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第六章 低音は忘れない 1

三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。


この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか


一六八八年十二月〜一六八九年五月 ロンドン/チェルシー


 「ナット、これを燃やしてくれ。さもなきゃ、おれたちは二人とも吊るされる」

 十二月十二日の真夜中、ナサニエル・クルーの下宿の扉を叩いたのは、エドワード・ハーリーだった。

 ネッドは雪まじりの雨に濡れそぼり、歯を鳴らしていた。外套の下から、油紙に包んだ薄い束を取り出し、ナサニエルの胸に押しつける。その手は、寒さのせいだけではなく震えていた。

 窓の外の空が、赤かった。

 テムズの北岸のあちこちで、火の手が上がっていた。昨日の未明、国王ジェームズ二世がホワイトホールからひそかに逃げ出したという知らせが広まり、ロンドンの群衆は、夜が明けるのを待たずにカトリックの礼拝堂を襲い始めた。祭壇が引きずり出され、通りで燃やされる。大使の館の窓が割られる。オランダの公の軍勢はまだ西の街道の途中にいて、この街を治める者は、誰もいなかった。

 「役所が、空っぽになった」

 ネッドは暖炉の残り火の前にしゃがみ込んで言った。

 「大臣は逃げた。上の書記たちも逃げた。書類は、床にぶちまけられたまま。明日にはオランダの公の手の者が来て、全部押さえる。誰が誰を売ったか、全部だ。その前に、自分の名前の出てくる書類を持ち出そうと、あちこちの連中が漁ってた」

 ネッドはナサニエルの手の中の包みを見た。

 「おれは、自分のためじゃない。お前のために、それを持ってきた。九月に、切れ端を渡しただろう。あれの、本体だ」

 ナサニエルは油紙を開いた。

 中にあったのは、一枚の紙だった。

 縁の一か所が、指の爪ほどちぎれて欠けている。九月にネッドから受け取った、あの切れ端の形に、ぴたりと合う欠け方だった。紙を裏返すと、刷られた五線が透けて見えた。アムステルダムの透かし。

 表の面にはインクで、四行だけが書かれていた。

 Capt. R. Ashe, of the Queen Dowager's Regiment, sails from Wapping at dawn on the 28th inst.

 He carries Letters to the Prince of Orange, sewn within his Coat.

 He is to be taken aboard, and not before.

 A Friend to His Majesty.

 アッシュ大尉、今月二十八日の夜明けにワッピングより出帆。オラニエ公宛の書簡を、上着に縫い込んで携行。乗船の際に捕らえるべし、それより前にはあらず。——国王陛下の一友人より。

 ナサニエルはその四行を、三度読んだ。

 署名はなかった。筆跡はわざと崩したように、角張っていた。けれど写譜師の目は、崩した字の底に残る、どうしても隠しきれない手の癖を拾う。

 二行目の、Prince の P。縦の線を下から書き始め、上で大きく右に巻き込んで、輪を閉じずに流す。

 四行目の、His Majesty の M。最初の山を、ほかの山より一段高く跳ね上げる。

 ナサニエルは目を閉じた。

 九月、ストランド街の屋敷の書斎で、息を殺してめくった緑の革表紙の帳面。その最初の数頁に、流麗な筆跡で写されていた流行り歌。

 Phillis, the fairest of love's foes。

 My Mistress frowns。

 あの P。あの M。

 「ナット?」

 ネッドが、不安そうに顔を覗き込んだ。

 ナサニエルは紙から目を上げた。

 「知っている手だ」

 ネッドを暖炉の前に残し、夜明け前の通りに出たのは、息がつまりそうだったからだ。

 ストランド街の方角の空が、まだ赤く燃えていた。リンカーンズ・イン・フィールズのあたりから、群衆の叫び声が風に乗って届く。角を曲がると、石畳の真ん中で、礼拝堂から引きずり出された木の椅子や、祭壇の飾り布が燃やされていた。火の粉が、雪まじりの雨の中で、ちりちりと音を立てて消えていく。

 炎を囲む男たちの一人が、金の縁取りの祈祷書を火に投げ込み、歓声を上げた。別の男が、あの歌を歌い出した。リリバレロ。子どもたちが、手を叩いて囃した。

 ナサニエルはその輪から少し離れた軒下に立って、炎を見ていた。

 五か月前の夜明け、ワッピングの埠頭で、声を殺して見ていた光景を思い出した。あのとき、国王の兵士たちは、国王の敵を捕らえた。いま、この通りでは、国王の敵だった者たちが、国王の味方だった者たちの祭壇を燃やしている。

 どちらの夜にも、誰かが、誰かの名前を売ったのだろう。

 あの四行を書いた手を、自分は知っている。明日になれば、オランダの公の手の者が役所を押さえる。名前を告げれば、あの手の持ち主は、新しい時代の敵として裁かれるかもしれない。

 だが、そのとき、紙を盗み出したネッドの名前も、一緒に告げなければならない。そしてヘスターは婚約者の死の理由を、法廷で、何度も何度も聞かされることになる。

 燃える椅子の脚が崩れ、火の粉が高く舞い上がった。ナサニエルはそれが雨の中で消えていくのを、最後の一粒まで見届けてから、下宿へ戻った。


◇


 十二月十八日、オラニエ公ウィレムは、雨の中をロンドンに入った。

 セント・ジェームズ宮殿までの沿道には、オレンジ色のリボンを帽子につけた人々が詰めかけ、鐘が鳴り、篝火が焚かれた。一度は捕らえられて連れ戻されていた国王ジェームズは、その翌週、今度こそフランスへ逃れた。

