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第五章 インクの染み 2

三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。


この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか。

その日の夕方、久我は池袋の東京芸術劇場の楽屋口にいた。

 高槻誠が十四日の夜にリハーサルをしていたのは、劇場の地下にあるリハーサルルームの一つだった。団体の名前は「アンサンブル・ラ・テール」。フランス語で、大地を意味するという。

 職員が見せてくれた利用記録によれば、団体登録は三年前、代表者は高槻誠。十四日の夜間の枠は九月一日に窓口で申し込まれ、使用後の原状復帰にも問題はなかった。

 楽屋口を出ると、劇場の外の喫煙所で、痩せた男が一人、煙草を吸っていた。伸びかけた髪を後ろで束ね、足元にヴィオラ・ダ・ガンバのケースを置いている。

 久我が名乗ると、男は宮坂透だと名乗り返した。十四日にリハーサルルームを飛び出していった、ガンバの団員だった。

 「氷室先生のことですか」

 宮坂は、煙を細く吐いた。

 「悲しいとは言いません。三年前、あの人は僕の博士論文を、剽窃だと言って落とした。僕の三年を、紙一枚で消した人です。……でも、殺したいほど恨んでいたかと聞かれたら、そんな力は、僕には残っていませんでした」

 宮坂は吸い殻を灰皿に押しつけ、ケースを担いで劇場の中へ戻っていった。

 楽屋口の前で、久我の携帯が鳴った。三浦からだった。

 「警部補。アンサンブルのメンバーに話を聞き終わりました。高槻がリハーサルを抜けたのは、二十一時十五分で間違いありません。ただ一つ、気になることが」

 「何だ」

 「メンバーの何人かが、口を揃えて、珍しかった、と言うんです。高槻はふだん、リハーサルルームの片付けにやたらと厳しい。椅子の並びが一脚でもずれていると、全員を残してやり直させる。規則を守ることにかけては、神経質なくらいだと」

 「その高槻が」

 「十四日だけは、片付けを全部メンバーに任せて、二十一時十五分に帰った。リハーサルで揉めた、というのは本当です。揉めた相手は、宮坂透。ヴィオラ・ダ・ガンバの団員です。宮坂は二十一時ちょうどに、楽器を置いたままリハーサルルームを飛び出していった。ただ団員の一人が、二十一時十分ごろまで、劇場の外の喫煙所に宮坂がいたのを見ています。そのあとは雑司が谷の自宅まで一人で歩いて帰った、と本人は言っているそうです」

 「宮坂のほうは、高槻について何か」

 「高槻が、リハーサルの途中からずっと時計を気にしていた、と」

 久我は夕暮れの池袋西口公園を見渡した。日曜の広場には屋台が並び、野外ステージから、マイクを通した司会の声と拍手が、ひっきりなしに流れてきていた。劇場の巨大なガラスの壁面に、ビルの灯りが映り始めていた。

 電話の向こうで、三浦が付け加えた。

 「それに、雑司が谷の商店街の防犯カメラに、二十二時五分、一人で歩いている高槻が映っていました。本人の話どおりです。そのあとは二十二時三十分から、四谷の打ち上げに合流しています」

 久我は短く礼を言って、電話を切った。


◇


 十月十九日の朝、奏は東都藝大の図書館の視聴覚室にいた。

 学内のアーカイブに、氷室慧の公開講座の録画が残っている。そう教えてくれたのは、大学の職員になった学生時代の同級生だった。二〇一九年の秋、氷室が最後に一般向けに行った講座だという。題は「パーセルの沈黙」。

 ヘッドフォンをつけ、再生ボタンを押す。

 画面の中に、いまより少し若い氷室が現れた。灰色のジャケットに、いつもの黒縁の眼鏡。講堂の演台の横には、チェンバロが一台置かれていた。

 「——さて、最後に、この一行の話をしましょう」

 画面の中の氷室は、スクリーンに一枚のスライドを映した。

 Remember me, but ah! forget my fate.

 「一六八九年に印刷された台本では、こう書かれています。私を覚えていて、けれど、ああ、私の運命は忘れて」

 氷室はチェンバロの前に座り、あの低音を弾き始めた。

 「この『ah!』は、女王が息をする場所です。最近は、この一行を『ah』抜きで縮めて引用する人をよく見かけます。本の題や、演奏会のチラシでね。はっきり言っておきます。この『ah!』を削る者は、ディドを理解していない」

 会場から、小さな笑いと、拍手が起こった。

 講座の終わりに、氷室は、協力者への礼を述べるスライドを映した。資料の翻刻を手伝った学生たちの名前が、数行並んでいる。その最後の行に、Special thanks: T. Miyasaka (TA)。

