第九章 五つ目の拍 3
三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。
この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか
奏は立ち上がり、譜面台の楽譜を手に取った。
「十月十五日の朝、私はこの部屋で先生を見つけました。先生は殴られたあと、しばらく生きていました。そしてこの楽譜の余白に、鉛筆で一行を書き残していました」
奏は楽譜を持ったまま、書斎の中央へ進んだ。高槻の、座るソファの前へ。
「その一行の中身を知っているのは、この部屋では、私と刑事さんたちだけです」
高槻の表情は変わらなかった。
「二十三日の夕方、劇場の前で、高槻先生は私に言いました。先生が楽譜に何か書き残していたそうだね。パッサカリアがどうとか、と」
「大学で、噂を聞いたと言っただろう」
高槻は穏やかに言った。
「警察の捜査は、どこかから漏れるものだ」
「漏れたのではありません」
戸口から久我が言った。
「流したんです。大学の事務局に。『遺体のそばの楽譜に書き込みがあったらしい』。流したのはそこまでです。中身は一文字も」
奏は楽譜の余白を覆っていた紙の帯を、ゆっくりと剥がした。
震える鉛筆の文字が、書斎の電灯の下に現れた。
全てはバッサカリアが教えてくれる
奏は、楽譜を高槻の目の前に差し出した。
「これが、先生の書いた一行です。読んでいただけますか」
高槻は楽譜に目を落とした。
ほんの一瞬、その眉が、ぴくりと動いた。
「……全ては、パッサカリアが教えてくれる。先生の口癖だ。噂のとおりだよ」
「もう一度、よく見てください」
奏は指で最初の文字を指した。
「パではありません。バです。震える手で、わざわざ力を込めて打たれた濁点です」
高槻は文字を見つめていた。
「大学に流れた噂には、中身がありませんでした。——でも高槻先生は、二十三日にパッサカリアと言いました」
「書き込みと聞けば、先生の口癖を思い浮かべる。弟子なら、誰でもそうだ」
「そうかもしれません。いまは、まだ」
書斎が、静まり返った。
高槻は、ソファの背から身を起こした。
「早瀬くん。君は、何が言いたいのかな」
◇
奏は楽譜を譜面台に戻した。
「バッサ。bassa、低い。先生は、旋律ではなく低音を見ろ、と書きました」
奏はスケッチブックを開いた。ルーシーのノートパソコンの画面に、ウェクスクーム断片とチェルシー写本が並んでいる。
「断片の低音の点は、三百年前の写譜師が刻んだ名前でした。チェルシー写本は、その点を消し、四月の簡易スキャンの折り目の影を本位記号として写しています」
奏はルーシーと高槻を順に見た。
「写本が現れる前にあのスキャンを持っていたのは、作ったルーシーさんと、受け取った高槻先生の二人です」
ルーシーが、目を伏せた。
高槻は、ふっと息を吐くように笑った。
「……なら、ブラントさんかもしれない。偽造の話なら学問の場で争おう。それにそれは、先生が殺された話とは関係がない。十四日の夜、私は池袋から護国寺まで歩いていた」
「二十一時十七分に、劇場の前でタクシーに乗りました」
戸口から久我が言った。
「二十一時二十四分に目白二丁目で降りた。乗車の決済はあなたのカードでした。車内のカメラには、団の連絡用の携帯電話で先生に電話をかける声と、膝の上で四つずつ指を折る手が残っています。その携帯のボタンに残っていた指紋は、いま照合しています。そして二十一時三十八分に、この部屋のパソコンで二十三時十分に送る予約が作られた。二十二時五分、雑司が谷の商店街のカメラに写っていたのは、池袋から歩いてきたあなたではありません。あのカメラは、目白の方角から来る人を正面から写す向きに付いている。目白から歩いてきたあなたです。——それから、今朝、あなたの自宅を捜索しました」
久我は一呼吸おいて、付け加えた。
「二十二時五十分には、別の人がこの家の門の前に立っていた。その人のことも、私たちは調べています」
名前は言わなかった。
高槻の目が、久我から書斎の中の人々へ、一人ずつ移っていった。
「……それなら、ブラントさんにも同じことを聞いたらどうだ」
高槻の声はまだ穏やかだった。
「四月のスキャンを作ったのは彼女だ。私に送った記録はあっても、彼女がほかの誰に見せたかの記録はない。偽造の手本を持っていたのは、私ではなく最初から彼女だ」
ルーシーの手が、ノートパソコンの下の封筒に伸びた。
「それに二十二時五十分に門の前にいた人がいるなら、その人に聞いたらどうだ。私は十時半には四谷にいた。二十人以上がそれを見ている」
部屋の隅で、篠原が膝の上の鞄を音がするほど強く抱きしめた。
「やめて」
冴子が、小さく言った。
ルーシーが、封筒から手を離した。
「十四日の夜、私は目白に来ました。約束を延ばされて、どうしても先生と話したかった。断片の論文に、先生のお名前を並べさせてほしい、と。……駅の前でしばらく迷ってから、坂を上りました。先生のお宅へ曲がる角で、コートの襟を立てた男の人とすれ違いました。暗くて、顔は見えませんでした。背の高さと歩き方が、どなたかに似ている気がしました。でも、似ている、というだけで、人の名前を口にすることは、私にはできなかった。二十一時五十分ごろ門の前に着いて、書斎の灯りを見上げました。チェンバロの音は、しませんでした。呼び鈴を押せずに、帰りました」
誰も、それ以上は口をきかなかった。
篠原は、ルーシーのほうを見なかった。高槻の言うことは、どちらも事実だった。
奏は戸口の久我を見た。久我の手帳は開いたままだった。
奏は息を吸った。
