第十章 Remember me, but ah!
三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。
この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか
二〇二六年十月十四日/二十五日〜二十六日 東京・目白
受話器を置いたとき、氷室慧は、今夜のことが始まる前に、名前を残しておくことに決めた。
電話は、二分と少しで終わった。相手は途中で一度だけ、篠原さんから伺いました、と言った。昼に自分が篠原に漏らした一言は、その日のうちに、いちばん知られたくない相手に届いていた。
氷室は、チェンバロの譜面台に立てた自分の校訂譜を開いた。第三幕の終わり。When I am laid in earth.
鉛筆を削った。一回目から四回目の繰り返しは、今夜来る人のために空けておいた。それから、低音の五回目の繰り返しの音符に、尖った芯を軽く置いた。五回目、六回目、七回目、八回目。四つの点で、二つの文字。
打ち終えてから、氷室は削りかすを屑籠の上で払い落とし、四つの点を見下ろした。
篠原は、怖かったのだ。店を守りたかっただけだ。
氷室は消しゴムを取り、四つの点を、一つずつ丁寧に消した。紙の繊維に、芯の押した跡だけがかすかに残った。
それから、一回目の低音に、もう一度鉛筆を置いた。一回目、二回目、三回目、四回目。
今度の四つの点は、消さなかった。
ただ、消しゴムを譜面台の端に置いた。今夜、あの男が自分の口で論文を撤回すると言うのなら、この四つも、明日の朝には消す。点は告発ではない。あの男が選ぶまでのあいだだけ、ここにある。
それが誰の名前なのかを知っているのは、この世で自分一人だった。
氷室は台所へ下り、棚から客用のカップを二つ出した。湯の沸く音が、静かな家に広がった。
それから冴子の番号を画面に出し、親指を画面の上に置いたまま、かけずに伏せた。
氷室はチェンバロの前に座り、嘆きの低音を弾いた。五小節目で、いつものように、足元の床板が一枚抜けるような感覚が来る。
二十一時十七分、携帯電話が鳴った。
「……ええ。待っているよ」
譜面台の上で、四つの点と、一つの消しゴムが、電灯の光を返していた。
その呼び鈴に応えるのが、自分の最後の仕事になるかもしれないことを、氷室慧はもう知っていた。
◇
「四月に、ブラントさんから、画像が届いた」
高槻の声は、ほとんど独り言のようだった。
「一目で本物だとわかった。でも、発見者は彼女だ。私はまた、脇役だった。何を書いても、先生の名前の後ろに並べられた。……だから、自分の発見が欲しかった。紙は、宮坂くんに買わせた。彼には何も言っていない。疑われるなら、それでもいいと思っていた」
端の椅子で、宮坂が両手で顔を覆った。
「十四日の夕方、先生は、自分で論文を撤回しなさいと言った。そうすれば誰にも言わない、と。……私は、できないと言った」
高槻は、書斎のチェンバロを見た。
「先生は何も言わずに、あの楽器の前に座った。低音を弾き始めて、五小節目で、手を止めずに私のほうを振り返った。——高槻くん。君はいつも四つで数える人だね。だから五つ目が来ると、足元が崩れる気がするんだろう。でも、崩れていいんだよ。ディドだって、一度は崩れるんだ」
高槻の唇が、震えた。
「気がついたら、ブックエンドを持っていた。先生は床に倒れて、私を見上げて、あの口癖を言った。譜面台の楽譜も見た。鉛筆の汚れだと思った。印刷した画像を鞄に入れて、冴子さんへのメールを作った。家を出たのは、九時四十五分ごろだった。先生の家の角で、誰かとすれ違った気がして、顔を伏せた。雑司が谷の商店街では、わざとカメラの下を通った。歩いていた、という話を、本当にするために」
久我が、手帳から目を上げた。
「二十一時十七分の電話は」
