第二章 五小節の歩み 1
三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。
この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか。
一六八七年十月 ウェストミンスター/チェルシー
のちに一人の男の名を三百年隠すことになるアムステルダムの紙を、この夜、ナサニエル・クルーはまだ一枚も持っていなかった。
蝋燭が一本、ぱちりと爆ぜた。
ナサニエルは、ペンを止めずに芯切り鋏へ左手を伸ばした。炎の丈を詰め、また五線に目を戻す。インク壺の縁で余分なインクを落とし、符頭を一つ置く。符尾を引く。次の符頭。ウェストミンスターの夜はとうに更け、窓の外では、テムズから上がってくる霧が、路地の角灯をぼんやりと滲ませていた。
この部屋で夜を明かすのは、今月に入って四度目だった。
ヘンリー・パーセルの家の二階、通りに面した小部屋は、仕事部屋というより楽譜の巣だった。棚という棚に、宮廷のための頌歌、寺院のためのアンセム、劇場の歌の下書きが、紐でくくられて積み上がっている。どの束にも、主人の走り書きの字で題が記されていた。その字の癖を、ナサニエルはこの三年でほとんど自分の手のように覚えてしまった。
「まだ起きていたのか、ナット」
戸口に、パーセルが立っていた。寝間着の上に古い部屋着を羽織り、手燭を提げている。二十八歳という年齢よりも、少し若く見える顔だった。ただ目の下には、ここ一年で消えなくなった影がある。
「朝までに、と仰いましたので」
「朝までに、とは言った。夜通しで、とは言っていない」
パーセルは部屋に入ってきて、ナサニエルの肩越しに譜面を覗き込んだ。冷えた夜気と、かすかな麦酒の匂いがした。
「宮廷の方か」
「はい。十一月の頌歌の、弦の声部です」
「それは明日でいい。いや、明後日でもいい」
パーセルは机の端に手燭を置き、椅子を一つ引き寄せて、ナサニエルの隣に腰を下ろすと、懐から一枚の紙を取り出した。
四つ折りにされ、端が湿気でふやけた紙だった。
「こっちを見てくれ」
広げられた紙には、五線が引かれていた。いや、五線と呼ぶにはあまりにも粗い。定規も使わずに引かれた線の上に、低音記号と、黒い符頭がいくつか、急いで書きつけられている。歌詞も、ほかの声部も、何もない。低音だけだった。
ナサニエルはその音を目で追った。
ソ。ファのシャープ。ファ。ミ。ミのフラット。レ。
半音ずつ、階段を一段ずつ踏み外すように、四度を下りていく。そこから低音は跳ねて終止へ向かい、また最初のソへ戻る。その繰り返しを示す印が、紙の端に記されていた。
「嘆きの低音ですね」
「そうだ。イタリアの連中が好んで使う、あれだ。珍しくもない」
パーセルは指で、低音の小節線をなぞった。
「数えてみろ」
ナサニエルは数えた。一、二、三、四——。
五。
もう一度数えた。やはり五つだった。
「五小節」
「そうだ」
パーセルはどこか満足そうに頷いた。
「気持ちが悪いだろう」
ナサニエルは、答えなかった。気持ちが悪い、というのとは少し違った。四つ目の小節線の先で、足元の床板が一枚、ふっと抜けるような感覚だった。四つで区切ろうとする耳が、次の繰り返しの頭を待っている。けれど低音はもう一小節、そこに留まる。
「普通なら、四つに収めるところです」
「普通ならな。四つ、八つ。それで人の耳は安心する。ダンスの足も揃う。だが、これはダンスの曲ではない」
パーセルは机の上の羽根ペンを取ると、低音の上の空いた五線に、旋律の断片を書き足した。長い音符が一つ。そこから下る。また上る。その区切りは、低音の区切りとまるで揃っていなかった。
「歌は、ここから入る。低音はここで回る。歌が息をつくとき、低音はまだ途中にいる。低音が頭に戻るとき、歌はまだ言葉の途中にいる。どこまで行っても、揃わない」
パーセルはペンを置いた。
"The voice shall never find her footing, Nat. The ear counts four; the ground gives five."
