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第八章 汝は知りたもう、主よ 3

三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。


この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか

 葬儀が終わり、人々が寺院の西の扉から流れ出していく。そのなかで、ナサニエルは回廊の柱の陰から声をかけられた。

 「クルー君」

 振り返ると、そこに、サー・エドマンド・ライルが立っていた。

 六年ぶりに近くで見るライル卿は、別人のように老いていた。まだ五十を少し過ぎたばかりのはずなのに、鬘の下の顔は灰色にくすみ、頬の肉は落ち、杖に体重を預けている。深い緑の天鵞絨の上着だけが、昔のままだった。

 胸元の襞飾りに、黒真珠のピンが光っていた。

 「パーセル氏は、惜しいことをした」

 ライル卿の声は、しゃがれていた。

 「私も、先は長くない。医者は、胸の病だと言う。春にはロンドンを離れて、西のウェクスクームの屋敷に引きこもるつもりだ」

 ナサニエルは黙っていた。

 ライル卿は回廊の中庭に目をやった。冬の雨に濡れた芝生の上を、鳩が一羽、歩いていた。

 「一つ、頼みがある」

 「何でしょう」

 「私が死んだとき、私の葬儀のために、音楽を書いてもらえないだろうか。君は、パーセル氏の一番近くにいた男だ。あの人の手を、誰よりもよく知っている。いまのパーセル氏の葬儀のような……あの、飾りのない和音のような音楽を」

 ナサニエルはライル卿の顔を見た。

 灰色の顔の中で、目だけが、何かを乞うように、揺れていた。

 「サー・エドマンド。私は、作曲家ではありません。写譜師です」

 「知っている。だが——」

 「それに、あなたの葬儀の音楽は、もう、書かれています」

 ライル卿の目が、見開かれた。

 「六年前の五月に。チェルシーの学校で。低音が、あなたを覚えています。サー・エドマンド。私が書き足すことは、もう何もありません」

 ライル卿は、動かなかった。中庭の鳩が、濡れた芝の上で向きを変えた。

 杖を握る手が、震えていた。

 「……あの夜、私は」

 ライル卿の唇から、かすれた声が漏れた。

 「あの男さえいなければ、と思った。国王のためでも、宗旨のためでもなかった。ただ、あの桑の木の下で、あの娘が、あの男の手を——」

 「聞きたくありません」

 ナサニエルはライル卿の言葉を遮った。

 「私に、それを聞く資格はありません。聞けば、私はそれをあの人に伝えたくなる。あの人は、それを知りたくないと言いました」

 ライル卿は口を閉じた。

 「なぜ、訴えなかった」

 少しして、ライル卿はほとんど聞き取れない声で言った。

 「国王が替わったあとなら、私を吊るすこともできたはずだ。ピンを持っていたのだから」

 「覚えているだけだと、申し上げました」

 ライル卿は、杖の握りに額を寄せた。

 「それは、呪いよりも重いな」

 ライル卿は杖をついて、回廊を去っていった。一歩ごとに、杖の先が、石の床を叩いた。その音が、柱と柱のあいだに響いていた。


◇


 葬儀から十日ほど経った、十二月の初めのある晩、ナサニエルの下宿に、一通の手紙が届いた。

 西の町の、女学校の封蝋が押されていた。

 ヘスター・ヴェインは、チェルシーでの上演の翌年、プリーストの学校を離れた。いまは西の町の小さな女学校で、音楽を教えている。この五年、二人のあいだには、年に一度か二度、短い手紙が行き来するだけだった。

 封を切ると、見慣れた、少し右に傾いた字が並んでいた。

 Nathaniel,

 ミスター・パーセルのことを、この町に届いたロンドンの新聞で知りました。亡き女王陛下のために書かれた音楽で送られた、と。その日、私は生徒たちに、あの女王の歌を教えていて、授業を最後まで続けられませんでした。

 今夜は、ずっと言えずにいたことを書きます。

 六年前の夏、チェルシーの上演のあとで、私はプリースト先生にお願いして、あなたの清書を一晩だけ借りました。蝋燭の下で、低音の上の点に気づきました。一回に一つずつ、音符の真上にきちんと座っている。最後の一回にだけ、ない。

 あなたが写譜の途中で点を打っていたのを、覚えていました。そして私は、兄から教わった、あの数字の遊びを知っていました。

 Nathaniel, I counted.

 夜明け近くに、五つの文字が並びました。その名前を、私は読む前から知っていたのだと思います。ただ、紙の上で読みたくなかった。だから、私の読めない形で、と頼みました。そしてあなたは、私にだけ読める形で残しました。

 責めているのではありません。

 それから、最後の低音を見ました。何の点もない、黒くなめらかな五小節を。その夜、私はあの人を呪うのをやめました。赦したのかどうかは、いまもわかりません。ただ、あの五小節を見ていたら、呪いをそこに置いていける気がしたのです。

 Remember him, but ah! forget his Fate.