「団の携帯だ。自分の携帯の記録に残したくなかった。次の日の昼、劇場のロビーの長椅子に置いてきた。……帰る前に、カップを洗った。取っ手の向きを揃えて。気がついたら、そうしていた」
冴子が、顔を上げた。高槻は、その視線から目を逸らした。
「英語の一行は、いつも講座で使っている形が、そのまま指から出た。私は、覚えられたかった。偽造のことは、忘れられるはずだった。Remember me, but forget my fate. ディドの言葉を、自分のために裏返していたんだ」
高槻の目から、ようやく涙がこぼれた。
「息をする場所を、削って」
奏は、ルーシーから渡された論文の写しの一行を思い出していた。染みそのものに、音楽的な意味はない。——いまになって読めば、それは、高槻が自分に言い聞かせていた言葉のようだった。
久我が、高槻の前に立った。
「高槻さん。署まで、ご同行願えますか」
高槻は顔を上げずに頷いた。
三浦が、録音機のボタンを押した。赤いランプが消えた。
「十九時十二分、録音を終了します」
三浦の携帯が鳴った。三浦は短く応答し、聞き終えると、久我のそばに寄った。
「警部補。鑑識からです。団の連絡用の携帯のボタンから、高槻の指紋が出ました。それと、校訂譜の消された点の斜光撮影の結果も」
久我は頷き、三浦から受け取った一枚の写真を、奏に渡した。
「私は、まだ数えていません。数えるかどうかは、あなたに任せます」
奏は書斎の椅子を見た。
ダイニングから運び込まれた椅子の、ほとんどが、いまも絨毯の模様の線に合ったまま、チェンバロのほうを向いて並んでいる。リハーサルルームの椅子が一脚ずれていても、全員を残して並べ直させる男。
椅子を運んだのは篠原だった。けれど、脚を絨毯の線に一脚ずつ合わせたのは、研究室の書棚を床の目地に揃えていた、あの人だった。
久我に促されて、高槻はソファから立ち上がった。戸口まで歩いたところで、足を止め、奏のほうを振り返った。
「早瀬くん。一つだけ、教えてくれ」
高槻の声はひどく疲れていた。
「断片の最後の一回には、なぜ何も刻まれていないんだ。暗号を書く人間なら、最後に印を置く。ここで終わりだ、と。自分の頭文字でもいい。それだけの手間をかけた男が、なぜ最後の一回にだけ何も残さなかったんだ」
奏は答えられなかった。
高槻は奏の顔から目を離し、小さく首を振った。
「私には最後まで、あの五小節の意味がわからなかった」
高槻は戸口で、もう一度、書斎の中を振り返った。チェンバロ、譜面台、揃えられた椅子。その目は最後に、自分が並べた椅子の列の上で止まった。
一脚だけ、宮坂が引いた椅子が、斜めのまま残っていた。
高槻の手が、その椅子のほうへわずかに動き、途中で下ろされた。
高槻は久我と三浦に付き添われて、書斎を出ていった。
◇
廊下の足音が遠ざかっていったあと、残された五人は、しばらく誰も口をきかなかった。
篠原は部屋の隅の椅子で鞄を抱いたまま、うなだれていた。
「篠原さん」
ルーシーが、そっと声をかけた。
「財団には、私から事情を説明します。あなたが騙された側だということも」
篠原は小さく頷いた。その肩が、震えていた。
篠原は、ずっと膝の上に抱えていた鞄の留め金を外した。ぱちり、と乾いた音がした。
中から出てきたのは、茶色い包装紙を丁寧に畳んだものと、クリップで留められた書類の束だった。
「原本は警察にお預けしました。これはあの夜、原本と一緒に抱えて行ったものです。包んでいた紙と、オークションの来歴の書類。どうしても手放せなかった」
篠原は包装紙の折り目を、指でなぞった。
「先生に見せられなかったものを、しまえなかったんです。店の金庫に戻すと、あの夜のことが何もなかったことになる気がして」
奏は、ルーシーのホテルの部屋で見た、チェルシー写本の低音の写真を思い出していた。点のない、つるりとした低音。
「店は、年内で畳もうと思います」
篠原は書類の束を鞄に戻した。