声は、ほとんど囁きだった。
「歌は、足場を得られない。耳は四つを数える。だが、地面は五つを差し出す」
ナサニエルはその紙から目を離せなかった。そこに書かれているのは、わずか数小節の低音にすぎない。けれど、目で追うのをやめられなかった。
「誰が歌うのですか」
「女王だ」
パーセルはようやく笑った。
「テイトが、仮面劇の台本を持ってきた。カルタゴの女王ディドと、トロイアのアエネアスの話だ。最後に女王が死ぬ。その死の歌を、この地面の上に立たせる」
「ディドの……」
ナサニエルは、ウェストミンスター・スクールで叩き込まれたウェルギリウスの一節を思い出した。去っていくアエネアスの船を見送りながら、炎の上で、女王は呪いの言葉を吐く。わが骨より復讐者よ起これ。岸は岸と、海は海と、永遠に相争え。
「女王は、呪いながら死ぬのではありませんでしたか」
「ウェルギリウスではな」
パーセルは立ち上がって窓辺に寄った。霧の向こうに、寺院の塔の影が見えていた。
「テイトの女王は、まだ何を言うか決まっていない。テイトは呪わせたがっている。そのほうが劇になる、と言ってな」
「先生は?」
パーセルは黙っていた。
「わからん」
パーセルは、窓辺から振り返った。
「ただ、この低音の上で、呪いの言葉が似合うとは思えない。——明日、テイトとチェルシーへ行く。プリーストの学校だ。君も来い。清書を頼みたいものがある」
◇
翌日の昼過ぎ、ナサニエルはパーセルとネイハム・テイトとともに、ウェストミンスターの船着き場から渡し舟に乗った。
テムズの水は鉛色に濁り、上げ潮に逆らって進む舟の舳先で、白い泡が砕けていた。船頭が櫂を操るたびに、軋む音が規則正しく響く。岸には、ランベスの湿地の葦が枯れ色に揺れていた。
テイトは舟の上でもずっと喋り続けていた。
「だから、ヘンリー、女王は怒らねばならんのだ。捨てられた女が静かに死んでいくだけでは、観客は泣きもしない。怒り、嘆き、呪い、それから死ぬ。それが悲劇というものだ」
テイトはアイルランド生まれの詩人だった。痩せた長身の男で、機知には富むが、話し出すと止まらない。数年前にシェイクスピアの《リア王》を書き換え、コーディーリアを生き残らせて大当たりを取っていた。
「リアの娘は死なせなかったのに、女王は怒り狂わせるのか」
パーセルが、水面を見ながら言った。
「あれは、別の話だ」
テイトは帽子を押さえた。
「それに、今度の劇は学校のお嬢さんたちも演じる。上品でなければならん。だが、上品すぎても退屈だ。その釣り合いが難しい」
ナサニエルは二人の会話を聞きながら、膝の上の書類鞄を押さえていた。中にはパーセルの低音の紙と、白紙の五線紙の束が入っている。
舟の後ろのほうで、船頭が鼻歌を歌い始めた。聞き覚えのない、軽快な節だった。何か、アイルランド訛りの妙な囃し言葉が混じっている。
テイトが、眉をひそめて振り返った。
「その歌は何だね」
船頭は、にやりと笑った。
「近頃、酒場で流行ってる歌でさ、旦那。アイルランドの新しい総督を笑う歌で。カトリックの旦那方の前じゃ、歌えませんがね」
テイトは何も言わず、前を向いた。パーセルも何も言わなかった。ナサニエルは、その節を頭の中で繰り返した。耳に残る、明るく、そして妙に意地の悪い旋律だった。
国王ジェームズ二世が即位して、二年と少し。春には、カトリックにもプロテスタントの非国教徒にも礼拝の自由を認めるという宣言が出た。聞こえはよかった。けれど宮廷の要職や軍の士官の席に、次々とカトリックの人間が座っていく。寺院の回廊でも、酒場の奥でも、人々はそのことを小声でしか話さなくなった。
声を落とす者が増えれば、耳を澄ます者も増える。
ナサニエルは鞄の留め金を指で確かめた。
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




