第五章 インクの染み 3
三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。
この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか。
会議のあと、署の屋上で、久我は奏にだけ言った。
「ブラント氏のことも、疑わずに済ませる理由が、まだありません。画像をすべて管理しているのは彼女で、約束を延期されたという話も、彼女の証言しかない。氷室さんが先に点の意味を発表すれば、発見者の座は彼女のものではなくなる」
「ルーシーさんが、先生を……」
「そう言っているのではありません。まだ、何も言えないというだけです」
◇
その日の夕方、奏は目白の氷室邸の近くにある小さな喫茶店で、冴子と向かい合っていた。
冴子から、会いたいと連絡があったのだった。警察に家を調べられているあいだ、冴子は近くのホテルに移っていた。化粧をしていない顔は、この数日でさらに痩せたように見えた。
「警察に、大阪のチラシのことを聞かれたわ」
冴子はコーヒーに口をつけずに言った。
「あの副題、私が選んだと思われてる」
「違うんですか」
「主催者が勝手に決めたのよ。印刷が上がってきたとき、私、抗議したの。『ah』がない、これじゃ女王が息をしてない、って。あの人の受け売りだけど」
冴子は笑った。
「刷り直しは間に合わないって言われた。だから、当日の舞台では、せめて歌で取り返そうと思った。——ねえ、奏くん。私、あの一行を、『ah』抜きで歌ったことは一度もないのよ。十二年間、一度も」
「十二日の夜、ご近所の方が、言い争う声を聞いたそうです」
冴子は目を伏せた。
「もう終わりにしましょう、って言ったのは、私。でも、あの人に言ったんじゃない。電話で、大阪の彼に言ったの。台所で、大きな声を出してしまった。あの人は、書斎で聞いていたと思う。何も言わなかったけれど」
冴子は窓の外の坂道を見た。
「十三日の夜に、あの人から電話があった。大阪のホテルに。珍しく、機嫌がよかった。『冴子、低音の中から、三百年前の誰かの声が聞こえるんだ』って。何のことって聞いたら、『ディドは呪わなかった。でも、誰かが、忘れないことにしたんだ』って。それだけ言って、切ったわ」
冴子はようやくコーヒーを一口飲んだ。
「あれが、あの人と話した最後だった」
◇
喫茶店を出たところで、奏の携帯に、篠原から電話がかかってきた。
「早瀬さん。お耳に入れておきたいことが」
篠原の声は、上ずっていた。
「英国の財団が、オークション会社に写本の出品者を問い合わせたそうです。出品者はスイスの代理人を通した匿名の人物で、来歴の書類に添付されていた旧家の蔵書印も、その家の子孫は見たことがないと」
電話の向こうで、篠原が大きく息を吸う音がした。
「私は、騙されたんでしょうか。早瀬さん、私は何を買ったんでしょう」
◇
十月二十日、午後三時。
奏は自分のアパートで、テレビのニュースを見ていた。
東都藝大の会議室で、高槻誠が記者会見を開いていた。濃紺のスーツに、白いシャツ。胸元には、喪に服すような黒いネクタイを締めている。
「氷室先生のご逝去を受けて、一部の報道で、チェルシー写本の真正性に疑問が呈されているかのような記事が出ています。私は研究者として、その点について明確にお答えしたい」
画面の下のテロップが、一瞬だけ「故・氷室慧氏の弟子 高槻誠氏」と出て、すぐに「東都藝術大学准教授 高槻誠氏」に差し替えられた。高槻は、何事もなかったように話し続けた。机の上に置いた右手の指先が、話の切れ目ごとに、天板を四つずつ軽く叩いていた。
高槻の声は、よく通った。
「チェルシー写本は、十七世紀の写譜師の手による真正な資料です。紙もインクも、時代と矛盾しないことが確認されています」
記者の一人が、手を挙げた。
「氷室先生は、写本の美しさに、かえって疑問を持っていたという話がありますが」
高槻は少しも表情を変えなかった。
「確かに、この写本は、驚くほど美しい。汚れ一つ、染み一つない。ですが、それこそが、この写譜師が当時の一流の職人だった証拠です。美しすぎるから偽物だというのは、学問ではなく、印象論です」
高槻は一度言葉を切り、カメラをまっすぐに見た。
「ディドは、最後にこう歌います。Remember me, but forget my fate. 私を覚えていて、でも、私の運命は忘れて。私は、氷室先生のことを、この写本とともに覚えていたい」
奏はテレビの画面を見つめたまま、動けなくなっていた。
Remember me, but forget my fate.
