第九章 五つ目の拍 1
三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。
この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか
二〇二六年十月二十三日〜二十五日 東京
宮坂透は取調室の椅子に座る前に、椅子の脚が床の線から少しずれているのを見て、そのまま座った。
十月二十三日、午前十時の任意の事情聴取だった。三十代半ばの痩せた男で、伸びかけた髪を後ろで束ね、指先にはガンバの弦で固くなった跡があった。
「十四日の夜のことを、もう一度伺います」
久我が言った。
「二十一時ちょうどに、リハーサルルームを出た。そのあとは」
「劇場の外の喫煙所で一本吸いました。高槻先生と揉めて、頭に血がのぼっていたので。それから雑司が谷の家まで歩いて帰りました。三十分くらいです。誰にも会っていません」
「揉めた理由は」
宮坂は少しだけ唇を歪めた。
「リハーサルの途中で、先生が氷室先生の追悼の話を始めたんです。僕にガンバで一曲弾いてくれ、と。僕が氷室先生に何をされたか知っているくせに」
三浦が、机の上に二枚の紙を置いた。ロンドンの古紙業者の販売目録の写しと、カード会社から回答のあった利用明細の写しだった。
「二〇二五年の九月、この業者に、あなたのカードで支払いがありますね。十七世紀の白紙の紙葉、十二枚です」
宮坂は紙を見下ろした。驚いた様子はなかった。
「高槻先生に頼まれたんです。修復の練習用に古い紙が欲しい、と。先生は海外のサイトのアカウントを持っていないから、代わりに注文してくれ、と。代金は先生から現金で受け取りました。……それが何か」
久我は答えなかった。
「もう一つ。団の連絡用の携帯電話を、十四日の練習のあと、持ち出しましたか」
宮坂は首を振った。
「触ってもいません。あれは、いつも備品バッグに放り込んであるので。……僕が疑われているのは、そのせいですか」
久我はそれにも答えなかった。
宮坂は久我の顔を見ていたが、答えが返ってこないと分かると、視線を落とした。
「僕は氷室先生を恨んでいました。いまも少しは。でも恨んでいる相手が死んでも、何も戻ってこない。論文も、三年も」
宮坂は、ぽつりと付け加えた。
「高槻先生も、たぶん、同じですよ。あの人は、氷室先生のお弟子さん、と呼ばれるのを、誰より嫌っていましたから」
聴取は一時間ほどで終わった。宮坂は帰宅を許された。M・Tという二文字のことは、最後まで宮坂には告げられなかった。
宮坂が出ていったあと、三浦が、椅子を元の位置に戻そうとして、手を止めた。
「警部補。この人、椅子がずれたまま座って、ずれたまま立っていきましたね」
久我は斜めのままの椅子の脚を見ていた。
◇
同じ日の昼過ぎ、奏は東都藝大の図書館の閲覧室で、宮坂透を見つけた。
M・T。昨夜、コインランドリーの白い灯りの下で、久我の唇から出た名前。奏は、宮坂の向かいの席に座った。
「十四日の夜、先生のお宅の近くを、歩いていませんでしたか」
宮坂は、本から目を上げた。奏の顔を見て、頁のあいだに指を一本挟んだまま、本を閉じた。
「今朝、警察にも同じことを聞かれました。……あなたまで、そうなんですね」
「私は——」
「氷室先生の弟子は、みんな同じ目で僕を見る。三年前も、そうだった」
宮坂は立ち上がり、本を棚に戻さずに机に置いたまま、閲覧室を出ていった。伏せられたままの本に、奏は手を伸ばしかけて、その手を膝の上に戻した。
◇
十月二十三日の夕方、奏は池袋の東京芸術劇場の楽屋口の前で高槻誠と会っていた。
高槻のほうから、連絡があったのだった。十一月の追悼公演の打ち合わせをしたい、と。アンサンブル・ラ・テールのリハーサルルームをちょうどその時間に借りているから、そこで、と。
断れば、怪しまれる。奏は会うことにした。久我とは、連絡を絶たれたままだった。——楽屋口の外の植え込みの陰に、三浦が私服で立っていたことを、奏はあとになって知る。久我が、管理官に内緒で手配していたのだった。
「急に呼び出して、すまないね」
高槻は、いつもの穏やかな笑みを浮かべていた。紺のジャケットに薄い色の眼鏡。
「冴子さんから承諾をもらった。最後の嘆きの歌は、チェルシー写本の楽譜で演奏したい。——いい供養になると思わないか」
高槻はにこやかに奏を見ていた。
奏は答えなかった。
「早瀬くん?」
「……考えさせてください。冴子さんとも、相談したいので」
「もちろんだ」
高槻は、ふと思い出したように言った。
「そういえば、大学で耳にしたんだが。先生が亡くなる前に、楽譜に何か書き残しておられたそうだね。パッサカリアがどうとか」
奏の背中を冷たいものが走った。
書き込みがあったことも、その中身も、警察と自分しか知らないはずだった。
「……パッサカリア、ですか」
「いや、はっきりとは知らない。書き込みがあったらしいと、事務局の誰かが言っていた。噂だよ」
高槻は微笑んだ。
