第七章 バッサ 2
三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。
この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか
昼過ぎ、ルーシーの滞在するホテルの部屋。窓際の小さな机に、ルーシーはノートパソコンを二台並べていた。
ルーシーが、途中で言い出したのだった。
「高槻先生にお送りした画像と、氷室先生にお送りした画像は、同じものではありません」
「どういうことですか」
奏が、身を乗り出した。
「去年の四月、断片が見つかってすぐのころ、まだ保管所には高解像度の撮影機材の予約が取れていませんでした。だから、とりあえず、事務所の平台のスキャナーで取り込んだ画像を、高槻先生にお送りしたんです。氷室先生にお送りしたのは、今年の六月に、専門の業者に撮影してもらった、高解像度の画像です」
ルーシーは二つの画像の、同じ場所を拡大した。
嘆きの歌の、終わり近く。ソプラノの旋律の、forget の上の音符。
左の去年四月のスキャン画像では、その音符のすぐ左に、斜めに走る細い影があった。紙の折り目だった。三百年間、四つ折りにされていた紙の、深い折り目。平台のスキャナーのガラスに押しつけられ、その溝に光が入らずに、小さな黒い影になって写り込んでいる。
影は二本の縦線と、それをつなぐ短い斜めの線の形をしていた。
奏は声を上げそうになった。
「ナチュラル……」
音楽の記号の、本位記号にそっくりの形だった。
右の今年六月の高解像度の画像では、同じ場所に、影は写っていなかった。斜めから照明を当てて撮影したため、折り目は、紙の上のわずかな凹みにしか見えない。そこには、何の記号もなかった。
ルーシーは三つ目の画像を開いた。
チェルシー写本の、同じ頁だった。
forget の上の音符の、すぐ左。
そこには茶色く褪せたインクで、はっきりと本位記号が書き込まれていた。
部屋の空気が、止まった。
「原本の断片には、本位記号はありません。私は見つかってから一年半以上、ほとんど毎日、原本を見ています。あれは、折り目の影です。ところが、チェルシー写本には、それが、写譜師の書いた記号として写されている」
奏は画面から目を離さずに言った。
「つまり、チェルシー写本を作った人は、原本ではなく、去年の四月のスキャン画像を見て、書き写した」
「そうとしか考えられません」
「そのスキャン画像を持っていたのは」
ルーシーは目を伏せた。
「チェルシー写本がオークションに出た去年の十一月より前に、あのスキャンを持っていたのは、高槻先生お一人です。氷室先生に比較用としてお送りしたのは、今年の六月ですから」
奏はチェルシー写本の本位記号を見つめていた。
三百年前の写譜師が、名前を隠すために打った十個の点。偽造者はそれをインクの染みだと思って、一つ残らず取り除いた。代わりに、スキャナーのガラスが作り出した記号を、丁寧に書き写した。三百年前には存在しなかった記号を。
消すべきでないものを消し、写すべきでないものを写した。
——早瀬くん、きれいすぎる楽譜というのはね、ときどき、何かを消した跡なんだよ。
ルーシーはノートパソコンを閉じると、窓の外を見た。
「早瀬さん。この画像は今日の夕方、警察にもお見せします。久我さんから、お時間をいただいているので」
ルーシーは言いにくそうに付け加えた。
「あなたがいま警察と会えないことは、存じています。だから先に、あなたに見せたかった」
◇
同じ日の夕方、目白署の小さな会議室で、ルーシーは久我と三浦の前に、同じ三枚の画像を並べた。
説明を聞き終えると、久我はルーシーのほうへ向き直った。
「ブラントさん。そのスキャンを作ったのは、あなた自身ですね」
会議室の空気が、固くなった。
ルーシーは表情を変えなかった。
「ええ。事務所のスキャナーで、私が取り込みました。保管所の文書管理システムには、いつ、誰に送ったかの記録が残っています。高槻先生に去年の四月、氷室先生に今年の六月。英国の警察を通して照会していただいて構いません」
「送った記録は、残っている」
久我は繰り返した。
「ですが、あなたが、そのスキャンを去年の四月からずっと持っていた、という事実は、どの記録からも消えません。『チェルシー写本が出る前に持っていたのは高槻一人』というのは、送り主であるあなたの側から見た話です」
ルーシーは、テーブルの上で指を組み直した。そして、小さく頷いた。
「……おっしゃるとおりです」
久我は、手帳から一枚の写真を抜き出した。駅の改札の防犯カメラの画像だった。粒子の粗い画面の中を、背の高い金髪の女性が、足早に横切っていく。
「十四日の二十一時三十一分、目白駅の改札を出たあなたです。二十二時五分に、また改札を入っている。ホテルのカードキーの記録も、二十時五十分から二十二時四十分まで空白でした。ホテルの部屋に一人でいた、というお話と違う」
ルーシーの顔から、血の気が引いた。
長い沈黙のあとで、ルーシーは唇を引き結んだ。
「……いまは、お話しできません」
「それでは、あなたへの疑いは晴れません」
「わかっています」
ルーシーは、それだけ言って、画像を伏せた。
◇
ルーシーが帰ったあと、久我は手帳の新しい頁に、四行だけ書いた。
——十月二十一日
一 高槻。四月スキャン受領。二十二時半以降、四谷。
二 ブラント。スキャン作成者。二十一時三十一分目白駅、二十二時五分戻り。説明を拒否。
三 宮坂。紙葉購入。二十一時以降、一人。
四
四行目に、久我は一度だけペン先を置き、早瀬、と書きかけて、その二文字に線を引いた。
◇
その夜、十時を過ぎて、奏の携帯が鳴った。非通知だった。
「久我です。公衆電話からかけています。長くは話せません」
奏はベッドの上で身を起こした。
「朝のメッセージは、読みました。校訂譜の点のことは、鑑識に頼んであります。それから——あなたに話してはいけないことを、一つだけ話します」
受話器の向こうで、車の走り過ぎる音がした。
「十四日の二十二時五十分ごろ、氷室さんの家の門の前に、平たい大きな包みを胸に抱えて、二階の窓をじっと見上げていた男がいます。痩せていて、銀縁の眼鏡をかけていた、と。近所の人の証言です」
「銀縁の眼鏡……」
「名前は言いません。言えば、あなたは、その人に会いに行くでしょうから」
久我は少し黙った。
「私は、あなたを疑っていません。でも、疑っていないと証明することも、いまはできない。……おやすみなさい」
電話は、切れた。
◇
十月二十二日の朝、久我は誰もいない目白署の小会議室から、一本だけ電話をかけた。
「東都藝大の事務局の、村瀬さんですか。警視庁の久我です。先日お願いした件で」
受話器の向こうの職員に、久我は言葉を選んだ。
「今日、どこかで雑談のついでに、一つだけ話していただけませんか。『亡くなった氷室先生の遺体のそばの楽譜に、何か書き込みがあったらしい』と。書き込みの中身については、何も知らない、と言ってください」
電話を切ったあと、久我は手帳に一行だけ書いた。
——中身を知る者:捜査員。早瀬奏。
この罠のことは、奏にも話さなかった。話せば、奏がそれを誰かに漏らすかどうかを、確かめられなくなるからだった。
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