高槻の口から出たその一行には、「ah」がなかった。
奏はテレビを消した。部屋が、急に静かになった。
大阪のチラシ。篠原の店のカタログの帯。ルーシーのステッカー。高槻の講座。そして、いまのカメラの前の言葉。「ah」の落ちた一行は、この事件の周りのあちこちに、ありふれた顔で並んでいた。先生が講座で嘆いていたように。
メールを書いたのは先生ではない。それだけは確かだった。けれど、「ah」は、それ以上のことを教えてはくれない。
決め手が、要る。
奏は机の上に置いたままの楽譜を開いた。
あの朝、譜面台にあったのと同じ、現代の校訂譜のコピー。第三幕の終わりのページ。低音の五線を、指でたどる。
全てはバッサカリアが教えてくれる。
なぜ、「バ」なのか。奏は余白に「バッサ」と書いてみて、手を止めた。パを濁らせればバッサ、イタリア語で『低い』だ——あの日、一人で笑っていた師の駄洒落が、いまになって耳に戻ってきた。bassa。低い。先生は、パッサカリアという形式の名前ではなく、その中の低いところ、低音を見ろと言っていたのではないか。
奏はパソコンの画面に、もう一度、ウェクスクーム断片の画像を開いた。
高槻は、この点をインクの染みだと言った。
奏は断片の画像を、上から下まで、見直した。
ト音記号の五線。歌の旋律。歌詞。そこには、染み一つなかった。
点は低音の上にだけ、打たれていた。インクの染みが、低音の上にだけ落ちるはずがない。先生は死ぬ間際に、たった一文字を変えて、それを奏に伝えたのだ。
では低音は、何を教えようとしているのか。
奏は断片の画像を拡大した。一回目の低音。二番目の音の上の点。二回目。五番目の音の上の点。
二と、五。
奏はその二つの数字を、紙に書きつけた。三回目、二。四回目、三。五回目、三。六回目、六。
数字は増えも減りもせず、一から六のあいだを行き来していた。低音の六つの音の、どれか一つ。
奏はペンを置いた。
十個の点。十個の数字。インクの染みは、数を持たない。けれど、これは数えられる。
そして数えられるものは、読むことができる。
——先生は、これを、読んだのだ。
奏は断片の画像の、欠けた右下の角を見つめた。三百年のあいだに虫に食われ、失われた紙の端。そこに、この十個の数字を読むための鍵が書かれていたのかもしれない。あるいは鍵は、紙の上ではなく、どこか別の場所に隠されているのかもしれない。
スマートフォンが、机の上で震えた。
久我からのメッセージだった。
——しばらく、会えません。管理官の命令です。
奏はその一行を、何度も読み返した。
◇
その二時間前、目白署の捜査会議で、管理官は一枚の書類をホワイトボードに貼り出していた。
「被害者の顧問弁護士から、今日の午後、連絡があった。十月十三日、被害者は、数日前から相談していた弁護士を自宅に呼び、用意してあった文案をもとに、自分の手で新しい遺言書を書いている。全文を自書し、日付と署名、押印もある。前の遺言はそのままに、項目を一つ加える内容だ。弁護士の話では、被害者はそのとき、近いうちにある人に厳しい話をしなければならない、何があっても楽器が行き場を失わないようにしておきたい、と言っていたそうだ」
管理官は書類の一行を指で叩いた。
「十八世紀のイタリア製のバロック・チェロ一挺と、低音楽器の楽譜の蔵書を、早瀬奏に遺す」
会議室が、ざわめいた。
久我は腕を組んだまま、その一行を見つめていた。
「早瀬奏。第一発見者。証拠の頁を撮影している。書き込みの中身を知っている唯一の民間人。十四日の夜は、自宅に一人。そして事件の前日に、被害者から高価な楽器を遺される追記が作られていた」
管理官は久我のほうを向いた。
「本人が追記を知っていたかどうかは、まだ分からない。だが協力者として扱うのは、今日で終わりだ。接触も、捜査の情報を渡すことも禁じる。いいな」
久我は黙っていた。
「……はい」
会議が終わったあと、久我は廊下の窓際で、携帯を握っていた。画面が暗くなるたびに、親指で明かりを戻した。三度目に、短いメッセージを打った。一行目を送り、少し迷って、二行目を打った。
◇
奏の画面に、二行目が届いた。
——あなたの先生は、十三日に、何を予感していたんでしょう
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




