の向こうの声は、少し急いでいた。
「一つだけ、お伝えしたいことがあって。昨日、警察の方には話しそびれてしまったんです。——十四日の夕方、氷室先生から、メールをいただいていました。私のいる文書館にある、ある資料の画像を、もう一度、いちばん高い解像度で送ってほしい、と」
「ある資料」
「電話では、少し。明後日、お時間をいただけますか。先生が何を確かめようとしていたのか、私も知りたいんです」
ルーシーの勤める文書館の名を、奏は昨日、名刺で見ていた。
ウェクスクーム州記録保管所。
Wexcombe。
W。
奏は正門の外灯の下で立ち止まった。
◇
その夜、奏はアパートの机で、久我から送られてきた写真を見ていた。
証拠の扱いとしては、ぎりぎりなのだろう。「読める人間に読んでもらわないと意味がない」という短いメッセージと一緒に、メールの文面を写した画像が一枚だけ、届いていた。
Remember me, but forget my fate.
冴子、すまない
奏はその二行を、何度も読んだ。
冴子が指揮者と関係を持っていた。氷室はそれを知っていた。だから、すまない、と。筋は通っている。警察は、そう読むだろう。
けれど、何かが違った。
今日一日、胸のどこかに、小さな棘のように刺さり続けていたもの。
奏は目を閉じた。
十年以上前のゼミの教室。黒板に、白いチョークで書かれた一行。
Remember me, but ah! forget my fate.
黒板の前の師は、真ん中の小さな二文字を、チョークで二度なぞっていた。
奏は目を開けた。
画面の上の二行に、もう一度目を落とす。
Remember me, but forget my fate.
ない。
「ah!」が、ない。
奏は椅子から立ち上がっていた。
氷室慧はこの一行を、「ah!」抜きで書く人間ではない。死にかけていても、酔っていても、たとえ妻への謝罪の言葉であっても。この歌詞の真ん中から、女王の最後の息を削り取るような真似を、あの人が自分の手でするはずがなかった。
では、誰が書いたのか。
窓の外で、雨が、また降り始めていた。奏はスマートフォンを握りしめ、久我の番号を呼び出した。
呼び出し音が、一回、二回と鳴る。
三回目の呼び出し音の途中で、久我の声がした。
「早瀬さん。こちらからも、ちょうど電話しようと思っていたところです」
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




