第二章 五小節の歩み 2
三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。
この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか。
チェルシーの船着き場から、泥の道を十分ほど歩いたところに、ジョサイアス・プリーストの学校はあった。
古い煉瓦の屋敷で、庭には刈り込まれた生け垣と、枝を広げた桑の木が一本あった。プリースト氏は、劇場で名の知れた舞踏の師匠だった。その妻が上流の家の娘たちを預かり、読み書きや刺繍や音楽を、そして何よりも舞踏を教えていた。
玄関で出迎えたプリースト氏は、小柄で、踊り手らしく背筋の伸びた男だった。テイトとパーセルに深々と礼をし、ナサニエルにも軽く会釈した。
「皆さま、ようこそ。お嬢さんたちは、広間でお待ちかねです」
広間に通されると、窓際に並んだ椅子に、十数人の少女たちが行儀よく座っていた。十かそこらの子どもから、十五、六の娘まで。皆、揃いの灰色の服に白い襟をつけている。パーセルとテイトが入っていくと、少女たちはいっせいに立ち上がって膝を折った。
その少女たちの前に、一人の若い女が立っていた。
ほかの誰よりも背が高いわけでも、目立つ服を着ているわけでもなかった。濃い茶色の髪を簡素にまとめ、灰色の服の袖を肘までまくっている。手には、使い込まれた小さなヴァージナルの鍵盤蓋の鍵を持っていた。
「ミス・ヴェインです。音楽の手ほどきを任せております」
プリースト氏が紹介した。
「ヘスター・ヴェインと申します」
女は、パーセルに向かって深く膝を折った。
「ミスター・パーセル。お目にかかれて光栄です。先生のアンセムを、寺院で何度も聴いておりました」
声は低めで、よく通った。話し声だというのに、どこか歌の響きを含んでいた。
「それは、どうも」
パーセルは珍しく照れたように頭を掻いた。
「テイトから聞いています。あなたが、この子たちに歌を教えていると。今日は、少し歌を聴かせてもらいに来ました」
ヘスターは頷き、ヴァージナルの前に座った。少女たちが二列に並ぶ。ヘスターが短い前奏を弾き、少女たちは声を揃えて、パーセルの劇場の歌を一曲歌った。音程は時おり揺らいだが、言葉ははっきりしていた。とりわけ、年長の娘たちの声には、よく訓練された張りがあった。
歌い終わると、パーセルは手を叩いた。
「いい。言葉が聞こえる。英語の歌は、言葉が聞こえなければ意味がない」
ヘスターの頬に、わずかに赤みがさした。
「ミス・ヴェイン」
パーセルはナサニエルを振り返り、またヘスターを見た。
「一つ、あなたに歌ってもらいたいものがあるんです。まだ歌詞もついていない。低音と、旋律のかけらだけですが」
パーセルが目で合図し、ナサニエルは鞄から、昨夜の紙を取り出して譜面台に置いた。
ヘスターはその紙を見つめた。
少しして、彼女は低い声で、旋律を母音だけで歌い始めた。パーセルが、低音をヴァージナルで弾いた。
ヘスターの声は、低音の上を下り、また上り、そして低音の区切りとは違う場所で息をついた。
五小節目で、彼女の声がほんのわずかに揺れた。
足場を失ったのだ、とナサニエルは思った。四つで着地しようとした声が、そこにあるはずの床を踏み外した。けれど、ヘスターは歌を止めなかった。揺れたまま、次の繰り返しの上へ、そっと足を運んだ。
広間の空気が、変わっていた。少女たちは身じろぎもせず、テイトでさえ、口を閉じていた。
三度目の繰り返しの終わりで、パーセルは手を止めた。
「……ありがとう」
ヘスターは自分でも驚いたように、胸に手を当てていた。
「不思議な低音です。どこにも着けない」
「そういうふうに書いた」
パーセルは言った。
「女王が、どこにも着けないように」
テイトが、咳払いをして一歩前に出た。
「ミス・ヴェイン。参考までに聞かせてほしい。ウェルギリウスの女王は、死ぬ前にこう言う」
テイトは芝居がかった身振りで胸に手を当て、自分で英語に訳したらしい詩句を朗々と唱えた。
"Rise from my bones, some avenger! Let shore fight shore, and sea fight sea, for ever!"
