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第四章 密書と歌 1

三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。


この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか。


一六八八年六月〜十月 ロンドン/チェルシー


 夜明け前の埠頭で、ロバート・アッシュ大尉の両腕を背中にねじり上げたのは、四人の兵士だった。

 ナサニエル・クルーは、積み上げられた樽の陰で、声を殺していた。

 七月の終わり、グレーヴセンドへ下る船が出る、ワッピングの船着き場。川霧が低く垂れこめ、角灯の光が兵士たちの赤い上着を濡れた血の色に見せていた。アッシュは抵抗しなかった。ただ一度だけ、霧の向こうの川面を振り返った。オランダへ向かうはずだった船の帆柱が、黒い指のように空を指していた。

 士官の一人が、アッシュの上着の裏地を短剣で切り裂いた。縫い込まれていた薄い包みが、石畳の上に落ちた。

 「国王陛下への反逆の疑いにより」

 士官の声は、霧に吸われて平たく響いた。

 ナサニエルは樽の縁を握りしめた。

 どうして、今夜だとわかったのか。

 出航の日を知っていたのは、ほんの数人のはずだった。アッシュ自身と、船を手配した商人と、そして——。

 ナサニエルは自分の上着の胸に手を当てた。そこには三日前にチェルシーで聞いた、あの日付が、刺のように残っていた。


◇


 話は、その年の六月にさかのぼる。

 六月十日、王妃メアリー・オブ・モデナが男子を産んだ。ロンドン中の教会の鐘が、国王の命で打ち鳴らされた。カトリックの国王に、カトリックの世継ぎが生まれた。それはこの国の王座が、この先ずっとローマの側に座り続けるということを意味していた。

 鐘の音の下で、人々はまた声を落とした。赤子は本当は死産で、湯たんぽに入れて寝室へ運び込まれた別の子だ。そんな噂が、酒場から酒場へ、囁きのまま広がっていった。

 そして六月三十日の夜、ウェストミンスター・ホールで、七人の主教が無罪を言い渡された。

 国王の信仰自由宣言を教会で読み上げることを拒み、請願書を出したために、反逆的な文書を書いた罪でロンドン塔に送られていた主教たちだった。判決が告げられた瞬間、ホールの外に詰めかけた群衆から地鳴りのような歓声が上がり、その夜、ロンドンの通りという通りに篝火が焚かれた。

 ナサニエルはその篝火の明かりの中を、パーセルの家から寺院へ急いでいた。明日の礼拝のための楽譜を届けるためだった。

 篝火の周りでは、男たちが肩を組んで、あの歌を歌っていた。去年の秋、チェルシーへの渡し舟で船頭が口ずさんでいた、アイルランドの総督を笑う歌だ。いまでは、ロンドンの子どもでも歌える。囃し言葉の「リリバレロ」を繰り返すたびに、群衆は腹を抱えて笑った。

 その笑い声の中に、ナサニエルは恐ろしいものを聞いた。

 笑っている者たちは、もう声を落としていなかった。


◇


 七月の初め、チェルシーの学校の広間で、ナサニエルはテイトの書き上げた台本の清書を広げていた。

 《ディドとエネアス》は、この一年のあいだに、少しずつ形になっていた。序曲、女王の嘆き、狩りの場面、魔女たちの企み。パーセルは宮廷と寺院の仕事の合間を縫って曲を書き、ナサニエルはそれを写し、プリーストの学校の少女たちが、少しずつ歌と踊りを覚えていった。

 テイトの最後の頁が、机の上にあった。

 女王の、死の歌の歌詞だった。

 When I am laid in earth, may my wrongs create

 No trouble in thy breast;

 Remember me, but ah! forget my fate.

 ナサニエルはその三行を声に出さずに読んだ。

 呪いは、どこにもなかった。岸と岸を争わせる言葉も、骨から復讐者を呼び起こす言葉も。女王は、自分の過ちが相手の胸を乱さないようにと願う。そして覚えていて、でも運命は忘れて、と頼んで死ぬ。

 「テイトが、書き直したんです」

 隣で、ヘスターが言った。ヘスターは、清書の束の下から、インクの染みた古い草稿を一枚抜き出して、ナサニエルの前に置いた。

 When I am laid in earth, let Vengeance rise,

 And from these Bones an Heir of Hatred spring;

 Let Shore with Shore, and Sea with Sea contend,

 And curse the Trojan, and the Trojan's King.

 四行には、太い線が一本ずつ引かれていた。その余白に、見慣れた主人の走り書きがあった。

 Too loud for this Ground. — H. P.