冴子が、篠原のほうを向いた。
「篠原さん。主人の蔵書の整理を手伝っていただけませんか。古い楽譜のことが分かる方にお願いしたいの。私一人では、どれが大事なものかも分からないから」
篠原は眼鏡を外して、目元を拭った。眼鏡をかけ直してから、かすれた声で「はい」と答えた。
冴子はチェンバロの蓋に、そっと手を置いていた。
「奏くん」
冴子は振り返らずに言った。
「あの人は最後まで、崩れていいって言ったのね。自分を殺そうとしている人に向かって」
奏は答えられなかった。
窓の外はすっかり暗くなっていた。書斎の電灯の光が、チェンバロの蓋の花の文様を淡く照らしていた。
ルーシーが、奏のそばに来て声を落とした。
「早瀬さん。私は、疑われて当然でした」
ルーシーはノートパソコンの下から、白い封筒を抜き出した。開けないまま、両手で持った。
「高槻先生の論文が断片のことに触れていると気づいたとき、私は腹を立てました。でもほんの一瞬だけ、嬉しかったんです。これで私の断片の価値が上がる、と。発見者として名前を残したい気持ちは、私にもありました」
ルーシーは封筒を見下ろした。
「その気持ちが、あの人をあそこまで連れて行ったんですね」
ルーシーは、封筒の端を指で押さえた。
「英国警察の書面は、結局開けずに済みました。——でも持ってきてよかった。持っていないと、自分が逃げている気がしたから」
ルーシーはそれから、ノートパソコンを開きかけて、手を止めた。
手を止めたまま、ルーシーは冴子のほうを向いた。
「来年の春の論文に、氷室先生のお名前を共著者として入れさせていただけませんか。この点を最初に数えたのは先生ですから」
冴子はルーシーの顔を見つめ、頷いた。
「早瀬さん。もう一つ、お見せしたいものがあったんです。今朝、ウェクスクームの同僚から届いたばかりで」
ルーシーは経緯を短く話した。
奏がLISLEを読み解いた二十一日の朝、ルーシーは、ウェクスクームの同僚に頼んでいた。断片が入っていた木箱を、もう一度、底板まで調べ直してほしい、と。三百年前の誰かが名前を隠したのなら、ほかにも何かを隠しているかもしれない、と思ったのだという。
木箱の底は二重になっていた。底板を留めている釘のうち、四本だけが、ほかより新しい鉄の色をしていた。その底板を外した隙間に折り畳まれた小さな紙片が、一枚だけ挟まっていた。
ルーシーは画面に、一枚の画像を映した。
木箱の二重底から見つかったという、小さな紙片だった。N・Cの手紙とは、明らかに違う筆跡。少し右に傾いた、細い、女性の字だった。
「日付は一七一六年。断片を保管していたオルガニストが亡くなる少し前です。その人に宛てた短い礼状のようです」
紫外線撮影で浮かび上がったのは、ところどころの語だけだった。
I am told that N. C. dyed this last Winter …… I thank you that you have kept the Leafe so long …… I counted it once, long since ……
…… an old Acquaintance, who play'd many yeares in London …… his last Letter shew'd me how that Man came to know the Page ……
…… the five Barres at the end are left voide …… it is the place of a Name not written ……
…… let none count it more …… yet if any should, may they looke also upon the last five Barres, where nothing is ……
ルーシーは、欠けた語を補いながら、ゆっくりと訳して読み上げた。
