第二章 五小節の歩み 3
三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。
この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか。
戸口に立っていたのは、二人の男だった。
一人は、四十代半ばの紳士だった。深い緑の天鵞絨の上着に、真新しい鬘。胸元の襞飾りには、小さな黒真珠のピンが光っている。整った顔立ちで、口元には、人に好かれることに慣れた者の余裕のある笑みが浮かんでいた。
もう一人は、三十前後の軍人だった。赤い上着に、剣を帯びている。日に焼けた顔に、飾り気のない率直な目をしていた。
「これは、サー・エドマンド」
奥の部屋から出てきたプリースト氏が、急いで頭を下げた。
「ようこそ。お知らせいただければ、お迎えに上がりましたのに」
「なに、通りがかっただけだ」
サー・エドマンド・ライルは、軽く手を振った。
「この学校の後援者として、新しい劇の話を聞き逃すわけにはいかないからね。ミスター・パーセル、ミスター・テイト、お目にかかれて嬉しい」
ライル卿はパーセルと握手を交わし、テイトの詩をいくつか暗誦してみせて、テイトを上機嫌にさせた。宮廷に出入りする廷臣らしい、滑らかな身のこなしだった。
それから、広間の隅のヘスターに目を向けた。
「ミス・ヴェイン。今日も、あなたの生徒たちの歌が、庭まで聞こえていましたよ」
ヘスターは膝を折って礼をした。だが、その目は、ライル卿の後ろに立つ軍人のほうへ向いていた。
「ロバート」
小さな声だった。
赤い上着の軍人は、帽子を取って、ヘスターの前に進み出た。
「ヘスター。休暇が取れた。三日だけだが」
ロバート・アッシュ大尉は、ぎこちなくヘスターの手を取った。ヘスターは、その手を離さなかった。
ライル卿はその様子を、笑みを崩さずに眺めていた。
「アッシュ大尉とは、ホワイトホールで偶然お会いしてね。チェルシーへ行くと聞いて、馬車に乗せてさしあげたのだ。婚約者どのに会いに行く若者を、歩かせるわけにはいかないだろう?」
「ご親切に、サー・エドマンド」
アッシュは振り返って礼を言った。その声には、心からの感謝がこもっていた。
ナサニエルは小机の前に座ったまま、三人を見ていた。
ヘスターの手がアッシュの手に重なったとき、ナサニエルは二つの視線に気づいた。
一つは、戸口の横に控えた黒い外套の従僕のもの。主人ではなく、アッシュの袖口を、じっと見ていた。
そしてもう一つは、広間の奥の廊下の暗がりから。誰かが、壁に手をついて、こちらを覗いていた。ナサニエルがそちらを見たとき、その影は、足を引きずるような音を残して、奥へ消えた。
ライル卿は従僕に目で合図した。黒い外套の従僕が、革で装丁された薄い帳面を捧げ持って進み出た。表紙の中央に、金の箔でライル家の紋章が押されている。
「ミス・ヴェインに、ささやかな贈り物を。白紙の楽譜帳だ。アムステルダムの紙で作らせた。あなたの生徒たちの歌を、いつか誰かが清書する日のために」
ヘスターは帳面を受け取り、丁寧に礼を述べた。
「もったいないお品です、サー・エドマンド。学校の皆で、大切に使わせていただきます」
学校の皆で。ヘスターは、その言葉をはっきりと言った。ライル卿の笑みは、やはり崩れなかった。
ライル卿は今度はナサニエルに向き直った。
「君がパーセル氏の写譜師か。いい手をしていると聞いている。いずれ、この新しい劇の楽譜ができあがったら、最初の清書を一部、私の書斎のために作ってもらえないかね。礼は弾む」
ナサニエルはパーセルを見た。パーセルは、肩をすくめただけだった。
「……先生のお許しがあれば」
「結構。楽しみにしているよ」
