第九章 五つ目の拍 2
三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。
この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか
十月二十四日の夕方、久我は奏を目白署の屋上に呼んだ。今度は管理官の許可を取っていた。
「あなたへの容疑は、晴れました」
久我は前置きなしに言った。
「二十一時三十分ごろ、新座のアパート近くのコンビニの防犯カメラに、あなたが映っていました。目白からは、電車を乗り継いで四十分以上かかる場所です。それから、もう一つ」
久我は手帳を開いた。
「二十二日の朝、私は大学の事務局に『楽譜に書き込みがあったらしい』という噂だけを流しました。中身は伏せて。あなたにはそれを話さなかった。あなたが書き込みの中身を誰かに漏らすかどうかを、確かめるためです」
奏は息を呑んだ。
「噂は中身のないまま広がりました。少なくとも、あなたの口から中身が漏れた形跡は、どこにもなかった。……疑っていたことを謝ります」
久我は深く頭を下げた。
奏は、屋上の手すりの錆を、指先でこすった。指の腹が、赤茶色に汚れた。
「昨日、劇場の前である人が私に言いました。先生が楽譜に何か書き残していたそうだね。パッサカリアがどうとか、と」
久我は顔を上げた。三浦から、すでに報告を受けていたはずだった。それでも、久我の目の奥で何かが静かに動いた。
久我は内ポケットから二つに折った紙を取り出し、奏の前に広げた。奏はそこに書かれた名前を、声に出さずに読んだ。
四つずつ、指を折る男。
奏はスマートフォンを取り出した。事件の朝に撮った、一枚きりの写真。この十日間、何百回と拡大してきた、あの頁と、講座の録画の最後のスライドの写真。
「……刑事さん」
奏は、画面から顔を上げた。
「一つだけ方法があります。あの人があの書斎にいて、しかも先生が倒れたあとまでそこに残っていたことを、自分の口で証明させる方法が」
久我は屋上の風の中で、理由を二つ挙げた。
「取調室で問い詰めれば、相手は弁護士を呼んで何も言わなくなる。だから任意の場で、自分の意思で口にさせる。あなたは警察官ではないし、そのやりとりは最初に録音すると告げたうえで、すべて残す。——それに、決め手は明日の朝の捜索で押さえます。あの場の言葉は、最後の一押しにすぎません」
久我は手帳を開いて見せた。
「話すのはあなたです。私は止めるべきときに止めます。私がこの手帳を閉じたら、そこで話をやめてください。理由は聞かずに」
奏は手帳の黒い表紙を見つめた。
「私も一つ、決めていいですか」
「どうぞ」
「十回目のあとで、弓を止めます。最後の一回は、全部話し終えてから弾きます」
久我は少し考えてから言った。
「もし、途中で弾けなくなったら」
奏は屋上の手すりの向こうの、暮れていく目白通りを見た。
「……そのときは、止めた理由を、誰にも気づかれないようにします」
久我はそれ以上何も聞かず、頷いた。
風が強くなり、屋上の旗竿の綱が、金属の柱を叩いた。
「怖いですか」
久我が、前を向いたまま尋ねた。
「怖いです」
奏は正直に答えた。
「あの人の前で先生のことを話すのが。話しているうちに、自分が間違っている気がしてくるのが。……それに、あの部屋で弾くのが」
「私も、怖い」
久我は、手帳を内ポケットにしまった。
「何かあれば、責任は私が取ります」
奏は久我の横顔を見た。夕日が、その頬の片側だけを赤く照らしていた。
◇
同じ日の夜、奏は冴子の泊まっているホテルのラウンジで冴子と向かい合っていた。
「明日、先生の書斎で、嘆きの歌を歌っていただけませんか」
冴子はコーヒーカップを置いた。理由は聞かなかった。
「いいわ」
冴子は窓の外の夜景に目をやった。
「一つだけ聞いてもいい? その部屋に来る人の中に、あの人を殺した人がいるの?」
奏は答えなかった。冴子も、それ以上は聞かなかった。
「表向きは、私が書斎でやりたいと言ったことにしましょう。追悼公演の打ち合わせを、あの人の部屋で。あの人の部屋なら誰も断らないから」
冴子はその場で、高槻と宮坂とルーシーと篠原に、追悼公演の打ち合わせの誘いを送った。
◇
一時間後、奏の携帯にルーシーから電話がかかってきた。
「英国警察の照会結果の書面を、持って行ってもいいでしょうか。私は、まだ疑われていると思うので」
奏は少し迷ってから、どうぞ、とだけ答えた。
篠原からは、冴子に「警察の方も、いらっしゃるんでしょうか」とだけ返信があった。冴子は「主人を知っている人たちだけよ」と返した。
◇
その夜遅く、奏はアパートの部屋で一人でチェロを構えた。
低音を最初から弾く。一回目。二回目。数えながら、十回目の終わりまで弾いて、弓を止めた。
最後の一回が来るはずの場所で、部屋がしんと静まった。
その静けさは十五日の朝、師の書斎の扉を押したときの静けさに、よく似ていた。
あの夜も、先生はこの低音を弾いていたのだろうか。もしそうなら、先生の低音は、どこで止まったのだろう。何回目の何番目の音で。
奏は、もう二度、最初から弾いた。三度目で、弓を止める手がようやく震えなくなった。
机の上でスマートフォンが光った。久我からだった。
——四人とも、来るそうです。
◇