「——お手紙で、N・C氏が昨年の冬に亡くなったと知りました。あの一葉を、これほど長く守ってくださったことに、感謝いたします。私は、あれを一度だけ数えました。遠い昔に。
一昨年、ロンドンで長く楽器を弾いていた古い知人が亡くなりました。その人が死の少し前によこした短い手紙で、あの人が、なぜ帳面のあの頁を知っていたのかが、わかりました。そしてN・C氏が、それを察していながら、一度も誰も責めなかったことも。
あの一葉の最後の五小節に何も刻まれていないわけを、私はそのとき、初めて知りました。あそこは、書かれなかった名前の場所です。
もう、数える必要はありません。どうか、あの一葉をそのまま眠らせてあげてください。ただ、もしいつか、誰かがあれを数えることがあったなら、その人が、十一回目の何もない五小節も、見てくれますように」
ルーシーは画面から顔を上げた。
「署名は、二つの頭文字だけです。H・V」
奏はその二文字を見つめた。
H・V。
奏にはそれが誰なのか、わからなかった。三百年前の、名前も残っていない、誰か。点を数えることのできた、もう一人の人間。
「十一回目の、何もない五小節」
奏は譜面台の楽譜を見た。
ウェクスクーム断片の最後の低音。十個の点のあとで、ぽっかりと空いた、黒くなめらかな五つの小節。この十日間、奏はずっと点のある十回を見てきた。名前の刻まれた十回を。
けれど三百年前の誰かは、名前を刻んだあとで、最後の一回だけを何も刻まずに残した。
女王が歌い終えたあと、弦だけが弾く、最後の地面に。
高槻先生。あの五小節は、書かれなかった名前の場所でした。
奏は、久我から渡された写真を開いた。
斜めから光を当てて撮った、師の校訂譜の低音だった。五回目から八回目の音符の上に、消しゴムで消された鉛筆の点の、かすかな圧痕が四つ、白く浮かんでいた。
奏は指を折りかけて、途中でやめた。五回目、三番目。六回目、五番目。三つ目の組、とまで数えたところで、その先に誰の名前があるのか、もう分かってしまったからだった。
奏は写真を二つに折り、上着の内ポケットにしまった。部屋の隅のほうは、見なかった。
先生は、一度刻んだ名前を、自分の手で消した。責めるつもりはない、と決めて。そして高槻先生の名前の四つの点の横には、消しゴムを置いていった。
先生は、消すつもりだったのだ。高槻先生が、自分の口で撤回すると言っていたら、あの四つの点も、次の朝には残っていなかった。
先生の低音には、消された名前もあった。それを数え直すのは、自分の仕事ではなかった。
奏は椅子に座り、チェロを構えた。
「冴子さん、ルーシーさん、篠原さん、宮坂さん。さっき弾かなかった最後の一回を、弾かせてください」
奏は弓を弦に当てた。
ソ。
低音が、書斎の床板を震わせた。
歌はもうなかった。ディドも、もういなかった。低音だけが、同じ地面を最後にもう一度歩いていった。
奏はその五小節を、息を詰めずに、ただ静かに弾いた。
弾き終えると、書斎に深い静けさが戻ってきた。
奏は弓を下ろし、目を閉じた。
全ては、パッサカリアが教えてくれる。
先生。低音は名前を覚えていました。でも、それだけじゃなかった。
覚えていることと赦すことのあいだで、一度だけ息をする場所も、ちゃんと残していました。
◇
翌日の昼過ぎ、奏は冴子に呼ばれて、もう一度、目白の家を訪ねた。
冴子は書斎の机の前で、一冊の古いノートを手にしていた。黒い布張りの表紙が、角のところで擦り切れている。
「引き出しの奥にあったの。あなたたちのゼミのノートみたい」
奏はノートを受け取った。表紙の裏に十年以上前の年度と、「英国音楽史演習」という氷室の字があった。
頁をめくっていくと、見覚えのある一行が、黒板に書かれていたのと同じ形でノートの上に写されていた。
Remember me, but ah! forget my fate.
