第五章 インクの染み 1
三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。
この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか。
二〇二六年十月十八日〜二十日 東京
インクの染みは、全部で十個あった。
ホテルのラウンジの低いテーブルの上で、ルーシー・ブラントがノートパソコンの画面を奏のほうへ向けた。映し出されていたのは、黄ばんだ一枚の紙の写真だった。紙の縁は虫に食われ、右下の角が大きく欠けている。茶色く褪せたインクで、五線と音符が並んでいた。
奏はその低音の五線を見た瞬間に、息を止めた。
ソ、ファのシャープ、ファ、ミ、ミのフラット、レ。
あの六つの下降音が、紙の上に、繰り返し書き写されている。その音符のいくつかの上に、小さな黒い点が打たれていた。針の先で突いたような点だった。
「一回目の低音に、一つ。二回目にも、一つ。三回目にも」
ルーシーは画面を拡大しながら言った。
「十回目まで、一つずつ。十一回目の繰り返しにだけ、点がありません」
奏は画面から目を離せなかった。
「これが、先生の言っていた『W』……」
「ウェクスクーム州記録保管所、整理番号D/MUS/1688/3。私たちは、ただ『ウェクスクーム断片』と呼んでいます」
ルーシーは、画面の隅に目録カードの画像を開いた。
【目録カード】
整理番号 D/MUS/1688/3
資料名 楽譜断片(パーセル《ディドとエネアス》第三幕終結部に相当)
寸法 縦三一〇ミリ、横一九五ミリ。右下隅欠損
紙 刷り五線。透かし:アムステルダム市章(部分)
状態 四つ折りの痕。低音部に黒点十個(インクの染みか。要調査)
出所 ウェクスクーム教区教会、旧オルガニスト遺品箱(二〇二五年二月)
ルーシーのノートパソコンの天板には、一枚のステッカーが貼られていた。ウェクスクーム州記録保管所の、この秋の展示の告知だった。教区の古い箱から出た文書を紹介する展示で、題は、Remember me, but forget my fate ―― Voices from the Parish Chests。
「この画像を、公表前に見た人は、私のほかに二人しかいません。一人は、氷室先生。もう一人は——」
ルーシーは一度、言葉を切った。
「高槻先生です」
◇
十月十八日、午後二時。帝国ホテルのラウンジは、日曜の昼下がりの、低いざわめきに包まれていた。窓の外の日比谷公園では、色づき始めた木々が、薄曇りの光の中で揺れている。
奏の隣には、久我が座っていた。ルーシーの希望で、話は警察署ではなく、ここで聞くことになったのだった。
「最初から、話していただけますか」
久我が、手帳を開いた。
ルーシーは頷き、ノートパソコンの画面を、もう一枚の写真に切り替えた。古い木箱の中に、紐でくくられた紙の束が詰め込まれている。箱の内側の底板には、打ち直したような新しい釘の頭が、いくつか光っていた。
「木箱は、教区教会の物置から出てきました。束の中には、オルガニストに宛てた手紙も何通か。差出人は、N・Cという頭文字しか読めません」
ルーシーは画面の低音の点を指さした。
「問題は、この点です。インクの染みなのか、意味のある印なのか、私たちにはわかりませんでした。それで昨年の四月に、秘密保持の約束をしていただいたうえで、まず高槻先生に画像をお送りしました。高槻先生はパーセルの写本の研究で、英国でも名前が知られていましたから」
ルーシーはスマートフォンの画面を開き、一通のメールを表示した。英文だった。
「高槻先生からのお返事です。——『点は、写譜師のペン先から散ったインクの染みと判断する。音楽的な意味はない』」
久我が、手帳から顔を上げた。
「日付は」
「二〇二五年、四月二十二日です」
去年の四月。篠原がチェルシー写本の画像を高槻に見せたのは、去年の十一月だった。高槻はチェルシー写本を見るより七か月も前に、ウェクスクーム断片を見ていた。
◇
「氷室先生には、いつ見せたんですか」
奏が尋ねると、ルーシーは少し表情を曇らせた。
「今年の六月です。高槻先生の論文が、名前を伏せたままウェクスクーム断片を根拠に使っていたんです」
ルーシーは、論文の該当箇所の写しを奏に渡した。
——高槻誠「チェルシー写本の真正性について」(『音楽史研究』第四十二号)より