「『ah』のないあの一行が示すのは、書いたのが先生ではない、ということだけです」
奏は静かに言った。
「でも書いた人は、二十一時三十八分にこの部屋にいた」
高槻の顔から、ゆっくりと穏やかな表情が剥がれ落ちていった。
「……それで、全部か」
高槻の声は低かった。
「タクシーに乗った。先生の家を訪ねた。それは認めよう。四月の画像のことで先生と話し合った。だが話し合いは物別れに終わった。私は先生を残してこの部屋を出た。先生は生きていた。メールを打ったのは、そのあとで来た誰かだ。『ah』を削る人間は、世の中にいくらでもいる」
高槻の声はまだ崩れていなかった。
奏は譜面台の楽譜を、もう一度手に取った。
「先生はあなたが来る前にも、もう一つ書き残していました」
奏は楽譜の最初の低音を、高槻の目の前に差し出した。
「一回目の低音の、はじめの小節です。十五日の朝、私はここにある小さな黒い点を、倒れたときに鉛筆が紙をかすめた跡だと思いました。——あなたもあの夜、この頁を見たはずです。そして何とも思わなかった。去年の四月に、ウェクスクーム断片の点をインクの染みだと判断したのと同じように」
高槻の目が、低音の上の点に吸い寄せられた。
「一回目の低音、二番目の音の上に、一つ。二回目、六番目の音の上に、一つ。三回目、四番目。四回目、一番目。目に見える点は、五回目から先にはありません」
奏は、スケッチブックの頁をめくった。
「三百年前の写譜師と、同じ規則で読みます。二と六。二つ目の組の、六番目。M。四と一。四つ目の組の、一番目。T」
M・T。
「鑑定では、この四つの点はどれも同じ強さの、落ち着いた筆圧で打たれています。震えはありません。震える線で書かれた一から十一の番号とも、余白の一行とも違う。先生が殴られる前に、落ち着いた手で打った点です」
奏の声が、かすかに震えた。
「先生はその夜の来客を迎える前に、三百年前の写譜師と同じやり方で、二つの文字をこの低音に刻んでおいた。そして殴られたあとで、震える手で繰り返しに番号を振った。数えろ、と。最後に、一文字だけ変えて書いた。バッサ。旋律ではなく低音の上を見ろ、と」
「M・T」
高槻は、その二文字を口の中で確かめるように繰り返し、端の椅子の宮坂を見た。
「……それなら宮坂くんだろう。宮坂透。先生が論文を落とした男だ。あの夜、真っ先にリハーサルルームを飛び出していったのも彼だ。一昨日、警察に呼ばれて古い紙のことを聞かれたと、本人が私に電話してきた」
宮坂が、椅子を鳴らして立ち上がった。
「違う。僕は——紙は、先生に頼まれて——」
「宮坂さんの名前を、先生はそうは書きません」
奏はスマートフォンの画面を二つ、高槻の前に並べた。
一枚目は、あの朝に撮った校訂譜の表紙だった。鉛筆の「Dido」の右下に、小さく「K. Himuro」。
二枚目は、二〇一九年の公開講座の録画の、最後のスライドだった。Special thanks: T. Miyasaka (TA)。
「先生は、自分の名前も、弟子の名前も、ローマ字で書くときは、名前を先に書く人でした。表紙の署名は K. Himuro。講座のスライドでは T. Miyasaka。宮坂さんの頭文字なら、T・M です。点の位置で言えば、一回目は四番目の音、二回目は一番目の音になります。でも、先生が打った点は、一回目の二番目と、二回目の六番目です」
奏は高槻を見た。
「Lucy Brandt なら L・B。Reiji Shinohara なら R・S。私、早瀬奏なら K・H。先生が刻んだのは、そのどれでもありませんでした」
ルーシーが目を閉じ、小さく息を吐いた。篠原は、抱えていた鞄を膝の上にそっと下ろした。戸口の久我が、手帳の一頁を静かに破り取った。
「——Makoto Takatsuki。先生は、あなたの論文の英文の署名と同じ順番で、名前を刻みました」
宮坂が、力が抜けたように椅子に座り込んだ。椅子は斜めのままだった。
「宮坂さん。……おととい、ごめんなさい」
奏が言うと、宮坂は答えずに、目を閉じた。
◇
高槻は低音の上の四つの点を見下ろしたまま、動かなかった。
「……点を刻んだのが先生だとしても、それは先生が私を疑っていたというだけのことだ。私が殺したという証明にはならない。私は先生を生きたまま残して帰った」
高槻の声はかすれていたが、まだ理屈の形を保っていた。
奏は一歩、高槻に近づいた。そしてわざと、少しだけ声を落とした。
「先生は床の上であなたを見上げて、あなたの名前を呼んでから言ったんですよね。高槻くん、全てはバッサカリアが教えてくれる、と」
「違う」
高槻の声が、書斎に落ちた。
「先生は私の名前なんか呼ばなかった。見上げて、ただパッサカリアと言った。バなんて——」
高槻はそこで口を閉じた。
書斎の空気が、凍りついた。
高槻の目が見開かれた。言いかけた言葉の形のまま、唇が止まっていた。
「私は、床の上の先生の話をしました。あなたは、床の上の先生が何を言い、何を言わなかったかを直しました」
高槻は両手で顔を覆った。
久我が、高槻の傍らに歩み寄った。三浦が、戸口を塞いだ。
高槻は抵抗しなかった。ソファの上で背を丸め、顔を覆ったまま動かなかった。坂の下を、車が一台通り過ぎていった。
やがて、高槻は顔から手を下ろした。その指が、膝の上で一本ずつ折られていった。一、二、三、四。
五つ目の指は折られなかった。宙に浮いたまま、かすかに震えていた。
戸口で録音機の赤いランプが、まだ点いていた。
高槻は、話し始めた。
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




