第七章 バッサ 3
三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。
この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか
同じ日の午後、奏の携帯に、冴子から電話がかかってきた。
「刑事さんから、聞いたわ。あのメールを書いたのは、あの人じゃないって」
冴子の声は、泣いたあとのように掠れていた。
「奏くんが、『ah』のことを言ってくれたんでしょう。あの人が、あれを削るはずがないって」
「冴子さんが、十二年間、一度も削らずに歌ってきたからです。主催者に抗議して、本番でも歌って」
電話の向こうで、冴子は何も言わなかった。
「……あの人の講座の受け売りだったのよ。本当は最初のころ、私、『ah』なんてどうでもいいと思ってた。息継ぎの場所が一つ増えるだけだって。でも、あの人が、何度も言うから」
冴子の声が、震えた。
「それなのに私、あの人の前で一度も崩れなかった。平気な顔で、大阪に通って」
奏は窓の外を見た。雨は、上がっていた。
「冴子さん。十一月の演奏会、歌ってください。先生の、嘆きの歌を」
電話の向こうで、冴子が鼻をすする音がした。それから、小さく「ええ」と答えた。
◇
十月二十二日の夜、神保町の古書店の二階。階段の下の倉庫で誰かが本の束を積み替えているのか、紙の擦れる音と、古本特有の甘く乾いた匂いが、かすかに上がってきていた。篠原玲司は、久我と三浦の前に一冊の手帳を置いた。
「警察が高槻先生を調べていると、オークション会社の人から聞きました」
篠原の顔は、この一週間でさらに痩せていた。
「黙っていたことがあります。去年の十一月、高槻先生にチェルシー写本の画像を見ていただいたとき、先生から言われたんです。自分が相談に乗ったことは、誰にも言わないでほしい。鑑定する側の人間が、売り買いの前から関わっていたと知られると、論文の信用に傷がつくから、と」
篠原は手帳の頁を開いた。
「それから、先生は英国の財団の担当者を紹介してくださった。落札した値段の倍で、買い取ってくれるはずだ、と。そして売れたら、紹介料として、売値の一割を、先生の研究のための寄付という形で、ある口座に振り込んでほしい、と」
開かれた頁には、篠原の几帳面な字が並んでいた。
——十一月十四日 高槻先生より電話。財団紹介の件。売却成立時、紹介料一割を「研究寄付」として下記へ。チューリッヒ、〇〇銀行。口座番号……
久我が、その頁を写真に撮った。
「オークションの出品者も、スイスの代理人を通した匿名の人物でしたね。——篠原さん、この手帳の字は、あなたご自身の字だ。高槻に言われた、というのも、いまのところ、あなたの話でしかない」
篠原は両手で顔を覆った。
「……気づかなかったんです。いや、気づきたくなかった。先生が本物だと言ってくれるなら、それで、この店は年を越せると思った」
「篠原さん。十四日の二十二時五十分ごろ、氷室さんの家の門の前に、平たい包みを抱えて二階の窓を見上げていた、痩せた男がいます。銀縁の眼鏡をかけていた、と」
篠原の肩が、震えた。
篠原は手のひらで眼鏡を押し上げ、そのまま目元を覆った。
「……私です」
声は、ほとんど聞き取れなかった。
「一人で家に帰った、というのは嘘です。昼に、残念な報告になるかもしれないと言われて、どうしても我慢できなかった。チェルシー写本の原本を、店の金庫から出して、包んで持って行きました。先生に、もう一度、この目で本物を見ていただきたかった。複製の写真ではなく、紙とインクそのものを見れば、先生もきっと分かってくださる、と」
「それで」
「門の前まで行って……呼び鈴を、押せませんでした。こんな夜中に、原本を抱えて押しかけて、それでも偽物だと言われたら、と思うと、指が動かなかった」
篠原は顔を上げた。その目が、怯えたように揺れていた。
