第四章 密書と歌 2
三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。
この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか。
七月二十五日。
ナサニエルはその日付を、のちに何度も思い返すことになる。
昼過ぎ、ナサニエルはロンドンの商人の家で、楽譜の束を渡していた。ローランド・シャーマンという、レヴァント会社の若い商人で、来週にはシリアのアレッポへ赴任するのだという。音楽好きで、パーセルの鍵盤曲やチェルシーの仮面劇の序曲を、異国の地で弾くために写しを注文していた。
「向こうでは、何年も英国の音楽を聴けないからね」
シャーマンは楽譜を一枚ずつ丁寧にめくりながら言った。
「この序曲を弾いたら、きっと、テムズの霧まで思い出すだろう」
その帰り道、ナサニエルはチェルシーに寄った。清書の残りを、プリースト夫人に届けるためだった。
庭の桑の木の下に、ヘスターとアッシュがいた。
アッシュは軍服ではなく、地味な茶色の旅装をしていた。ナサニエルが近づくと、二人は少し驚いたように振り返った。アッシュの顔に、一瞬、警戒の色が走った。相手がナサニエルだとわかると、それはほどけた。
「クルーさんか。ちょうどいい。三日後に、しばらく英国を離れる。表向きは、ハーグの親類を訪ねる私用だ。ヘスターを、頼みたい」
「三日後」
「二十八日の夜明け、ワッピングから出る船だ」
アッシュはナサニエルの目をまっすぐに見た。
「君を信用して言っている。ヘスターが、君は口の堅い人だと言うから」
ヘスターは何も言わなかった。ただアッシュの袖を、指先で握っていた。
ナサニエルは頷くことしかできなかった。
帰り際、ナサニエルは門の手前で、ふと振り返った。
桑の木の下の二人から少し離れた、学校の建物の北側の窓。楽器部屋の窓だった。その窓の内側に、一瞬、人影が見えた気がした。
次に目を凝らしたときには、窓には、夕日が映っているだけだった。
◇
そして、七月二十八日の夜明け前。ワッピングの埠頭で、アッシュは捕らえられた。
アッシュの上着から見つかったのは、オランダのオラニエ公に宛てた、何人かのイングランド貴族の手紙の写しだったと、あとになってナサニエルは噂で聞いた。国王の目を盗んで、プロテスタントの王女の夫である公に、この国への介入を求める手紙。一か月前の六月三十日、主教たちの無罪判決の同じ夜に、ひそかに署名されたものだという。
アッシュはニューゲートの監獄に送られた。
逮捕から五日後、ライル卿がチェルシーの学校を訪れた。
広間に通されたライル卿は、ヘスターの前で帽子を取り、深く頭を下げた。
「ミス・ヴェイン。アッシュ大尉のことは、聞いた。痛ましいことだ」
ヘスターは膝を折った。
「私は、宮廷にいくらか顔が利く。国務大臣の役所にも知り合いがいる。大尉が釈放されるよう、できるかぎりのことをしよう。若気の至りで、悪い仲間の手紙を運ばされただけだと、陛下にお伝えする」
ライル卿の声には、偽りの響きがなかった。少なくとも、ナサニエルの耳には、そう聞こえた。ヘスターは初めて顔を上げ、かすれた声で礼を言った。
帰り際、ライル卿は広間の隅で写譜をしていたナサニエルの机の前で足を止めた。
「クルー君。ひとつ、頼みがある」
ライル卿は自分の胸元の襞飾りを指先で示した。そこには、去年の秋に光っていた黒真珠のピンがなかった。
「この夏、どこかでピンを落としたらしい。父の形見でね。あちこちに声をかけている。もし誰かが見つけたら、私のところへ届けるよう、伝えてもらえないか。……それから、これは余計なことかもしれないが……あの足の悪い伴奏弾きには、気をつけたほうがいい。セッジムアで国王の側に立ったと言っているが、実のところ、あの男の兄は、ローマの神父だという話を耳にした。いまの宮廷では、それは何の罪にもならん。だが、ああいう男は、風向き次第で、誰の名前でも売る」
ライル卿はナサニエルの肩を、また親しげに叩いた。
その日の夕方、ナサニエルが帰り支度をしていると、広間の奥から、ヴァージナルに合わせてヘスターが歌う声が聞こえてきた。生徒のいない広間で、一人で女王の歌をさらっているのだった。
廊下の窓辺に、ライル卿が一人で立っていた。帽子を手に持ったまま、身じろぎもせずに、その歌を聴いていた。