 (この低音には、声が大きすぎる)

 ヘスターはヴァージナルの前に座り直し、ナサニエルの手元の頁を覗き込んだ。去年の秋から、彼女の髪は少し伸び、頬は少し痩せていた。アッシュ大尉の連隊が、夏の演習でハウンズロー・ヒースの野営地に留め置かれ、この春から数えるほどしか会えていないのだと、ナサニエルはプリースト夫人から聞いていた。

 「最初の歌詞では、女王は呪っていました。ミスター・テイトは、そのほうが劇になると言って。でも、ミスター・パーセルが、この低音の上では呪いは地面に吸われる、と言ったそうです」

 ヘスターは笑った。

 「どこかで聞いたような言葉でしょう?」

 ナサニエルも、笑った。去年の秋、この広間でヘスター自身がテイトに言った言葉だった。主人はやはり、あの言葉を頭の中の五線に書き留めていたのだ。

 「この『ah!』は」

 ナサニエルは三行目の真ん中を指した。

 「テイトの字ではありませんね」

 「ええ。ミスター・パーセルが、あとから書き足したんです」

 ヘスターは低音の最初の音を鳴らし、それからその一行だけを、そっと歌った。

 Remember me——

 but——

 ah!

 声は、「ah」のところで、ほんの一瞬、途切れた。息が、言葉の外へこぼれ落ちるように。そして、そのこぼれた息の先から、forget my fate が、降りてきた。

 「ミスター・パーセルは、ここは歌ではない、と言いました」

 ヘスターは鍵盤から手を離した。

 「ここは、女王が息をするところだ。歌い手がただ一か所だけ、崩れることを許される場所だって。覚えていてと、忘れてのあいだに、人は一度、息をしなければならないのだと」

 ナサニエルはその頁を見つめた。

 たった一語。アルファベットにして、二文字。それを取り除けば、この一行は、息をしない女王の、よくできた台詞になる。

 「この小さな言葉を削る人がいたら」

 ヘスターは冗談めかして言った。

 「その人は、女王を生きたまま墓に入れるのね」


◇


 その日の稽古のあと、ナサニエルは楽器部屋で、写譜のための紙を探していた。

 棚の上に、見覚えのある帳面があった。深い緑の革表紙に、金の箔でライル家の紋章が押されている。去年の秋、ライル卿がヘスターに贈った、アムステルダムの紙の楽譜帳だった。

 ヘスターは約束どおり、それを学校の皆のものにしていた。表紙を開くと、最初の数葉には、少女たちの練習用の旋律が、いくつもの幼い筆跡で書き込まれていた。五線はあらかじめ上等な刷毛で刷られたように、細く均一に引かれている。

 紙を探すのに気を取られていたナサニエルは、背後の足音に気づくのが遅れた。

 「その帳面は、使わないほうがいい」

 振り返ると、戸口にギデオン・ヘイルが立っていた。例のヴァイオリンを脇に抱え、左脚を引きずりながら、部屋に入ってくる。

 「どうしてです」

 「後援者どのの贈り物だからさ。汚せば、ご機嫌を損ねる」

 ギデオンは窓際の椅子に腰を下ろした。

 「写譜屋。去年の秋、おれが言ったことを覚えているか」

 「楽譜より、手紙のほうが人を殺す」

 「そうだ」

 ギデオンは糸巻きを回しながら、声を落とした。

 「あの大尉は、近いうちに、ここを離れるつもりだ。ミス・ヴェインに、そう打ち明けているのを聞いた。庭の桑の木の下でな。あの二人は、声を落とすということを知らない」

 ナサニエルは背筋が冷たくなるのを感じた。

 「あなたは、それを誰かに」

 「言うものか」

 ギデオンは鼻で笑った。

 「おれはセッジムアで国王の側に立って、この脚をなくした。だがな、写譜屋、あの日、おれの目の前で、捕まった反乱軍の百姓どもが、何十人も並べて吊るされた。誰が本当に反逆者で、誰が密告されただけの男だったのか、誰にもわからなかった」

 弓が、弦の上で止まった。

 「おれは、二度とあんなものは見たくない。だから、忠告している。あの大尉に、口を閉じろと言え。そして——」

 ギデオンは窓の外に目をやった。

 庭の生け垣の向こうに、黒い外套の男が一人、学校の門のほうへ歩いていくのが見えた。ライル卿の従僕だった。

 「あの男は、この夏、何度もここへ来ている。後援者どのの使いだと言ってな。お嬢さん方の上達ぶりを見に来るそうだ。一度も、広間には入らずに」


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

次話もお楽しみにしていただけると嬉しいです。

感想やご指摘をいただけると、今後の励みになります。


(更新:毎日22時投稿予定)

隠岐群青

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