第七章 バッサ 1
三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。
この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか
二〇二六年十月二十一日〜二十二日 東京
午前四時十一分、十個の点は、五つの文字になった。
L、I、S、L、E。
早瀬奏はアパートの机の上に散らばった紙の山の真ん中で、その五文字を見つめていた。窓の外はまだ暗く、遠くの武蔵野線を、始発前の貨物列車が通り過ぎていく音がした。
手が、震えていた。
何かの間違いかもしれない、と思った。五時間かけて、何十通りもの読み方を試し、そのすべてが意味のない文字の列に終わったあとだった。疲れた頭が、ありもしない言葉を紙の上に見ているだけかもしれない。
奏はもう一度、最初から数え直した。
断片の一回目の低音、二番目の音。二回目、五番目。三回目、二番目。四回目、三番目。五回目、三番目。六回目、六番目。七回目、二番目。八回目、五番目。九回目、一番目。十回目、五番目。
二と五。二と三。三と六。二と五。一と五。
二十四文字のアルファベットを、六文字ずつ四つの組に分ける。一つ目の数字で組を選び、二つ目の数字で、その組の中の何番目かを選ぶ。
二つ目の組の、五番目。L。
二つ目の組の、三番目。I。
三つ目の組の、六番目。S。
二つ目の組の、五番目。L。
一つ目の組の、五番目。E。
LISLE。
間違いではなかった。
奏は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。蛍光灯の白い光が、にじんで見えた。
インクの染みは、数を持たない。数を持たないものは、名前にはならない。
三百年前、誰かが、低音の上に、名前を刻んだのだ。
◇
そこへ至るまでの五時間は、ほとんど絶望の連続だった。
二十六文字のアルファベットに番号を振って置き換えても、足しても、掛けても、意味のある綴りにはならなかった。一つ目の数字から一を引いて六を掛け、二つ目を足す読み方を試したとき、ようやく一つだけ、人名らしい形が出た。二十六文字の表で、K、I、R、K、E。
KIRKE。
奏は一瞬、手を止めた。カーク。英語の人名にありそうな綴りだった。十七世紀のイングランドに、カークという名の軍人がいたような気もする。
けれど断定するには、何かが引っかかった。二十六文字の表でたまたま人名らしい綴りが出ただけかもしれない。偶然の一致は試す回数を増やせば、いくらでも出てくる。
奏はKIRKE の横に疑問符を書き、椅子の上で膝を抱えた。
そのとき、ふと、十九日に大学の廊下で聞いた声を思い出したのだった。
——先生は黒板にアルファベットを書いて、JとUを消してみせたんだ。この時代のイングランドのアルファベットは二十四文字だ、二十六文字で読むと全部が一つずつずれる、と。
懐かしそうに笑っていた、高槻の声だった。
奏は跳ねるように机に向き直った。
二十四文字の表を書く。A一、B二、C三、D四、E五、F六、G七、H八、I九、K十、L十一。
Jがない。だから、Kは十。Lは十一。
十一、九、十八、十一、五。
L、I、S、L、E。
二十六文字の表で読んだKIRKEは、二十四文字の表では、LISLEになった。一文字ずつ、ずれていたのだ。
一文字違えば、別の名前になる。
そんな当たり前のことが、なぜか、ひどく怖いことのように胸に落ちた。
そのとき奏の頭の奥で、別の頁が開いた。
十五日の朝、譜面台の上の先生の校訂譜。はじめのほうの低音の音符の上に散っていた、鉛筆の芯が触れたような、小さな黒い点。
倒れるときに、鉛筆が紙をかすめた跡。自分は、そう思った。
高槻が、ウェクスクーム断片の点を、インクの染みだと思ったのと、同じように。
番号は、断片の低音と一回ずつ照らし合わせろ、という合図だった。けれど「バ」は、断片ではなく、この頁の、この低音の上を見ろ、という意味だったのではないか。
奏はスマートフォンを掴み、あの朝に撮った一枚を開いた。指で拡大する。一回目、二回目の低音——
白かった。
証拠袋のビニールが天井の照明を跳ね返し、頁の左上、最初の数小節が、光に焼けて飛んでいた。点があったはずの場所には、白い靄しか写っていなかった。
午前四時二十分、奏は迷ったすえに、久我に短いメッセージを送った。会えない、と言われた相手に。
——先生の校訂譜の原本を、もう一度見せてください。一回目から四回目の低音の、音符の上です。鉛筆の点を、拡大して撮ってほしいんです。筆圧も。