ナサニエルに気づくと、ライル卿は目元を指で押さえ、何事もなかったように微笑んで、玄関のほうへ去っていった。
◇
誰が密告したのか。
ナサニエルはそれを知るために、一つだけ頼れる糸を持っていた。
寺院の聖歌隊で一緒に歌っていた幼なじみ、エドワード・ハーリーが、ホワイトホールの国務大臣の役所で、下級書記として働いていた。ネッドは声変わりのあとも音楽好きで、ナサニエルが写した劇場の歌を、安く譲ってもらうのを楽しみにしていた。
八月の半ば、ナサニエルはネッドを寺院裏の居酒屋に呼び出し、麦酒を三杯おごった。そしてパーセルの新しい劇の歌の清書を、一束、テーブルの上に置いた。
「無茶を言うな、ナット」
ネッドは青い顔で首を振った。
「密告の手紙なんて、おれみたいな下っ端が見られるものか。見られたとしても、話せば首が飛ぶ」
「中身はいい。誰が書いたかも、言わなくていい。ただ、どんな紙に書かれていたかだけ、教えてくれ。紙の話なら、誰の首も飛ばない」
ネッドは、麦酒の泡が消えていくのを見ていた。やがて楽譜の束を自分の側に引き寄せ、残りを一息に飲み干した。
九月の初め、寺院の回廊で、ネッドはナサニエルとすれ違いざまに、小さな紙片を手のひらに押しつけていった。
「書類の束を綴じ直すときに、端がちぎれて落ちた。捨てる紙だ」
ネッドは声を落として、もう一つ付け加えた。
「それから、お前のところの後援者どのは、本当に動いているぞ。アッシュ大尉の釈放を求める嘆願書が、サー・エドマンド・ライルの名前で、大臣の机に三通も上がっている。写しを綴じたのは、おれだ」
ネッドはそれだけ言って、足早に去っていった。
回廊の柱の陰で、ナサニエルは手のひらを開いた。
指の爪ほどの大きさの、紙の切れ端だった。インクの文字は、ほとんど残っていない。ただ、ちぎれた縁の近くに、ほとんど消えかけた細い横線が、数本、平行に走っていた。
ナサニエルはその紙片を光にかざした。
横線は、五本あった。
上等な刷毛で刷られたように、細く、均一な五本の線。そして紙の地には、アムステルダムの製紙所の透かしの一部が浮かんでいた。
ナサニエルはその場に立ち尽くした。
密告の手紙は楽譜帳の一葉を切り取って、その裏に書かれていたのだ。
あの緑の革表紙の、ライル家の紋章のついた楽譜帳。
チェルシーの学校の、楽器部屋の棚にある帳面。
学校の者なら、誰でも手に取れる帳面。
◇
その夜、ナサニエルはパーセルの仕事部屋で、紙片を主人の前に置いた。どこで手に入れたかは、言わなかった。
パーセルは寺院の新しいアンセムの草稿から目を上げ、手燭を近づけて、紙片を覗き込んだ。
「楽譜の紙だな。いい紙だ」
「どこの紙か、わかりますか」
パーセルは紙片を裏返し、光に透かし、爪の先で五本の線を軽くなぞった。
「アムステルダムの紙に、アムステルダムの罫だ。ロンドンの文房具屋は、五線を一本ずつ定規で引くか、せいぜい五本爪のペンで引く。だから線がどこかで揺れる。だが、これは違う。版木で刷ったように揃っている。オランダの工房が、刷ってから綴じて売る帳面だ。こっちでは、まず手に入らない」
「手に入れた人を、ご存じですか」
パーセルは黙っていた。
「去年、ライル卿が、同じ帳面を二冊、取り寄せたと自慢していた。一冊はチェルシーの学校に贈った。もう一冊は自分の書斎に置いてある、と」
パーセルは紙片をナサニエルのほうへ押し戻した。
「二冊だ、ナット。一冊ではない」
主人の目は、それ以上は何も聞くなと言っていた。パーセルは国王の礼拝堂のオルガニストで、国王の楽器の管理人だった。この年の初めには、王妃の懐妊を感謝するアンセムを、国王の命で書いている。宮廷に仕える音楽家が、いまこの紙片について知っていてよいことは、ほとんどなかった。
「この話は、ここだけにしておけ」
パーセルは草稿に目を戻した。
「写譜師というのはな、ナット、この国でいちばん多くの手紙を目にする人間の一人だ。だから、いちばん口の堅い人間でなければならない。——君が口の堅い男だということは、よく知っている」
ナサニエルは紙片を内ポケットに戻した。
二冊。一冊は学校の楽器部屋に。一冊はライル卿の書斎に。
どちらの帳面から切り取られた一葉なのか。それを確かめる方法は、一つしかなかった。
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