本写本の筆跡は、未公刊の同時代資料と、ト音記号の起筆およびカストスの形状において一致する。なお、当該資料の低音部には写譜師のペン先から散ったと見られるインクの染みが散見されるが、本写本にはこれがない。本写本の写譜師が、より入念に清書を行ったためと考えられる。染みそのものに、音楽的な意味はない。
「不安になって、第二の意見を求めました。——高槻先生の恩師である、氷室先生に」
ルーシーは少し言いにくそうに付け加えた。
「六月に高解像度の画像をお送りしたとき、撮り直す前の状態とも比べていただけるように、去年四月の簡易スキャンも、一緒に添付しました。高槻先生にお送りしたのと、同じものです」
ルーシーは窓の外に目をやった。
「氷室先生は、画像を一週間ご覧になって、それから私に、たった一行のメールをくださいました」
ルーシーはスマートフォンの画面を切り替えた。日本語だった。
——この染みは、染みではないかもしれません。
◇
目白の氷室邸に向かう車の中で、奏はルーシーから預かったUSBメモリを握りしめていた。氷室が死ぬ直前に、もう一度送ってほしいと頼んでいたのと、同じ画像が入っている。
目白の家に着くと、奏は書斎の机に二つの画像を並べた。
左に、チェルシー写本の「ディドの嘆き」のページ。右に、ウェクスクーム断片。久我が持ち込んだノートパソコンの画面を二つに分けて、同じ大きさに拡大する。
二枚を並べてみて、奏は背中に鳥肌が立つのを感じた。
似ていた。
ト音記号の書き始めの、小さな鉤のような撥ね。行の終わりに次の音の高さを示す小さな印——カストスの、稲妻のような折れ曲がり方。
同じ手だ、と奏は思った。少なくとも、同じ手を真似ようとした誰かの手だ。
けれど決定的に違うところが、一つだけあった。
チェルシー写本の低音には、点が一つもなかった。
右の断片では十回の繰り返しの上に、ぽつりぽつりと打たれている黒い点。それが、左の写本では、どこにもない。低音はどれも黒くなめらかに、きれいに並んでいる。
「……消えてる」
奏は思わず呟き、右の断片の画像をさらに拡大した。一回目の低音の、六つの音符。点はそのうちの二番目の音、ファのシャープの真上にあった。
二回目の低音。点は五番目の音、ミのフラットの上。
奏は指を画面の上で止めた。
「刑事さん。インクの染みって、こんなに行儀よく、音符の真上に落ちるものでしょうか」
久我も、画面に顔を近づけた。
十個の点は一つ残らず、どれか一つの音符の真上に、ほとんど同じ大きさで、きちんと座っていた。
そして、どの繰り返しでも、点は一つだけだった。
「偶然にしては、整いすぎていますね」
奏は机の引き出しから、ビニール袋に入った氷室のメモを取り出した。三日前に見つけた、あのメモだ。左の列に1から11。右の列に、10までの「・」。11だけが空欄。
「先生は、これを数えていたんです」
奏はメモと画面を交互に見た。
「一回目から十回目まで、点がある。十一回目には、ない。先生は断片の低音を一回ずつ確かめて、印をつけていった。そして同じことを、チェルシー写本でもやろうとしていた。『W. ――照合要』。ウェクスクーム断片と照合せよ」
奏は疑問符を指さした。
「この疑問符は、たぶん……点の位置です。先生は点があるかないかだけじゃなく、どの音の上にあるかに、意味があるかもしれないと考えていた」
久我は腕を組んだ。
「では、チェルシー写本の低音に振られた、1から11の番号は」
奏はあの朝の譜面台を思い出していた。現代の校訂譜のコピーに、震える鉛筆で書き込まれた番号。そして、その下の一行。
全てはバッサカリアが教えてくれる。
「先生は死ぬ間際に、低音の繰り返しに番号を振って、私に言い残したんです。数えろ、と。低音の一回ごとを見ろ、と」
久我は二つの画面を見比べていた。それから、口を開いた。
「早瀬さん。仮説を一つ、口にしてみます。まだ仮説です」
奏は頷いた。
「チェルシー写本が偽物だとする。偽造した人間は、断片の画像をじっくり見ることができた。そして、低音の上の点だけを写さなかった。汚れだと思ったからです」
「……点に意味があると証明できれば」
「そう。二つとも本物だという可能性は、それで消える」
久我は手帳を閉じた。
「あなたの先生は、それを証明しかけていた。だから、殺された。——私は、そう考え始めています」
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