十月二十五日の午前十時、高槻が日曜の公開講座に講師として出ている時間に、区の職員の立会いを得て、久我たちは高槻の自宅を捜索した。
書斎の机の引き出しから、ウェクスクーム断片の画像を印刷した紙が二枚見つかった。四月のスキャンと、六月の高解像度のもの。燃やそうとした跡も、破った跡もなく、透明なファイルに挟んであった。そのほかに、黄ばんだ古い紙の束と、手書きのラベルで配合を記した茶色いインクの小瓶がいくつか。
押収のことは、高槻にはまだ知らせなかった。
◇
十月二十五日、午後六時。
目白の氷室邸の書斎に、八人の人間が集まっていた。
表向きは、冴子が言い出した追悼公演の打ち合わせだった。
窓際にはチェンバロが一台。氷室が「うちの長女」と呼んでいた、フレミッシュ様式の楽器だ。床の白いテープは剥がされ、そこには、何もなかったかのように、古い絨毯が敷き直されていた。
書斎には打ち合わせのために、ダイニングから運び込んだ椅子が何脚か置かれていた。奏が部屋に入ったとき、その椅子は、チェンバロのほうを向いて、一脚の狂いもなく揃えられていた。脚の位置が、絨毯の模様の線にきっちりと合っている。
「私が来たときには、篠原さんと高槻先生が、もういらしてたの。篠原さんが、ダイニングから椅子を運んでくださって」
冴子が、奏の耳元で小さく言った。
冴子は黒いワンピースで、チェンバロの脇に立っていた。一度、蓋に手を伸ばしかけて、指先が触れる前にその手を引いた。
篠原は部屋の隅の椅子で、膝の上に鞄を抱えていた。座ってからも、鞄を膝から下ろそうとしなかった。
ルーシーは書棚の前で、ノートパソコンを小脇に抱えていた。白い封筒を一通、ノートパソコンの下に挟み込むのが見えた。
宮坂透は少し遅れて入ってきた。揃えられた椅子の列を一瞥すると、端の一脚を音を立てて斜めに引き、そのまま腰を下ろした。ガンバのケースは、足元に寝かせた。
久我と三浦は戸口の近くに、関係者の一人のような顔をして立っていた。記録のために録音させていただきます、と三浦が一同に告げ、赤いランプの点いた小さな録音機を手の中に握った。
そして書斎の中央のソファに、高槻誠が座っていた。膝の上に、チェルシー写本の複製の光沢紙の冊子を載せている。
「皆さん、お集まりいただいてありがとうございます」
高槻は立ち上がって、穏やかに一礼した。
「先生の最後の舞台について、一つ提案があります。嘆きの歌を、チェルシー写本の楽譜で」
冴子が、口を開きかけた。
奏が、それを目で制した。
「高槻先生。そのお話の前に、一度だけここで弾かせてもらえませんか」
奏は、チェロケースの留め金を外した。
「先生の書斎で、先生のチェンバロの横で、あの低音を。——冴子さんに歌っていただいて」
高槻は少し意外そうな顔をしたが、すぐに微笑んだ。
「もちろんだ。いい供養になる」
◇
奏はチェンバロの横の椅子に座り、チェロを構えた。
譜面台にはあの朝と同じ、氷室が自分で製本し直した、現代の校訂譜が置かれていた。第三幕の終わりのページ。低音の五線の上には、震える鉛筆の、1から11の番号。そしてページの下の余白は、白い紙の帯で覆い隠されていた。
冴子が、奏の隣に立った。
奏は弓を弦に当てた。
ソ。
低音の最初の音が、書斎の床板を震わせた。
半音ずつ、地面の底へ。そして終止の音型へ。
五小節。
冴子の声が、低音の上に降りてきた。
When I am laid, am laid in earth——
高槻はソファの背にもたれ、目を閉じて聴いていた。
奏は低音を弾き続けた。一回目。二回目。三回目。
五小節目の終わりで、高槻の指が膝の上で動いた。四つ目の小節線の先で、次の繰り返しを待つように。そして低音がもう一小節そこに留まると、指は、所在なげに止まった。
四回目。五回目。
May my wrongs create no trouble, no trouble in thy breast——
冴子の声はこの十日間で、別人のように深くなっていた。
七回目。八回目。
Remember me——
冴子の声が、高く上がった。
but——
ah!
声は「ah」のところで、崩れた。夫の前では十二年間、一度も崩れなかった声だった。
息が言葉の外へこぼれ落ちるように。冴子の頬を一筋の涙が伝った。
forget my fate.
九回目。
十回目に入ったとき、高槻が、ソファから身を乗り出した。奏の譜面台の楽譜を、覗き込むように。
奏の弓が、震えた。
大学二年のコンクールの舞台で一音も出せなくなったときと、同じ震えだった。低音なら震えない、と信じてきた弓が、いま、弦の上で細かく跳ねていた。
奏は十回目を、なんとか最後まで弾ききった。
そして冴子が歌い終えた瞬間、奏は弓を止めた。
それは決めていた段取りだった。けれど同時に、震えを誰にも見せないためでもあった。
最後の低音は鳴らなかった。
書斎に宙づりの沈黙が落ちた。終止に向かうはずの音楽が、地面の途中でふいに途切れていた。
高槻が、目を開けた。
「……早瀬くん? 最後の後奏が」
「最後の一回は、あとで弾きます」
奏は弓を膝の上に置いた。
「その前に、先生が最後に何を教えてくれたのかを、皆さんにお話ししたいんです」
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