 奏はスマートフォンで、録画のいくつかの場面を撮影した。最後のスライドも、ついでのように一枚撮った。その一枚には、何も思わなかった。

 奏はヘッドフォンを外した。

 手のひらが、じっとりと汗ばんでいた。

 あのメールを、氷室が書いたはずがない。いまでは、それは奏一人の直感ではなかった。画面の中の師が、七年前に、自分の口ではっきりと言っていた。

 奏は撮った写真のうち、講義の場面の一枚を久我に送った。

 返信は、一分と経たずに届いた。

 ——受け取りました。これで、あのメールの差出人は、氷室さんではないという線で動けます。

 視聴覚室を出ようとしたとき、廊下で高槻と行き会った。

 「早瀬くん。先生の講座の録画かい」

 高槻は、奏の手元のメモを見て、目元を和らげた。

 「私も、あの頃は先生のゼミのTAでね。古文書学の最初の授業を、よく覚えている。先生は黒板にアルファベットを書いて、JとUを消してみせたんだ。この時代のイングランドのアルファベットは二十四文字だ、二十六文字で読むと全部が一つずつずれる、と。学生はみんなぽかんとしていた」

 高槻は懐かしそうに笑った。

 「何か調べものがあるなら、いつでも研究室に来なさい。先生の資料なら、私のほうが少しは分かる」


◇


 同じ日の午後、目白署の捜査会議には、新しい知らせが、いくつも届いた。

 最初は、冴子の件だった。

 「氷室冴子が大阪で会っていた指揮者には、東京に住む弟がいる。運送会社のドライバーで、十四日の夜の行動がまだ確認できていない」

 管理官が、一枚のチラシをホワイトボードに貼り出した。大阪で十四日に行われた、冴子の出演した演奏会のチラシだった。黒い地に白い百合。その上に、筆記体の英文。

 Remember me, but forget my fate.

 「演奏会の副題が、被害者のパソコンから妻に送られたメールの文面と、一字一句同じだ。『ah』もついていない」

 会議室がざわめいた。

 久我が、手を挙げた。

 「同じ表記は、カタログの帯にも、保管所の展示の題にも、高槻の講座にもあります。『ah』がないことが示すのは、書いたのが氷室さん本人ではない、ということだけです」

 管理官はホワイトボードの別の欄を指した。

 「もう一つ。近所の住人が、十月十二日の夜、氷室邸から女の大きな声を聞いている。『もう終わりにしましょう』。妻の声だった可能性が高い」

 三浦が、資料をめくった。

 「ただ、指揮者の弟は、十四日の二十時から二十四時まで、埼玉の配送センターと取引先を往復していました。車両のGPSの記録で確認が取れています。この線は、消えます」

 管理官はホワイトボードに、二十三時十分の線を引き直した。

 「メールを書いたのが被害者本人でないなら、二十三時十分、あの書斎のパソコンの前に、誰かがいた。その時刻の関係者の居場所を、もう一度並べろ」

 三浦が読み上げる居場所を、久我は手帳に書き留めていった。


 ——十月十四日 二十三時台

 氷室冴子 大阪

 指揮者の弟 埼玉(車両GPS)

 高槻誠 四谷の店(二十二時半〜翌一時。同席二十人以上)

 篠原玲司 自宅 一人

 ルーシー・ブラント ホテル 一人

 宮坂透 自宅 一人

 早瀬奏 自宅 一人


 三浦は続けた。

 「それから、英国の財団からの報告です。ロンドンの古書と古紙の業者の販売目録に、修復用の十七世紀の白紙の紙葉十二枚が載っていて、二〇二五年の九月に売却済み。発送先は東京。団員のカード会社に捜査関係事項照会をかけたところ、一社から回答がありました。その業者への支払い。カードの名義は、宮坂透です」

 管理官が、ホワイトボードの宮坂の名前を、赤い丸で囲んだ。

 三浦はもう一枚、紙をめくった。

 「それから、被害者の携帯の通話記録です。十四日の十七時二分、被害者から高槻誠の携帯へ発信、二分十四秒。これは高槻本人が話していたとおりです。そのあと、着信が一件。二十一時十七分、四十七秒。発信元は、アンサンブル・ラ・テールの連絡用の携帯電話です」

 「連絡用?」

 「古いプリペイドの携帯です。契約は団の事務担当の団員の名義ですが、その団員には打ち上げのアリバイがある。ふだんは団の共用の備品バッグに放り込んであって、団員なら誰でも取り出せます。十五日の午後、劇場のロビーの長椅子で見つかって、忘れ物として届けられていました」

 管理官が、ホワイトボードの二十一時十七分に、赤い丸をつけた。

 「その時刻に、あの家に電話をかけられたのは、団の人間だ。高槻と、宮坂と、ほかの団員。二十一時台に一人だった者を、全員洗え」

 管理官はそれから付け加えた。

 「池袋から目白にかけて、二十一時台に営業していたタクシー会社に、車内映像の保全を頼んでおけ。消される前にだ。提出を受けるときは、令状を取る」

 会議室の空気が、はっきりと変わった。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

次話もお楽しみにしていただけると嬉しいです。

感想やご指摘をいただけると、今後の励みになります。


(更新:毎日22時投稿予定)

隠岐群青

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