ライル卿はナサニエルの肩を親しげに叩いた。その手は、見た目よりもずっと重かった。
プリースト氏に案内されて奥の部屋へ向かう途中、ライル卿は広間の奥の廊下で一度だけ足を止めた。楽器部屋の扉の前に、痩せた男が一人、ヴァイオリンを抱えて立っていた。
二人の目が、短く合った。
先に目を逸らしたのは、痩せた男のほうだった。
◇
ライル卿とアッシュ大尉が奥の部屋へ通されたあと、ナサニエルは写譜の続きに戻ろうとして、インクが切れていることに気づいた。
プリースト氏に尋ねると、楽器部屋の棚にあるはずだと言う。広間の奥の狭い廊下を抜けた先の、北向きの小部屋だった。
扉を開けると、中に先客がいた。
窓際の椅子に、痩せた男が一人、ヴァイオリンを膝に載せて座っていた。年は三十五、六だろうか。擦り切れた黒い上着に、手入れの行き届かない髪。左の脚を、椅子の横に棒のように投げ出している。足首に、古い傷を固定するための革の帯が巻かれていた。
「写譜屋か」
男は、ナサニエルが名乗る前に言った。
「パーセル氏のお供だろう。インクなら、その棚の二段目だ」
「ありがとうございます。あなたは」
「ギデオン・ヘイル。ここで、お嬢さん方の踊りのために弾いている。プリースト先生の、足の悪い伴奏弾きだ」
ギデオンは弓で左脚を軽く叩いてみせた。
「セッジムアで、国王陛下の側で撃たれた。反乱軍を蹴散らした名誉の傷だと、医者は言ったがね。名誉では、ヴァイオリンの弦も買えん」
セッジムア。二年前、モンマス公の反乱軍が国王の軍に打ち破られた戦場の名だった。
ナサニエルは棚からインク壺を取り、礼を言って部屋を出ようとした。
「アッシュ大尉が来ているそうだな」
背中に、ギデオンの声がかかった。
「ミス・ヴェインの婚約者の。立派な軍人だ。立派すぎて、口が軽い」
ナサニエルは振り返った。ギデオンはヴァイオリンの糸巻きを回しながら、こちらを見もしなかった。
「写譜屋。お前も、あの二人の近くにいるなら、覚えておけ。この国ではいま、楽譜より手紙のほうが、ずっと人を殺す」
ギデオンは弓を弦に当てた。
流れ出したのは、昼間ヘスターが歌った、あの低音だった。一度聴いただけのはずの五小節を、ギデオンは寸分違わず弾いてみせた。そして五小節目の終わりで、わざと一拍早く次の繰り返しへ飛び込み、にやりと笑った。
「四つで数える奴は、ここで転ぶ」
ナサニエルは扉を閉めた。
◇
帰りの渡し舟を待つあいだ、船着き場の小屋の軒下で、ナサニエルはアッシュ大尉と二人になった。パーセルとテイトは、まだ学校でプリースト氏と話し込んでいた。
夕暮れの川面は、鈍い銅色に光っていた。対岸のバタシーの村から、夕べの鐘の音が渡ってくる。
「クルーさん、でしたね。パーセル氏の写譜をなさっている」
アッシュが、先に口を開いた。
「さっき、ヘスターが言っていました。パーセル氏のところに、腕のいい写譜師がいる、と。いつか、自分の生徒たちの歌を清書してもらいたい、と」
「光栄です」
アッシュは川を見たまま、声を落とした。
「一つ、伺ってもいいですか。パーセル氏は、宮廷にも寺院にも仕えておられる。いまの宮廷のことを、どう思っておられますか」
ナサニエルは答えに詰まった。
「私は、ただの写譜師です。先生の考えは、先生の楽譜の中にしかありません」
アッシュは苦笑した。
「そうですね。失礼しました。つまらないことを聞いた」
アッシュは帽子をかぶり直した。その袖口から、白い紙の端がのぞいていた。封蝋のついた、小さな手紙のように見えた。アッシュはそれに気づくと、さりげなく袖の中に押し込んだ。
「私の連隊にも、近頃、新しい士官が次々に来ます。ミサに通う連中です。それが悪いとは言いません。ただ——」
アッシュは言葉を切った。
