第四章 密書と歌 3
三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。
この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか。
九月の半ば、ナサニエルはストランド街に面したライル卿の屋敷の門を叩いた。
去年の秋に頼まれていた、仮面劇の最初の清書を届けに来たのだった。まだ終幕の合唱は仕上がっていなかったが、途中までの清書でも見たい、とライル卿から催促の手紙が届いていた。
黒い外套の従僕が、ナサニエルを二階の書斎へ案内した。ライル卿は、宮廷に出ていて留守だった。
「旦那様は、清書を机の上に置いておくようにと」
従僕はそれだけ言うと、扉を閉めて出ていった。足音は、廊下の奥へ遠ざかっていった。足を引きずる音ではなかった。
書斎は、ナサニエルが見たことのない豪奢な部屋だった。壁を埋める書棚には、金文字の背表紙が並び、窓際には、象嵌を施したヴァージナルが置かれている。
ナサニエルは清書の束を机の上に置いた。
その机の端に、あの帳面があった。
深い緑の革表紙。金の箔の紋章。チェルシーの楽器部屋にあるものと、寸分違わぬ装丁だった。
ナサニエルは扉のほうを振り返った。廊下は静かだった。
心臓の音が、耳の奥で低音のように鳴っていた。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ。
ナサニエルは帳面を開いた。
中の頁にはライル卿自身のものらしい、流麗な筆跡で、流行りの歌がいくつか書き写されていた。その先は、白紙が続いている。ナサニエルは綴じ糸の際を指でたどりながら、一葉ずつ、音を立てないように頁を繰った。折丁ごとに、紙の枚数を数えていく。
最後の折丁まで、数え終えた。
欠けている葉は、一枚もなかった。
切り取った跡も、糸を解いて綴じ直した跡もない。ライル卿の帳面は、アムステルダムの工房から届いたときのまま、無傷だった。
ナサニエルは帳面を元の位置に戻し、角度まで正確に揃えた。
廊下で、足音がした。ナサニエルが机から離れるのと同時に、扉が開いた。
「清書は、置いていただけましたか」
従僕が、無表情に言った。
「ええ。旦那様に、よろしくお伝えください」
屋敷の門を出て、ストランド街の人混みに紛れてから、ナサニエルはようやく息を吐いた。
ライル卿の帳面は、無傷だった。
ならば、密告の手紙に使われた一葉は、チェルシーの学校の帳面から切り取られたことになる。
学校の楽器部屋の、誰でも手に取れる棚から。
◇
九月の終わり、ナサニエルはプリースト夫人の許しを得て、楽器部屋の楽譜帳を確かめた。
帳面の終わり近く、少女たちの練習の旋律が途切れた先の白紙の頁。その一葉が、綴じ糸の際から、刃物で丁寧に切り取られていた。
切り口は、まっすぐだった。慌てて破いた跡ではない。落ち着いた手で、定規を当てて、音を立てずに切り取った跡だった。
ナサニエルは切り口を指でなぞりながら、この部屋に入ることのできた人間の顔を、一人ずつ思い浮かべた。
帳面を贈ったライル卿。その使いとして、何度もこの学校に来ていた黒い外套の従僕。この部屋を自分の居場所にしている、足の悪い伴奏弾きのギデオン。学校の主のプリースト夫妻。少女たち。
そして、帳面を学校のものにしたヘスター自身。
さらに、ここ一年この部屋で何度も写譜の紙を探していた、自分。
背後で、扉が軋んだ。
ヘスターが、戸口に立っていた。ナサニエルの手元の帳面と、綴じ糸の際の切り口を見て、彼女の顔から、血の気が引いていった。
「……その頁のあいだに」
ヘスターはほとんど聞き取れない声で言った。
「ロバートの手紙を、挟んでいたの。七月の初めに届いた手紙。出航の日のことが、書いてあった。自分の部屋に置くのが怖くて、誰も開かない白紙の頁のあいだなら、と思って」
ヘスターは両手で口を覆った。
「逮捕の知らせを聞いた日に見に来たら、手紙は元のところにあった。だから私、気づかなかった。頁が一枚、なくなっていることに」
ナサニエルは切り口を見下ろした。
手紙は、元のところにあった。つまり、誰かがそれを読み、読み終えて、元の頁のあいだに戻した。そしてその隣の白紙を一葉、定規を当てて切り取り、持ち去った。
読んだことを知られないように。そして密告の手紙を、この学校の紙で書くために。
「私のせいだわ」
ヘスターの声が、初めて震えた。
「違う」
ナサニエルは帳面を閉じて立ち上がった。
「あなたは、手紙を隠しただけです。それを読んで、売った人間がいる」
そう言いながら、ナサニエルの胸の奥で、一つの考えが冷たく頭をもたげた。
手紙の在りかを確実に知っていたのは、この人だけだ。
ナサニエルは、その考えを振り払おうとした。振り払えなかった。ヘスターの震える指先を見ながら、自分がいま何を疑ったのかを、ナサニエルは一生忘れないだろうと思った。
読んだ人間はなぜ、あの帳面の、あの白紙の頁に、手紙が挟まっていると知っていたのか。
アッシュが出航の日を口で打ち明けたのは、七月二十五日の夕方、桑の木の下だった。けれど、その日付は、七月の初めから、この帳面の白紙のあいだで眠っていた。夏のあいだにこの部屋に入った誰もが、それを読むことができた。——ヘスターと、自分を含めて。