「先生らしいと思ってね。全ては、パッサカリアが教えてくれる。先生の口癖だった。私も、学生時代に何度も聞かされた」
高槻はそこで言葉を切り、奏の鞄に視線を落とした。
「その言葉に何か意味があると、君は考えているのかい」
夕暮れの風が、劇場前の広場を吹き抜けていった。週末を前にした広場には人が多く、どこかでストリートミュージシャンのギターが鳴っていた。ガラスの壁面に、ビルの灯りがともり始めていた。
奏は鞄の持ち手を握りしめ、高槻の目をまっすぐに見返した。
「先生は、口癖を書いただけだと思います」
奏は嘘をついた。
「弟子に、低音を大事にしろと。それだけです」
「そうか」
高槻は少しだけ目を細めた。そして奏の肩に軽く手を置いた。温かく、重さのない手だった。
「じゃあ、また連絡する。いい演奏会にしよう」
高槻は楽屋口の中へ消えていった。
奏はその場に立ち尽くしていた。膝の裏に、力が入らなかった。
植え込みの陰から、見覚えのある若い刑事が近づいてきた。三浦だった。
「大丈夫ですか」
奏は答えられなかった。
喉の奥で、言葉が凍りついていた。頭の中では、たった一つの音が鳴り続けていた。パ。
三浦はそれ以上何も聞かず、奏の隣に立っていた。
三浦の携帯が鳴った。久我からだった。三浦は話を聞き終えると、奏のほうを振り返った。
「警部補からです。解析班が、メールソフトの記録だけ、先に読めたそうです」
三浦は携帯を耳に当てたまま、一語ずつ繰り返した。
「二十三時十分のメールは予約送信でした。サーバー側に予約を保存して送る方式。送信時刻は二十三時十分〇〇秒に指定されていた。そしてその予約が作成されたのは——」
三浦は息を呑んだ。
「十月十四日、二十一時三十八分」
奏は劇場のガラスの壁を見上げた。そこに映る夜の街の灯りが、滲んで流れた。
二十一時三十八分。
ルーシーが、ホテルの部屋に一人でいた時刻。篠原が、店を閉めて一人でいたと言う時刻。宮坂が、雑司が谷の自宅へ一人で歩いていたと言う時刻。自分が、アパートに一人でいた時刻。そして高槻が、「池袋から護国寺まで歩いていた」と言った、一時間十五分の、ちょうど真ん中だった。
◇
タクシーの車内カメラに映った男は、後部座席で膝の上の指を四つずつ折っていた。
一、二、三、四。一、二、三、四。
十九日に保全を頼んでから、令状の発付を待ち、十三社、延べ四百台を超える車内映像の提出を受けるまでに四日かかっていた。予約の作成が二十一時三十八分と分かったその夜、久我は範囲を二十一時台に目白周辺で降りた客に絞り、片端から洗わせた。
日付が変わる少し前、目白署の会議室の大型モニターに、粒子の粗い映像が映し出されていた。画面の隅の時刻表示は、二〇二六年十月十四日、二十一時十七分。後部座席の男は、帽子を目深にかぶり、顔の下半分をマスクで覆っていた。
運転手が行き先を尋ねる。男は少し考えてから答える。
「目白二丁目。……近くまで行ったら、言います」
車が走り出すと、男は、上着のポケットから古い型の携帯電話を取り出し、耳に当てた。
「先生、いまそちらに向かっています。……ええ、わかっています。四月の画像のことは誤解です。直接お会いしてご説明させてください。十分で着きます」
電話を切ると、男は、窓の外を流れる夜の街を見つめた。そして膝の上で、指を四つずつ折り始めた。何度も、四つで区切らなければ何かが崩れてしまうとでもいうように。
二十一時二十四分。車は、目白二丁目の住宅街の角で止まった。男は料金を払い、夜の中へ降りていった。氷室邸までは、歩いて三分の場所だった。
映像が止まった。
三浦が、手元の聞き取りのメモを読み上げた。
「運転手の話です。客は行き先の少し手前で降りた。乗っているあいだ、ずっと膝の上で指を四つずつ折りながら、小さな声で何か口ずさんでいたそうです」
「何を」
久我が尋ねた。
「英語のゆっくりした歌だった、と。歌詞までは聞き取れなかった。運転手は、葬式の歌みたいだったと言っています。支払いはカードでした。乗車した場所の周辺の防犯カメラと、決済の記録を突き合わせました」
三浦は、一枚の紙を久我の前に置いた。
「身元は、確認できています」
久我はそこに書かれた名前を、声に出さずに読んだ。
二十一時十七分。宮坂が喫煙所を離れたとされる二十一時十分とも、高槻がリハーサルルームを出た二十一時十五分とも、ほとんど変わらない時刻だった。
「二十一時二十四分に目白二丁目。二十一時三十八分に予約送信。——時刻は全部つながった」
「逮捕状は」
三浦が尋ねた。
「請求はできる。だが弁護士はこう言うだろう。この男は確かに被害者の家を訪ねた。四月の画像の件で話し合った。話し合いは物別れに終わり、先生を残して帰った。そのあとで誰かが入ってきて、先生を殴った。予約送信もその誰かがやった、と」
久我は紙を二つに折り、内ポケットにしまった。
「決め手は、あと一つ足りない」
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