「ただ、声を落とさなければならない世の中は、長くは続かない、と思っているだけです」
船着き場の反対側、柳の木の陰に、人影が一つ立っていた。
黒い外套の男だった。顔は、夕闇に紛れて見えない。男はナサニエルとアッシュのほうを見ていたが、やがて向きを変え、学校のほうへ歩いていった。
その後ろ姿の歩き方に、ナサニエルは見覚えがあった。ライル卿の馬車の、御者台の横に立っていた従僕だ。
「どうかしましたか」
アッシュが尋ねた。
「いえ」
ナサニエルは首を振った。
「冷えてきましたね」
◇
その夜、ウェストミンスターのパーセルの家に戻ると、パーセルはナサニエルを仕事部屋に呼んだ。
机の上に、昨夜の低音の紙が広げられていた。その横に、テイトの台本の草稿がある。まだ、女王の最後の歌の歌詞は、空白のままだった。
「今日のミス・ヴェインの歌を、どう聴いた」
パーセルは蝋燭の芯を切りながら言った。
ナサニエルは少し考えた。
「五小節目で、足を踏み外しました。けれど、歌をやめなかった」
「そうだ」
パーセルは低音の紙を指で叩いた。
「呪いの歌なら、踏み外したところで叫べばいい。だが、あの人は叫ばなかった。踏み外したまま、次の地面へ、静かに足を運んだ」
パーセルは窓の外の霧を見た。
「テイトには、まだ言っていない。だが女王は、呪わないかもしれない」
ナサニエルは昼間のことを思い出していた。ヘスターの手と、アッシュの手。それを眺めていた二つの目。柳の陰の、黒い外套。
「先生」
ナサニエルは思わず口にしていた。
「歌が何かを忘れてしまったら、どうなるのでしょう。言葉が変えられて、誰かの呪いが消えてしまったら」
パーセルは不思議そうにナサニエルを見た。それから、ふっと笑った。
「妙なことを聞くな」
パーセルは羽根ペンを取ると、低音の紙の余白に、小さく書きつけた。
"The Song may forget; the Ground remembers."
「歌は忘れるかもしれない。だが、地面は覚えている」
パーセルはペンを置いた。
「上に立つものが何を歌おうと、低音は同じ道を十一回歩く。何度でも、同じ場所を通る。だから、何かが変わったとき、低音を見ればわかる。——君の、あの蠅の糞のような点も、低音の上に打っておけば、目立たないかもしれんぞ」
パーセルは自分の冗談に笑い、手燭を持って部屋を出ていった。
ナサニエルは一人残された部屋で、低音の紙を見つめていた。
六つの音。五つの小節。何度も繰り返される地面。
鞄の中から、今日チェルシーで書いた反故紙が一枚、はみ出していた。ヘスターの書いた数字と、自分が書き間違えて消した数字が並んでいる。
8 5 18 19 5 17
一文字違えば、別の名前になる。
私なら、呪うより先に、誰かの名前を呼びます。
昼間のヘスターの声が、蝋燭の揺らぎに重なった。彼女が呼ぶ名前は、きっとアッシュ大尉の名前だろう。そう思ったとき、胸の奥で小さく軋むものがあったことを、ナサニエルは認めたくなかった。
呪いは地面に吸われる。けれど名前は数字にすれば、紙の上に残る。歌が変えられても、言葉が消されても、誰かが数え方さえ知っていれば。
ナサニエルは首を振り、その考えを追い払った。自分はただの写譜師だ。主人の音を、一つも違えずに写すのが仕事だった。
ナサニエルはその紙を丁寧に折りたたみ、自分の上着の内ポケットにしまった。
窓の外で、霧の中を、誰かの足音が遠ざかっていった。規則正しく、五つ数えるたびに、少しだけ間の空く足音だった。
ナサニエルはそれが足を引きずる男の歩き方だと気づくまで、耳を澄ませていた。
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