 年が明けると、ホワイトホールの廊下は、オランダ訛りの英語で溢れた。

 一月の半ば、ナサニエルはパーセルの供をして、宮殿の礼拝堂の楽譜を届けに行った。その廊下の角で、見覚えのある深い緑の天鵞絨の上着とすれ違った。

 サー・エドマンド・ライルだった。

 ライル卿の帽子には、真新しいオレンジ色のリボンが結ばれていた。数人のオランダ人の士官と談笑しながら、ライル卿はナサニエルに気づいて、にこやかに会釈した。

 「やあ、クルー君。新しい時代だね」

 ライル卿の胸元の襞飾りには、やはり、黒真珠のピンはなかった。

 廊下を曲がってから、パーセルが、低い声で言った。

 「ライル卿は十一月のうちに、ノッティンガムの貴族たちに金と馬を送っていたそうだ。オランダの公に味方する側にな。いまでは、新しい宮廷で一番の忠臣の一人だ」

 二人とも、それ以上は口をきかなかった。廊下の先で、オランダ訛りの笑い声が弾けた。

 あの四行の紙は、ネッドの震える手に返していた。十二月十二日の夜明け前、ナサニエルの目の前で、ネッドはそれを暖炉にくべた。国の役所から書類を盗み出した書記は、どちらの国王の世でも、吊るされる。ネッドを守るには、燃やすしかなかった。

 ライル卿の手の癖を知っているのは、いまでは、ナサニエルの目だけだった。


◇


 二月のある午後、ナサニエルはチェルシーの学校の楽器部屋を訪ねた。

 ギデオン・ヘイルは、いつもの窓際の椅子にいた。ヴァイオリンは膝の上になく、代わりに、両手の中で、何か小さなものを弄んでいた。

 ナサニエルが部屋に入ると、ギデオンは顔も上げずに言った。

 「来ると思っていた」

 ギデオンは手のひらを開いた。

 黒真珠のピンだった。

 鈍い光沢の真珠が一粒、金の台座に留められている。十月の夕暮れ、この部屋の窓の内側で、ナサニエルが見た光だった。

 「七月二十五日の、夜だ」

 ギデオンはピンを指先で回した。

 「あの大尉が、桑の木の下でミス・ヴェインに出航の日を話した日。おれは、ここで弦を張り替えていた。日が暮れて、蝋燭を取りに一度出て、戻ってきたら、棚の前に誰かがいた。緑の帳面を開いて、頁のあいだから手紙を抜き出して、読んでいた」

 ギデオンは窓の外の桑の木を見た。

 「おれが扉を開ける音で、そいつは帳面を閉じて、何食わぬ顔で振り返った。後援者どのだった。お嬢さん方の練習の帳面を、見せてもらっていたところだ、とさ。そして、すぐに出ていった。そのあとで、棚の下に、これが落ちていた」

 「どうして、すぐに言わなかったんです」

 「誰に言う?」

 ギデオンは乾いた声で笑った。

 「足の悪い、兄貴がローマの神父だと噂される伴奏弾きが、国王の宮廷に顔の利く後援者どのが、国王の敵の手紙を盗み読みした、と訴える。七月のロンドンでだ。吊るされるのは、どっちだと思う」

 ギデオンはピンを握りしめた。

 「翌日、あの黒い外套の従僕が来て、旦那様がピンを落とされたので探している、と聞いてきた。おれは、知らんと答えた。それから、ずっと、こいつを持っていた。どうすればいいのか、わからないまま」

 「十月に、この窓の内側に立っていたのは」

 「おれだ。お前が、ミス・ヴェインと話しているのを見ていた。これを、お前に渡そうかと思った。だが渡せば、お前はこれを持って、ライル卿のところへ乗り込むだろう。そうすれば、次に吊るされるのはお前だ」

 ギデオンはナサニエルの目をまっすぐに見た。

 「去年の秋も、そうだった。お前がパーセル氏と初めてここへ来た日、あの従僕が、船着き場でお前と大尉を見張っていた。おれはそれをお前に伝えようと、この脚を引きずってウェストミンスターまで後をつけた。だがパーセル氏の家の前まで来て、怖くなって引き返した」

 霧の中の、五つ数えるたびに少しだけ間の空く足音。

 ナサニエルは、ギデオンの左の足首に巻かれた、古い革の帯を見ていた。

 「あなたを、疑っていました」

 「知っている」

 ギデオンはピンをナサニエルの手のひらに落とした。

 「国王は替わった。いまなら、これで吊るされるのは、後援者どののほうかもしれん。——お前が決めろ、写譜屋。おれはもう、この重さを持っていたくない」

 ギデオンは、もう一度、口を開きかけた。

 「それから、写譜屋。あの晩、あの男が、どうやって、あの帳面の、あの頁にたどり着いたのか——」

 「今日は、ピンだけで十分です」

 ナサニエルはそれを遮った。ギデオンの目を見ていれば、続きは聞かなくても分かる気がした。

 ギデオンは、空になった手のひらを一度開き、また閉じた。そして、窓のほうへ顔を背けた。

 「……そうか」


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

次話もお楽しみにしていただけると嬉しいです。

感想やご指摘をいただけると、今後の励みになります。


(更新:毎日22時投稿予定)

隠岐群青

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