その下に、小さな字で「宿題」とある。次の週の日付の欄には、赤で休講と書かれていた。その横に鉛筆で一行だけ、答えのようなメモが書き込まれていた。
——答えは、君たちの低音の中にある。歌い手が崩れる一拍を、低音は待たずに進む。だから、崩れても、帰る地面がある。
奏はその一行を何度も読んだ。
昨日の書斎で十回目に入ったとき、自分の弓は震えた。それでも、冴子の声が、震える低音の上を崩れずに歩いてくれた。崩れたのは歌い手ではなく、低音のほうだった。そして帰る地面をくれたのは、歌のほうだった。
「持って行って」
冴子が言った。
「あの人の宿題を、最後まで聞いてくれたのは、あなただけだから」
奏がノートを鞄にしまいかけたとき、冴子が、机の引き出しから、もう一通、白い封筒を出した。
「それから、これ。弁護士さんから預かったの。警察の方から、もう聞いているかもしれないけれど」
封筒の中には、遺言の追記の写しが一枚と、クリップで留められた小さなメモが入っていた。
——十八世紀イタリア製バロック・チェロ一挺、ならびに低音楽器の楽譜の蔵書を、早瀬奏に遺す。二〇二六年十月十三日。
メモのほうは、見慣れた鉛筆の字だった。
——君の低音は、もう、誰の歌の地面にもなれる。
奏は、その一行から目を上げられなかった。
十三日。先生が、大阪の冴子さんに、三百年前の誰かの声が聞こえると電話をかけた日。その次の日の夕方、先生は譜面台の上に四つの点を打った。
「あの人、自分に何が起きるか、分かっていたのかしら」
冴子は窓の外を見ていた。
奏は答えなかった。答えは、高槻先生の名前の四つの点が、もう出していた。
冴子は、窓の外から目を戻した。
「それからね、今朝、篠原さんが蔵書の整理に来てくださったの。棚の前で急に手を止めて、話してくださった。十四日の午後、高槻先生に電話をかけたんですって。氷室先生が何か掴んでいるようだ、って。……自分から、そう言ったのよ。誰にも聞かれていないのに」
奏は、上着の上から、内ポケットの写真に触れた。
「冴子さんは、何て」
「何も。あの人なら、何も言わなかったと思うから」
奏は、写真を取り出さなかった。
◇
玄関で靴を履いていると、冴子が、思い出したように言った。
「そうだ。宮坂さんから連絡があったの。追悼公演でガンバを弾かせてほしいって。……あの人の弟子として、一度だけって」
奏は少し考えてから、頷いた。
◇
ノートを抱えて坂を下りていく途中で、奏は上ってくる久我と行き会った。
「冴子さんに、お借りしていた書類を返しに来たところです」
久我は奏の抱えているノートに目を留めたが、何も聞かなかった。
二人は、並んで坂の途中の低い石垣にもたれた。欅の葉が、昨日よりもまた少し、色を深めていた。
「一つ、お話ししておきたいことがあります」
久我は手帳を取り出した。一頁、破り取られた跡がある。
「昨日あの部屋で破った頁です。そこには、L・B? R・S? T・M? K・H? と書いてありました。疑うべき人を疑った記録です。名前の順序が読まれた瞬間に、私が自分の手で消しました。……最後の一つを書いたとき、私は自分を一番恥じました」
奏は破り取られた跡の、ぎざぎざの紙の縁を見た。
「父に言われたことを前にお話ししましたね。十回聞いて、一回だけ違うところに何かがある」
久我は、石垣の上に枝を伸ばした欅を見上げた。
「今回違っていた一回は、あなたの先生が書いた一文字でした」
奏は、坂の下の信号が二度変わるのを見ていた。
「……九回目のあとで、弓が震えました」
「知っています」
久我は前を向いたまま答えた。
「それでも、十回目を最後まで弾いた」
奏は胸に抱えたノートを、少しだけ強く抱いた。
「先生のノートに書いてありました。崩れても、帰る地面がある、と」
久我はそれ以上何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ、口の端が動いた。
「十一月の演奏会で、弾きます」
奏は言った。
「今度は、数えずに弾いてみたいんです」
「聴きに行きます」
久我は手帳をしまった。
「四つで数えないように、気をつけます」
奏は笑った。自分の笑い声を聞くのは、事件の朝から初めてだった。
坂の上のどこかの家から、チェンバロの練習の音がかすかに聞こえてきた。子どもが弾いているのか、同じ小節を何度もつかえながら繰り返している。
奏は思わずその拍を数えそうになって、やめた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




