第八章 汝は知りたもう、主よ 2
三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。
この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか
翌朝、ナサニエルが仕事部屋の楽譜の束を整理していると、フランセスが、戸口に立った。
一晩のうちに、フランセスは喪服に着替え、髪をきつく結い上げていた。目の下には深い影があったが、背筋は伸びていた。
「ミスター・クルー。お願いがあるの」
フランセスは部屋に入ってきて、棚という棚に積まれた楽譜の束を見渡した。
「主人の歌を、本にしたいの。劇場の歌も、独唱の歌も、散らばっているものを全部集めて。主人は、いつか自分でそうするつもりだった。でも、もう、できない」
フランセスは机の上の、ダーフィーの狂った娘の歌の清書に目を留めた。
「この歌も、入れてください。そして題の下に、一行書き添えて。主人が、病の床で書いた最後の歌だと」
「……はい」
「本の題は、もう考えてあるの。『ブリテンのオルフェウス』。主人のような人は、この国には、もう二度と生まれないから」
フランセスはそれから、喪服の袖の中から、四つ折りにされた一枚の紙を取り出した。端が湿気でふやけ、ところどころ破れかけている。
「主人の机の引き出しの、一番奥にあったの。あなたの名前が、表に書いてあった」
紙の表には、パーセルの走り書きの字で、For Nat とだけ書かれていた。
ナサニエルは震える指で、それを開いた。
八年前の、十月の夜の紙だった。定規も使わずに引かれた五線。低音記号。そして、あの六つの下降音。五小節。
その余白に、主人の字で、一行。
The Song may forget; the Ground remembers.
その下に、あのときにはなかった新しいインクの字が、もう一行書き足されていた。震える病の手の字だった。
I did not count. — H. P.
私は、数えなかった。
ナサニエルはその紙を胸に押し当て、声を殺して泣いた。
フランセスは何も聞かなかった。ただナサニエルの肩に一度だけ手を置き、それから部屋を出ていった。
その紙は、誰にも見せないことにした。葬儀の朝、ナサニエルは棺の蓋が閉じられる前に、主人の手の下へ、四つ折りのまま滑り込ませた。
◇
十一月二十六日、ヘンリー・パーセルは、ウェストミンスター寺院に葬られた。
寺院の参事会は、全会一致で、費用を一切取らずに、できるかぎりの礼をもってこの音楽家を葬ることを決めた。埋葬の場所を選ぶことは、寡婦に委ねられた。フランセスは北の側廊の、オルガンの足元を選んだ。
ナサニエルは寺院の聖歌隊の後ろの暗がりに立っていた。
身廊には、ロンドン中の音楽家たちが集まっていた。ジョン・ブロウ。宮廷の楽団の奏者たち。劇場の歌手たち。テイトは桂冠詩人の黒い衣をまとい、目を赤く腫らしていた。聖歌隊の少年たちの中には、泣きじゃくって歌えなくなる子もいた。
棺が運び込まれると、トランペットが、低く鳴り始めた。
ナサニエルはその音を知っていた。八か月前の三月、メアリー女王の国葬のために、パーセルが書いた行進曲だった。雪の中を、女王の棺が寺院へ運ばれたとき、同じトランペットが、同じ和音を鳴らした。
主人は自分が女王のために書いた音楽に送られて、墓へ入っていった。
聖歌隊が、歌い始めた。
Thou knowest, Lord, the secrets of our hearts——
主よ、あなたは我らの心の秘密を知っておられる。
飾りのない、まっすぐな和音だった。四つの声部が、一つの言葉を、同じ瞬間に、同じ重さで歌う。女王の国葬のために、主人はあえてこの一曲だけを、何の技巧も凝らさずに書いた。
shut not thy merciful ears unto our pray'rs——
ナサニエルは目を閉じた。
心の秘密を知っておられる。
主人はあの十個の点を、知っていた。知っていて、数えなかった。数えないことで、ナサニエルの心の秘密を、守ってくれた。
suffer us not, at our last hour, for any pains of death, to fall from thee.
最期の時に、いかなる死の苦しみのためにも、我らをあなたから離れ落ちさせないでください。
聖歌隊の最後の和音が、寺院の天井に吸い込まれていった。
隣に、いつのまにか、テイトが立っていた。桂冠詩人の黒い衣の袖で、しきりに目元を拭っている。
「クルー君。覚えているかね。チェルシーの稽古で、私が、女王に剣を持たせようとしたのを」
「覚えています」
「ヘンリーは、どう死んだかは観客に忘れさせてやれ、と言った。私は、あのト書きを消した」
テイトは北の側廊の、オルガンの足元を見た。
「今朝、フランセス夫人から聞いた。ヘンリーは何の騒ぎもなく、ただ、息をするのをやめたそうだ。剣も、呪いもなく」
テイトは震える声で、小さく笑った。
「あの男は、自分の死に方まで、あの女王の歌のとおりにしてしまった。——詩人より残酷だと言ったのは、取り消すよ」
◇
棺が側廊の墓に下ろされたあと、身廊の後ろの暗がりで、ナサニエルは見覚えのある足音を聞いた。
ギデオン・ヘイルだった。
白髪が増え、背も少し丸くなっていたが、左脚を引きずる歩き方は、昔のままだった。いまはドルリー・レーンの劇場の楽団で、ヴァイオリンを弾いているのだと聞いていた。
ギデオンはナサニエルの隣に並んで、側廊のオルガンを見上げた。
「惜しい男を亡くした」
ギデオンはぼそりと言った。
「劇場の連中は、みんな、あの人の歌で飯を食ってきた。これから、どうするんだかな」
二人は墓の周りに集まった人々を見ていた。
「写譜屋」
ギデオンが、声を落とした。
「後援者どのが、来ている。西の扉の近くだ。あのピンを、また胸につけてな」
ナサニエルは頷いた。
「六年前、お前は、あのピンをどうするか決めた。——あの男の名前のほうは、どうすることにしたんだ」
ナサニエルは少し考えてから、答えた。
「覚えておくことにしました」
ギデオンはナサニエルの横顔を眺め、鼻で笑った。
「一番、骨の折れるやり方を選んだな」
ギデオンは少しだけ間を置いて、何か言いかけ、やめた。
ナサニエルは答えを待たなかった。
ギデオンは脚を引きずって去っていった。
入れ違いに、ジョン・ブロウが、ナサニエルの前に来た。パーセルの師であり、友であり、十六年前にこの寺院のオルガニストの職を、若い弟子に譲った男だった。ブロウの目も、赤く腫れていた。
「クルー君。参事会から、私に、また寺院のオルガンを弾いてほしいという話が来ている」
ブロウは側廊のオルガンを見上げた。
「ヘンリーの残した楽譜を、きちんと写し、残していかなければならない。君の手を、貸してもらえないか。あの男の手の癖を、君ほど知っている人間はいない」
ナサニエルは深く頭を下げた。
「喜んで」
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