その夜、下宿に戻ったナサニエルは、写譜の控え帳を開いた。仕事の日付と、写した楽譜の名前と、葉の数だけを書きつけてきた帳面だった。
七月二十三日 宮廷の頌歌、弦の声部。四葉。
七月二十四日 シャーマン氏注文、鍵盤曲の清書。三葉。
七月二十五日
七月二十六日 チェルシー、仮面劇の清書の残り。六葉。
二十五日の欄だけが、白いままだった。シャーマン氏に楽譜を渡し、桑の木の下で出航の日を聞いた日。ナサニエルはあの日から、その一行を、どうしても埋められずにいた。
◇
十月の半ば、ナサニエルはヘスターとともに、ニューゲートの監獄の門をくぐった。
看守に銀貨を二枚握らせ、さらにもう一枚握らせて、ようやく面会が許された。石の廊下は湿って黴臭く、どこかの独房から、途切れることのない咳の音が響いていた。
この夏から、監獄では熱病が流行っていた。
アッシュは藁を敷いた寝台の上で、壁にもたれていた。三か月前に埠頭で見た男とは、別人のように痩せていた。頬はこけ、目だけが熱に浮かされて光っている。
ヘスターは鉄格子の前に膝をついた。
「ロバート」
アッシュは顔を向けた。そして、笑った。
「来てはいけないと、手紙に書いたのに」
「読みませんでした」
ヘスターの声は、震えていなかった。
アッシュは格子の隙間から手を伸ばした。ヘスターが、その手を両手で包んだ。
「オランダの公が、来るそうだ」
アッシュは囁いた。
「看守どもが噂している。港という港に、兵が集められている、と。——僕の運んだ手紙は届かなかったが、ほかの誰かの手紙が届いたんだろう。それなら、それでいい」
アッシュは激しく咳き込んだ。ヘスターは、手を離さなかった。
咳が収まると、アッシュはナサニエルのほうに目を向けた。
「クルーさん。一つ、覚えておいてほしい」
「はい」
「出航の日を、僕はヘスターと君にしか話していない。船の手配は名前を知らない商人が、間に三人入ってやった。だから、誰かが漏らしたのなら……」
アッシュはそこで言葉を切った。
ヘスターの肩が、強張った。
アッシュはヘスターの手を握り直した。
「いや。いい。忘れてくれ。誰が漏らしたかなど、もう、どうでもいい」
アッシュは目を閉じた。
「ヘスター。君の歌を、聴きたかった。女王の歌だ。学校で上演するときには、きっと聴きに行くと約束したのに」
ヘスターは格子に額を押し当てた。そして、ほとんど息だけの声で、歌い始めた。
When I am laid in earth——
石の廊下に、低音はなかった。ヴァージナルも、弦も。けれどナサニエルの頭の中では、あの六つの音が、下降していた。五小節の地面。
Remember me, but ah!
ヘスターの声は、「ah」のところで、崩れなかった。
ナサニエルはそれが恐ろしかった。女王が息をすることを許された、ただ一つの場所で、ヘスターは息をしなかった。
forget my fate.
◇
アッシュ大尉は、十月二十二日の明け方、ニューゲートで死んだ。
オラニエ公ウィレムの艦隊が、イングランドの南西の岸に姿を現す、二週間ほど前のことだった。
知らせを受けたとき、ヘスターはチェルシーの学校の広間で、少女たちに踊りの伴奏をしていた。プリースト夫人が耳打ちすると、ヘスターは一度だけ鍵盤から手を離し、それからまた弾き始めた。少女たちの踊りが終わるまで、一小節も乱さずに。
ナサニエルが駆けつけたのは、その日の夕方だった。
ヘスターは桑の木の下に、一人で立っていた。枝の葉は、ほとんど落ちていた。
「ヘスター」
ナサニエルは初めて、彼女を名前だけで呼んだ。
ヘスターは振り返った。目は、乾いていた。
「ナサニエル。お願いがあるの」
「何でも」
「誰がロバートのことを漏らしたのか、探さないで」
ナサニエルは言葉を失った。
上着の内ポケットには、九月からずっと、あの紙片が入っていた。五本の線と、アムステルダムの透かし。指の爪ほどの紙切れが、いまは上着の布地ごと、胸を下へ引いていた。
「なぜです」
「探せば、あなたはその人を憎む。憎めば、あなたはその人を呪う」
ヘスターは桑の枝を見上げた。
「ロバートは最後に、どうでもいい、と言った。忘れてくれ、と。私も、ロバートがどう死んだかを覚えていたくない。私が覚えていたいのは、ロバートのほうなの」
風が吹き、最後の数枚の葉が、二人のあいだに落ちてきた。
「約束して、ナサニエル。誰も、呪わないって」
ナサニエルは長いあいだ、答えられなかった。
やがて彼は、頷いた。
「……約束します」
ヘスターはほっとしたように、ほんの少し笑った。そして、学校の建物のほうへ戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、ナサニエルは上着の上から、紙片のある場所に手を当てた。
誰も、呪わない。
では名前を覚えておくことは、呪いになるのだろうか。
ナサニエルは学校の北側の窓を見上げた。楽器部屋の窓だった。
窓の内側に、今度ははっきりと人影が立っていた。
その人影はナサニエルと目が合っても、動こうとしなかった。夕闇が、その顔を隠していた。ただ窓枠にかけられた手の指に、小さな何かが、一度だけ鈍く光った。
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