 六年前、私はそう書きました。いまも、同じ気持ちです。

 どうか、あの清書を安全な場所に残してください。燃やさないで。いつか誰かが私のように読むことがあったら、その人が十個の点だけでなく、何もない最後の五小節も、見てくれますように。

 Hester


◇


 ナサニエルは手紙を膝の上に置いたまま、朝まで眠れなかった。

 ヘスターは知っていた。

 六年間、知っていて、何も言わなかった。

 そして、ヘスターの言うとおりだった。自分はヘスターが数字の遊びを知っていることを、知っていた。知っていて、あの点を打った。「私の読めない形で」と頼まれながら、彼女だけが読める形を選んだ。

 自分でも、その理由から、六年間、目を逸らしてきた。

 ナサニエルは蝋燭を新しいものに替え、反故紙を一枚広げた。

 ヘスターへの返事を、書こうとした。

 最初の一行を書いては消し、また書いては消した。あなたが数えるとは思わなかった、と書こうとして、それが嘘だと気づいて、線を引いた。あなたを苦しめるつもりはなかった、と書こうとした。それもまた半分だけの真実だと気づいて、線を引いた。

 夜が更けていくなかで、反故紙は、線で消された言葉で埋まっていった。

 最後に、ナサニエルは紙の一番下に、数字を書いた。

 8 5 18 19 5 17

 そして、その横に、もう一列。

 13 1 19 8 1 13

 八年前、チェルシーの広間で二人で書き合った、二つの名前。一文字書き間違えて書き直した、自分の名前。

 ナサニエルはその二列の数字の下に、たった一行だけ、英語で書き添えた。

 I knew that you could count. Forgive me, that I wish'd it.

 あなたが数えられることを、私は知っていました。それを願ってしまったことを、赦してください。

 ナサニエルはその一行だけを新しい紙に写し、線で消された言葉の山は、暖炉にくべた。

 返事は夜が明けたら、西へ向かう郵便馬車に託すことにした。

 窓の外が白み始めるころ、ナサニエルはもう一つの仕事に取りかかった。

 棚の奥から、六年間しまい込んでいた、アムステルダムの紙の清書を取り出す。チェルシーの上演で、自分の譜面台に置かれていた、あの頁。女王の、最後の歌。

 低音の上の、十個の点。最後の、何もない五小節。

 燃やさないで、とヘスターは書いていた。

 だが自分の手元に置いておけば、いつか誰かの目に触れる。ライル卿がまだ生きているうちに、ロンドンでこの点を数える者が現れれば、ヘスターはまた、あの暗い場所に引き戻される。

 ナサニエルはペンを取り、一通の手紙を書き始めた。

 宛先はウェストミンスターの聖歌隊で一緒に歌っていた、古い友人だった。いまは西のウェクスクームの教区教会で、オルガニストを務めている。その教会はライル家の屋敷の礼拝堂の音楽も、引き受けているのだという。

 ライル卿は春には、ウェクスクームへ引きこもると言っていた。

 ナサニエルはしばらくペンを止め、それから書き続けた。

 I send you the Queens Song in mine owne hand. The Ground remembers what I may not say.

 女王の歌を、私自身の手で写してお送りします。低音は、私が口にできないことを覚えています。

 Mr. Purcell was laid in the Abby on the 26th, at the foot of the Organ. Sir E. L. asked of me Musick for his owne Buriall. I told him that it was already writ.

 パーセル氏は二十六日、寺院のオルガンの足元に葬られました。サー・E・L が、自分の葬儀のための音楽を私に求めました。私はそれはもう書かれている、と答えました。

 ナサニエルはそこで、もう一度ペンを止めた。

 ライル卿が、残りの人生を過ごす土地に、ライル卿の名前を刻んだ楽譜を送る。六年前、下宿の机で自分に向けた問いが、また戻ってきた。

 ナサニエルは最後の一行を書いた。

 Keep the Leafe, and let no man count it whilst I live.

 この一葉を保管してください。そして私が生きているうちは、誰にもそれを数えさせないでください。

 署名の代わりに、ナサニエルは二つの頭文字だけを記した。

 N. C.


◇


 手紙に清書を添え、封蝋を押す前に、ナサニエルはもう一度だけあの頁を広げた。

 窓から差し込む冬の朝の光が、アムステルダムの紙の上に、斜めに落ちていた。

 ナサニエルは指先で、低音の五線をたどった。

 一回目。二番目の音の上の点。二回目。五番目の音の上の点。

 ロバート・アッシュを売った男の名前が、指の下を、一文字ずつ通り過ぎていく。

 十回目。五番目の音の上の、最後の点。

 そして、最後の一回。

 ナサニエルの指は、何の印もない五つの小節の上で止まった。

 女王が歌い終えたあと、弦だけが弾く、最後の地面。

 ヘスターが、呪いを置いていった場所。

 パーセルが、数えずにいてくれた場所。

 そして、刻まずにおいた名前の場所。

 ナサニエルは長いあいだ、その五小節の上に指を置いていた。

 赦すことと、覚えていることは、同じ一枚の紙の上で、並んで生きていけるのだろうか。

 答えは、出なかった。

 ナサニエルは頁を折り、封筒に収め、封蝋を押した。

 窓の外で、ウェストミンスターの鐘が、朝の祈りの時を告げていた。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

次話もお楽しみにしていただけると嬉しいです。

感想やご指摘をいただけると、今後の励みになります。


(更新:毎日22時投稿予定)

隠岐群青

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