わが骨より、復讐者よ起これ。岸は岸と、海は海と、永遠に争え。
少女たちの何人かが、びくりと肩をすくめた。
「この言葉を、いまの低音の上で歌えるかね」
ヘスターは譜面台の紙に目を落とした。低音の六つの音符が、黒い階段のように並んでいる。
「歌えと言われれば、歌います」
彼女は、顔を上げた。
「でも、ミスター・テイト。この低音の上で呪えば、呪いは地面に吸われてしまう気がします。叫んでも、叫んでも、下へ、下へ。……私なら、呪うより先に、誰かの名前を呼びます」
「誰の名前を?」
テイトが、面白がるように聞き返した。
ヘスターは答えなかった。ただ笑って、ヴァージナルの蓋を閉じた。
パーセルは何も言わなかった。ただ、膝の上の右手の指が、見えない五線に何かを書きつけるように、小さく動いた。
◇
稽古が終わると、パーセルとテイトは、プリースト夫妻と奥の部屋で台本の相談を始めた。ナサニエルは少女たちが使う練習用の楽譜を書き写すよう言いつけられ、広間の隅の小机に向かった。
窓から差し込む午後の光が、紙の上に斜めの影を落としていた。
ナサニエルは元の楽譜を左に、白紙を右に置き、一音ずつ写していった。途中で、元の楽譜に怪しい音を見つけると、ペン先で符頭の上に小さな点を打つ。後で主人に確かめるための、自分だけの目印だった。
「それは、何の印ですか」
顔を上げると、ヘスターが机の脇に立っていた。少女たちはすでに年長の娘に連れられ、庭へ出ていた。
「癖です」
ナサニエルは少し気まずくなってペンを置いた。
「元の楽譜で、音が怪しいところに打っておくんです。後で先生に確かめて、写し終えたら消します」
「消し忘れたら?」
「先生に叱られます。蠅の糞かと思った、と」
ヘスターは声を立てて笑った。広間の天井に、その笑い声が柔らかく跳ねた。
「覚えておくわ。あなたの点を見つけたら、蠅と間違えないように」
ヘスターは笑いの残る声のまま、話を変えた。
「ミスター・クルーは、ウェストミンスター・スクールのご出身だと、プリースト先生から伺いました」
「ええ。奨学生でした。ラテン語と、鞭の味は、たっぷり覚えました」
「では、あの遊びもご存じ?」
ヘスターは机の端に置かれた反故紙を一枚取り、ナサニエルのペンを借りると、数字を書き並べた。
8 5 18 19 5 17
ナサニエルは思わず笑った。
知っていた。スクールの少年たちが、教師の目を盗んで手紙を回すときに使った、他愛のない暗号だ。アルファベットに順に番号を振る。ただし、IとJ、UとVは同じ文字として数える。だから、AからZまで二十四文字。
H。E。S。T。E。R。
「ヘスター」
「兄が、スクールにいたんです。休暇のたびに、家族への手紙をこれで書いてきて。母は怒っていましたけれど」
ナサニエルはペンを取り返すと、その下に数字を書いた。
12 1 19 8 1 13
ヘスターは首を傾げて、指で数を追った。そして、目を細めた。
「M、A、T、H、A、N……マサン?」
「失礼。十三でした」
ナサニエルは最初の数字を二重線で消し、13と書き直した。
「NATHAN。ナサニエルの、途中までです」
「一文字違うだけで、別の名前になってしまうのね」
ヘスターは書き直された数字を見つめたまま言った。
「気をつけないと」
そのとき広間の戸口で、咳払いが聞こえた。
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




