第八章 汝は知りたもう、主よ 1
三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。
この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか
一六九五年十一月〜十二月 ウェストミンスター
「ナット。あの蠅の糞は、十個だったな」
熱に浮かされたヘンリー・パーセルの声に、ナサニエル・クルーは、手にしていた水差しを取り落としそうになった。
十一月十八日の夜だった。マーシャム・ストリートの家の二階の寝室は、暖炉の火が絶えず焚かれているのに、どこか底冷えがした。窓の外では冬の雨が、ウェストミンスターの屋根という屋根を叩いている。
パーセルは枕に頭を沈めたまま、薄く目を開けていた。頬は削げ、額には汗の粒が浮いている。三十六歳の男の顔ではなかった。この秋の初めから、咳が止まらなくなり、十一月に入ってからは、寝台を離れることもできなくなっていた。
「先生」
ナサニエルは水差しを小卓に置き、寝台の脇に膝をついた。枕元では、温めた牛乳を麦酒で固めた病人向けのポセットが、飲み残されたまま椀の中で冷え、表面に薄い膜を張っていた。
「何のことですか」
「チェルシーの……女王の歌だ。君の清書の、低音の上の」
パーセルは、笑った。笑うと、また咳が出た。ナサニエルが背中を支えると、骨の形が、寝間着越しにはっきりと指に触れた。
咳が収まると、パーセルは天井を見上げたまま言った。
「六年前の春だ。上演の前の晩に、君の清書を、最後に確かめた。一つも違っていなかった。ただ低音の上に、点が十個あった。一回に一つずつ。最後の一回にだけ、ない」
ナサニエルは身じろぎもできなかった。
「私は君に、あの点のことを冗談で言ったことがあったな。低音の上に打っておけば、目立たない、と」
「……はい」
「だから、すぐにわかった。あれは染みではない、とな」
パーセルは顔をナサニエルのほうへ向けた。熱に潤んだ目が、蝋燭の光を映していた。
「数えなかったよ、ナット」
「先生」
「数えれば、読めたかもしれん。君は、ウェストミンスター・スクールの子どもだ。あの学校の子どもたちが、手紙に数字を使うのは知っている。だが、私は数えなかった。数えれば、君に、それが何なのかを聞かなければならなくなる。聞けば、君は答えなければならなくなる」
パーセルは目を閉じた。
「国王に仕える者が、知ってはならないことがある。そして友人として、知らないでいてやるべきこともある」
雨の音だけが、部屋に満ちていた。
ナサニエルは寝台の縁に額を押し当てた。六年間、この秘密を知っているのは自分一人だと思っていた。その六年間、主人はすぐ隣で、何も数えずに、黙っていてくれたのだ。
「ありがとうございます」
声が、かすれた。
パーセルは目を閉じたまま、指を一本だけ動かした。何かを払いのけるように。
「礼など言うな。——それより、ダーフィーの歌を仕上げてくれ。狂った娘の歌だ。あれが、まだ途中なんだ」
◇
トマス・ダーフィーの喜劇の第三部のために、パーセルが書いていたのは、恋に狂った娘アルティシドーラの歌だった。
From rosy bow'rs, where sleeps the god of love——
ナサニエルは寝室の隅の小机に向かい、主人が熱の合間に書き散らした草稿を、一枚ずつ清書していった。
奇妙な歌だった。
一つの歌の中で、娘の心が、いくつもの状態をめまぐるしく移り変わる。恋に焦がれる甘い旋律。はしゃぐような軽い節。沈み込む憂鬱。燃え上がる激情。そして、狂乱。ダーフィーの台本の余白には、それぞれの部分に、Love、Gaily、Melancholy、Passion、Frenzy と、心の状態の名前が書き込まれていた。
清書を進めるうちに、ナサニエルはペンを止めた。
Melancholy の部分に入ったところで、ソプラノの旋律が、「ah!」と、二度、嘆息を漏らす。その身振りが、六年前の女王の歌の、はじめのほうの「ah!」と、そっくりだった。その少しあとには、嵐に吹かれる風を描く急な下降がある。それは、第一幕の女王が嵐のような心を歌う一節を、鏡に映したようだった。
主人は死の床で、狂った娘の歌の中に、あの女王の声を、もう一度呼び戻していた。
「先生。この Melancholy のところは」
ナサニエルが振り返ると、パーセルは眠っているように見えた。だが唇が、動いていた。
「ディドは……狂っていたと思うか、ナット」
ナサニエルは答えられなかった。
「私はときどき、そう思う」
パーセルは、目を開けないまま言った。
「呪わなかった女王は、呪いを、どこへやったのか。自分の中に、しまい込んだのかもしれない。魔女たちは女王の外にいたのではなく、女王の中にいたのかもしれない。……だから、あの女王は、剣を持たずに死ねたのかもしれない。狂った娘たちが、ただ身を横たえて、死ぬように」
パーセルの言葉は、次第に、寝息の中に溶けていった。
ナサニエルは清書を続けた。Frenzy の最後の小節に、終止線を引く。
この歌はのちに印刷された曲集で、「作者が病の床で作曲した、最後の歌」と記されることになる。けれど、そのときのナサニエルは、それを知らなかった。ただインクが乾くのを、主人の寝息を聞きながら、待っていた。
◇
十一月二十一日の夜、パーセルは死んだ。
聖セシリアの祝日の前夜だった。毎年、ロンドンの音楽家たちが、音楽の守護聖女を讃えて、頌歌を捧げる日。三年前には、パーセル自身の《Hail! Bright Cecilia》が初演された。主人は、その中の一曲を、自分で歌っている。
最期のとき、寝室には妻のフランセスとナサニエル、それに牧師がいた。
パーセルはその日の午後、弁護士を呼んで、遺言に署名していた。全財産を、愛する妻フランセスに遺す。妻を、唯一の遺言執行人とする。紙の上に、パーセルの震える手で書かれた署名が、蝋燭の光の中で、まだ乾ききっていなかった。
夜半を少し過ぎたころ、パーセルの呼吸が浅く、間遠になった。
フランセスは夫の手を両手で握り、寝台の脇に座っていた。泣いてはいなかった。子どもを四人見送った女の、静かな顔だった。
ナサニエルは部屋の隅に立ち、主人の呼吸を数えていた。
一つ。二つ。三つ。四つ。
五つ目の呼吸のあとで、次の呼吸は、来なかった。
フランセスが、夫の手を、自分の頬に押し当てた。
牧師が、祈りの言葉を唱え始めた。
ナサニエルは部屋の隅で、五つ目の呼吸が消えた場所を、いつまでも見つめていた。
四つで数える耳が、五つ目の先を待っていた。
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




