第六章 低音は忘れない 3
三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。
この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか
五月の初め、チェルシーの学校の広間は、ロンドン中の上流の家の人々で埋まっていた。
窓という窓が開け放たれ、庭の桑の木の若葉の匂いが、蝋燭の熱と混ざり合っていた。広間の前方に、急ごしらえの舞台が組まれ、少女たちが揃いの白い衣装で、テイトの前口上に合わせて踊った。海を越えて来た太陽の神が、この国に新しい春をもたらす。客席から、拍手と笑い声が上がった。
最前列の中央の席に、サー・エドマンド・ライルが座っていた。
ナサニエルは舞台の脇の弦楽の奏者たちの端で、低音のヴィオールを膝に抱えていた。隣では、ギデオンがヴァイオリンを構えている。二人は上演のあいだ、一度も目を合わせなかった。
物語が進んだ。魔女たちが笑い、船乗りが歌い、エネアスが去っていった。
そして、女王の最後の場面になった。
ヘスターが、舞台の中央に進み出た。飾り気のない、灰色の衣装だった。客席が、静まり返った。
Thy hand, Belinda; darkness shades me——
レチタティーヴォが終わる。
ナサニエルは弓を弦に当てた。
ソ。
低音の最初の音が、広間の床板を震わせた。ファのシャープ。ファ。ミ。ミのフラット。レ。
ナサニエルの目の前の譜面台には、昨夜まで写し続けた、あの清書の頁が置かれていた。一回目の低音の上に、小さな黒い点が一つ。
ナサニエルはその音を弾いた。
ヘスターの声が、低音の上に降りてきた。
When I am laid, am laid in earth——
ヘスターは五小節目で、足場を失わなかった。低音と揃わない場所で、きちんと息をつき、次の地面へ、足を運んだ。一年半前、初めてこの低音の上で歌ったときとは、違う声だった。
二回目の低音。二つ目の点。ナサニエルはその音を、ほかの音と同じ重さで弾いた。
三回目。四回目。低音は同じ地面を、何度も、何度も歩いた。
ナサニエルは最前列のライル卿を見なかった。ただ、低音を弾き続けた。この五小節の、この音の上に、この男の名前がある。それを知っているのは、この広間で、自分だけだった。ギデオンでさえ知らない。ヘスターでさえ、知らない。
Remember me——
ヘスターの声が、高く上がった。
but——
ah!
声は、「ah」のところで、ほんの一瞬、崩れた。
息が、言葉の外へこぼれ落ちるように。ニューゲートの石の廊下で、ヘスターが崩れなかった、あの場所で。
ナサニエルは弓を持つ手が震えそうになるのを、必死にこらえた。
forget my fate.
ヘスターの声が、降りてきた。
九回目。十回目。最後の点。
そして、歌が終わった。
十一回目の低音を、弦だけが弾いた。ナサニエルの譜面台の上で、その五小節は、黒くなめらかなまま、何の印も持たずに横たわっていた。
ナサニエルはその五小節を、これまでで一番静かに弾いた。
◇
上演が終わり、客たちが庭へ流れ出していくなかで、ナサニエルは最前列の席から立ち上がったライル卿に近づいた。
「サー・エドマンド」
「やあ、クルー君。素晴らしい上演だった。ミス・ヴェインの最後の歌は、特にね」
ライル卿はいつもの笑みを浮かべていた。
ナサニエルは上着の内ポケットから、小さな布の包みを取り出し、ライル卿の手のひらに載せた。
「学校の者が、見つけていました。お探しの品では、ありませんか」
ライル卿は包みを開いた。
黒真珠のピンが、午後の光を受けて、鈍く光った。
ライル卿の笑みは、崩れなかった。
ただ、その指が、ピンを包み込むように、閉じた。
「これは、ありがたい。父の形見でね。どこで見つかったのかな」
「楽器部屋の、棚の下です」
ナサニエルはライル卿の目を見た。
「七月の、二十五日の夜に落ちたものだそうです」
ライル卿の目の奥で、何かが、音もなく凍りついた。
二人のあいだを、庭から吹き込む風が抜けていった。遠くで、少女たちが笑っていた。
「……君は、何が望みだね」
ライル卿の声は、囁きよりも低かった。
ナサニエルは首を振った。
「何も。私は、ただの写譜師です。何も訴えませんし、何も求めません。誰も、呪いません」
ナサニエルは一歩下がって、頭を下げた。
「ただ、覚えているだけです」
ナサニエルは振り返らずに広間を出た。
庭の桑の木の下で、ヘスターが、少女たちに囲まれて笑っていた。ナサニエルに気づくと、ヘスターは小さく手を振った。何も知らない、晴れやかな顔だった。
ナサニエルは手を振り返した。
上着の内ポケットの中で、あの反故紙が、かさりと鳴った。
一年半前、パーセルが、あの低音の紙の余白に書きつけた言葉を、ナサニエルは思い出していた。
The Song may forget; the Ground remembers.
歌は、忘れるかもしれない。
だが地面は、覚えている。
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




