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第六章 低音は忘れない 2

三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。


この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか

 その夜、ナサニエルの下宿に、ヘスターからの手紙が届いた。

 ナサニエルは二週間前に、ヘスターにだけ打ち明けていた。密告した人間を、見つけてしまった、と。

 ヘスターはその先を言わせなかった。ナサニエルの唇に指を当てて、名前を言わないで、と言った。そして手紙を書くから待っていて、と。

 封を切ると、見慣れた、少し右に傾いた字が並んでいた。

 Nathaniel,

 あなたがあの人の名前を見つけたことを、疑ってはいません。あなたの目は、一つの音符も見逃さない目ですから。

 でも、お願いです。その名前を、私には教えないでください。

 この何か月、私は何度も、その人を呪う夢を見ました。ウェルギリウスの女王のように、骨から復讐者が起こるように、と。けれど目が覚めるたびに、呪いは地面に吸われて何も残らず、残るのは、ロバートを失った朝の、ニューゲートの石の冷たさだけでした。

 私は、ロバートを覚えていたいのです。あの人の笑い方も、ぎこちない手の取り方も、休暇が三日しかないと言ったときの、困った顔も。

 けれど、あの人がどう死んだかは、忘れたいのです。誰に売られ、どんな暗い場所で、どんな熱にうなされて死んだのか。それを覚えていたら、私は残りの一生を、その暗い場所で暮らすことになるでしょう。

 Remember him, but ah! forget his Fate.

 この一行を書くとき、私は一度だけ、深く息をしました。

 この春の上演で、私は女王を歌います。どうか、あなたも誰も呪わないでください。

 そして、もしどうしてもその名前をこの世のどこかに残さなければならないのなら、私の知らない場所に、私の読めない形で、残してください。

 Leave it where I know not, in a Form I cannot read.

 Hester

 ナサニエルは手紙を膝の上に置いた。

 蝋燭の炎の向こうに、机の上のパーセルの新しい清書の束が見えていた。春の上演のための、仮面劇の総譜。その最後の頁の、低音の五線。

 私の知らない場所に。私の読めない形で。

 ナサニエルは上着の内ポケットから、一年半前にチェルシーで書いた反故紙を取り出した。何度も折り畳まれ、角の擦り切れた紙。ヘスターが書いた数字の列。

 ヘスターはこの数字の遊びを知っている。

 だが低音の五線の上の蠅の糞のような点を、数字として読むことは、誰にもできない。

 ——君の、あの蠅の糞のような点も、低音の上に打っておけば、目立たないかもしれんぞ。

 一年半前の主人の冗談が、耳の奥で笑った。


◇


 四月十一日、ウィリアム三世とメアリー二世の戴冠式が、ウェストミンスター寺院で執り行われた。

 パーセルは、寺院のオルガニストとして式の音楽に関わった。ナサニエルはその前の一週間、ほとんど眠らずにパート譜を写し続けた。

 式の数日後、パーセルは寺院の参事会から呼び出しを受けて、苦虫を噛み潰したような顔で帰ってきた。

 「オルガン席の見物料を、寄越せと言うんだ」

 パーセルは仕事部屋の椅子にどさりと腰を下ろした。

 「戴冠式の日に、オルガン席から式を見たいという紳士淑女に、席を売った。昔から、オルガニストの役得だ。それを、参事会が、寺院の金だから返せと言う。返さなければ、職を解き、給金を差し止める、とさ」

 パーセルは天井を仰いだ。

 「国王が替わっても、金の話だけは替わらん」

 ナサニエルは、思わず笑った。パーセルも、笑った。二人で笑ったのは、ずいぶん久しぶりのことだった。

 笑いが収まると、パーセルは机の上の総譜を指で叩いた。

 「チェルシーの上演は、来月だ。テイトが、新しい国王と女王を讃える前口上を書き足した。海を越えて来た太陽の神と、愛の女神の話だそうだ。まったく、あの男は、風を読むのがうまい」

 パーセルはナサニエルの顔を見た。

 「最後の清書は、君に任せる。あの嘆きの歌の頁は、とりわけ丁寧に写してくれ。ミス・ヴェインが歌う頁だ」

 「はい」

 ナサニエルは頭を下げた。

 「一つも、違えずに写します」


◇


 上演の十日前、チェルシーの広間で、最後の場面の稽古が行われた。

 ヘスターが嘆きの歌を歌い終え、最後の低音を弦が弾き終えると、テイトが、台本を手に立ち上がった。

 「ヘンリー。やはり、ここで女王は、剣を取るべきではないかね」

 テイトは台本の余白を指で叩いた。

 「ウェルギリウスの女王は、剣の上に身を投げる。観客は、それを待っている。歌が終わったら、女王は短剣を抜いて、胸に突き立てる。そして倒れる。そこへ、キューピッドたちが降りてきて、墓に薔薇を撒く。ト書きを一行、足すだけだ」