「二階の書斎の窓は、カーテンが半分開いていて、灯りがついていました。チェンバロの蓋が開いているのが、門の外からでも見えた。いつもなら、先生のお宅の前に立つと、チェンバロの音が聞こえるんです。夜でも。でも、あの夜は、何も聞こえなかった。蓋が開いているのに、音がしない。家じゅうが、しんとしていた。……しばらく見上げていて、それから写本を抱えて、帰りました」
「帰ったことを、証明できる人は」
篠原は首を振った。
「いません」
「二十二時五十分、灯りのついた書斎の中で、蓋の開いたチェンバロが鳴っていない」
久我は篠原を見たまま言った。
「その二十分後に、氷室さんが自分でメールを打った、とは考えにくい。——篠原さんの話が、本当ならば」
久我は篠原の抱えていた鞄に、ちらりと目をやった。篠原はそれに気づいて、鞄をさらに強く抱きしめた。
「その包みは、明日、署で正式にお預かりします。今夜は、あなたが持っていてください」
篠原は声を出さずに頷いた。
久我は携帯を取り出し、解析班の番号を押した。
「久我です。氷室邸のパソコンのログ、一週間待てない。破損していない部分から、メールソフトの記録だけを先に読んでくれ。二十三時十分の送信が、その時刻に誰かの手で行われたものかどうか。それだけでいい」
◇
その夜、十一時を過ぎて、奏のアパートの近くの、閉店後のコインランドリーの前に、久我は一人で立っていた。
「管理官には、黙って来ました」
久我は、封筒をすぐには渡さなかった。
「その前に、一つだけ聞かせてください。刑事として」
奏は顔を上げた。
「十三日に、先生から、楽器のことで何か聞いていませんでしたか。あなたに何かを遺すつもりだ、というようなことを」
奏は、首を振った。
「何も。……先生の楽器を、私が?」
久我は、奏の顔から目を離さなかった。久我の目が、ほんの一瞬だけ、刑事の目になった。奏はその視線から、逃げなかった。
やがて久我は小さく息を吐き、脇に抱えていた茶封筒を、奏に差し出した。
「一つだけ、先に話します。門の前の男は、見つかりました。二十二時五十分、書斎の灯りはついていて、チェンバロの蓋も開いていた。でも、音はしなかった、と」
奏は息を止めた。
十五日の朝、自分が門の前で見上げた、半分開いたカーテンの書斎の窓。音は、聞こえなかった。書斎で、ケースの角が楽器の脚に当たり、弦が一本だけ、かすかに鳴った。あの家では十四日の夜から、誰も楽器に触れていなかったのではないか。奏には、そう思えてならなかった。
「それから、これを。あなたの今朝のメッセージの件です」
封筒の中には校訂譜の頁を部分ごとに拡大した写真が数枚と、一枚の鑑定メモが入っていた。
——低音部一〜四回目の音符上に、鉛筆による点、計四個。各一個ずつ。四個とも筆圧は均一、線の震え認められず。余白の書き込みおよび番号(震え顕著)とは、筆記時の状態が明らかに異なる。書き込み・番号より前に、平常の状態で筆記されたものと推定。
——付記:低音部五〜八回目の音符上に、消しゴムで消去された鉛筆の圧痕、計四個の可能性。斜光撮影で判読を継続中。
奏は、写真をコインランドリーの白い灯りにかざした。
一回目の低音。六つの音符の、どれか一つの上に、小さな点。二回目。三回目。四回目。五回目から先には、何もない。
奏はガラス戸に背中を預け、指を折った。一回目と二回目。二つ目の組の、六番目。
M。
三回目と四回目。四つ目の組の、一番目。
T。
奏はガラス戸から背を離し、久我にだけ聞こえる声で、二つの文字を告げた。
久我の唇が、ほとんど反射のように動いた。
「M・T……宮坂、透」
奏は否定しようとして、できなかった。宮坂透。先生が、博士論文を不合格にした男。二十一時に、リハーサルルームを飛び出していった男。十七世紀の白紙の紙を、ロンドンで買っていた男。
久我は封筒を持つ指に力を込めた。
「その二文字は、しばらく、私とあなただけのものにしておきましょう」
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