◇
午前十時。帝国ホテルのラウンジで、奏はルーシー・ブラントの前に一枚の紙を置いた。
ルーシーはそこに書かれた五文字を見て、何も言わなかった。
それから、手元のノートパソコンを開き、ウェクスクーム州記録保管所の目録のデータベースに接続した。検索欄に、LISLE と打ち込む。
画面に、数十件の目録の項目が並んだ。
「ライル家」
ルーシーの声は、かすかに震えていた。
「ウェクスクームの近くに、十八世紀の終わりまで屋敷を構えていた一族です。一族の文書が、まとめて私たちの保管所に寄託されています。そして——」
ルーシーは画面をスクロールした。
「あの断片が見つかった教区教会の、十八世紀初めのオルガニストは、ライル家の礼拝堂の音楽も任されていました。オルガニストの遺品の箱と、ライル家の文書の一部は、同じ時期に、同じ教会の物置から出てきたんです」
奏は息を詰めた。
「サー・エドマンド・ライル」
ルーシーは目録の一項目を読み上げた。
「一六四〇年代の生まれ、一七〇一年没。ジェームズ二世とウィリアム三世の、両方の宮廷に仕えた廷臣。晩年はロンドンを離れて、ウェクスクームの屋敷に隠棲した」
ルーシーはスマートフォンを取り出し、ロンドンの国立公文書館に勤める同僚に、短いメッセージを送った。時差で、向こうはまだ夜中の二時だった。
返事は、二十分後に来た。
ルーシーは画面を読み終えると、息を一つ吐いた。
「一六八八年七月二十八日。ワッピングで、ロバート・アッシュという陸軍大尉が、オラニエ公宛ての書簡を所持していた罪で逮捕されています。国務大臣の役所の記録に、逮捕の命令書の写しが残っている。密告者の名前は、書かれていません。ただ『国王陛下の一友人より』の情報に基づく、と」
「アッシュ大尉は」
「同年十月、ニューゲート監獄で、獄中熱のために死亡」
ルーシーはスマートフォンを伏せた。
「早瀬さん。この点は、インクの染みではありません。三百年前に、この低音を写した誰かが、一人の軍人を売った男の名前を、ここに隠したんです」
奏はテーブルの上で、自分の両手を握り合わせていた。
点に、意味があった。
それが証明された瞬間、三日前に久我が口にした仮説が、仮説ではなくなった。その久我に、いまの奏は、会うことができなかった。
◇
「もう一つ、お見せしたいものがあります」
ルーシーはノートパソコンの画面に、断片の束から見つかった手紙の画像を映した。茶色く染みの浮いた紙に、細かい字がびっしりと並んでいる。
「断片と一緒に出てきた、N・Cという人物からオルガニストに宛てた手紙です。これまで、ほとんど読めませんでした。でも、十八日にあなたと低音の点の話をしてから、もう一度、紫外線撮影の画像を見直したんです」
ルーシーは画像の一部を拡大した。インクが褪せて消えかけた一行が、紫外線の光の中で、青白く浮かび上がっていた。
I send you the Queens Song in mine owne hand. The Ground remembers what I may not say.
——女王の歌を、私自身の手で写してお送りします。低音は、私が口にできないことを覚えています。
奏はその一行を、声に出さずに繰り返した。
The Ground remembers.
全ては、パッサカリアが教えてくれる。
三百年の時を隔てて、二つの言葉が、同じ場所を指していた。
ルーシーは画像を少し下へ送った。
「日付も、読めました。一六九五年、十二月。ヘンリー・パーセルが亡くなった、翌月です」
その下の数行は、紫外線の光の中でも、ところどころしか浮かび上がっていなかった。ルーシーは、読める単語だけを拾っていった。
「……Mr. Purcell……the Abby……Sir E. L.……asked of me Musick for his owne Buriall……I told him……」
ルーシーはそこで指を止めた。その先の数語は、インクが完全に消えていた。
「最後の一行だけ、また読めます」
Keep the Leafe, and let no man count it whilst I live.
——この一葉を保管してください。そして、私が生きているうちは、誰にもそれを数えさせないでください。
奏は背筋が震えるのを感じた。
数えさせないでください。
——三百年後、それを数えた人は、殺された。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