 パーセルはチェンバロの前に座ったまま、黙っていた。

 「ネイハム。いまの歌を聴いて、この女王に、剣が要ると思ったか」

 テイトは口を開きかけて、閉じた。

 広間の中央で、ヘスターはまだ歌い終えたときの姿勢のまま、立っていた。両手は、胸の前で軽く組まれていた。剣を握る手ではなかった。

 「この女王は、誰にも殺されない。自分でも、自分を殺さない」

 パーセルは低音の最初の音を、一つだけ鳴らした。

 「覚えていて、と言い、忘れて、と言い、そのあいだで一度だけ息をして、それから息をするのをやめる。それだけでいい。どう死んだかは、観客に忘れさせてやれ」

 テイトは、台本の余白を指で二度叩き、三度目で止めた。

 それからペンを取り、余白に書きかけていた一行を、線で消した。

 「……ト書きは、なしだ」

 テイトは肩をすくめた。

 「女王がどう死ぬのか、台本には書かない。書かなければ、あとの世の誰も、それを知ることはない。——ヘンリー、君は、ときどき、詩人よりも残酷だな」

 パーセルは笑わなかった。

 ナサニエルは広間の隅で、その消された一行を見ていた。台本から、女王の死に方が消えた。けれど女王の最後の歌の下では、低音が、同じ地面を歩き続ける。


◇


 その夜、ナサニエルは下宿の机に、新しい五線紙を広げた。

 パーセルから預かった紙ではなかった。三か月前に、自分で求めておいた紙だった。ストランド街の文房具屋の奥で、オランダから入ったばかりだという、刷り五線の束を、一年分の蓄えをはたいて買った。

 アムステルダムの紙。

 密告の手紙が書かれたのと、同じ紙。

 ナサニエルは蝋燭の芯を切り、インク壺にペン先を浸した。

 歌の旋律を写す。歌詞を写す。When I am laid in earth. 弦の声部を写す。一つの音も違えずに。そして最後に、低音の五線に、あの六つの下降音を、繰り返しの数だけ、書き出した。

 インクが乾くのを待って、ナサニエルは反故紙を一枚、机の端に置いた。

 その紙に、ナサニエルは五つの文字を書いた。蝋燭の火が揺れ、紙の上の文字は、自分の手の影に隠れた。

 それから指を折って、数を数えた。一文字ずつ。

 途中で、ナサニエルはペン先を止めた。

 一年半前、チェルシーの広間で、自分の名前を数字にしたとき、十三を十二と書き違えた。一文字違えば、別の名前になる。——気をつけないと。ヘスターの声が、蝋燭の揺らぎの向こうで言った。

 ナサニエルはもう一度、最初から数え直した。間違いない。

 ナサニエルは一回目の低音の、ある音符の真上に、ペン先を、そっと下ろした。

 小さな、黒い点が一つ。

 二回目の低音に、一つ。三回目に、一つ。

 点を一つ打つたびに、ナサニエルは反故紙の文字に目を戻し、指を折り直した。窓の外で、夜番の男が、時刻を告げて通り過ぎていった。

 十個の点が、低音の上に、並んだ。

 遠くから見れば、ペン先から散ったインクの染みにしか見えなかった。符頭の黒と、ほとんど見分けがつかない。蠅と間違えられるくらいで、ちょうどよかった。

 ナサニエルは十一回目の低音を見下ろした。

 五線の上にかざしたペン先で、残ったインクが重く丸まり、いまにも一滴落ちそうになった。ナサニエルは、それを壺の縁で拭った。

 その最後の低音は、女王が歌い終えたあとに、弦だけで弾かれる後奏になる。歌はもう、そこにはない。ディドは、もう歌わない。

 この小節には何も打たない、とナサニエルは決めた。

 ヘスターが、息をするための場所だ。

 それから、ナサニエルは楽器部屋の窓の内側に立っていた男の顔を思い出した。ピンを手のひらに落とした指と、言いかけてやめた口を。

 名前は、一つしか刻まない。この五小節に何を刻まないのかを、ナサニエルはもう決めていた。

 ナサニエルはペンを置いた。

 十一回目の五小節は、黒くなめらかなまま、紙の上に横たわっていた。

 ナサニエルは机の端の反故紙を取り上げた。五つの文字と、指を折って数えた跡の、小さな数字の列。

 鍵は、これだけだった。これが残っていれば、いつか誰かが点を読む。

 ナサニエルはその紙を蝋燭の炎にかざした。紙の端が黒く縮れ、五つの文字が、炎の中で、一文字ずつ消えていった。

 鍵は、自分の頭の中にだけ残しておく。点が数であることに気づき、数え方まで見つけ出す人間は、この世に、自分のほかにはいない。

 ——少なくとも、いまは。

 灰を暖炉に払い落としながら、ナサニエルはふと、何百年も先のことを思った。この紙が、どこかの箱の底で、誰にも読まれずに眠り続ける。そしていつか、自分と同じように、低音の上の点を、数えずにはいられない人間が現れる。

 そのとき、この点は、呪いになるのだろうか。

 それとも、ただ、覚えているということになるのだろうか。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

次話もお楽しみにしていただけると嬉しいです。

感想やご指摘をいただけると、今後の励みになります。


(更新:毎日22時投稿予定)

隠岐群青

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