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第一章 地に横たえられた人  4

少し短めですがキリの良いところで。


 三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。


 この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか。

 その夜、奏は自分の部屋で、チェロをケースから出した。

 弾くつもりはなかった。ただ楽器に触れていないと、落ち着かなかった。

 譜面台に、自分用の《ディドとエネアス》の楽譜を立てる。第三幕の終わりのページ。低音のパートを、指でたどった。

 半音ずつ下る低音。そして終止へ向かって、再びソへ。

 五小節。

 学生時代、初めてこの曲の低音を弾いたとき、奏は最後の小節で、何度も入りを間違えた。四つ数えた体が、次の繰り返しが来ると思い込んでしまう。けれど低音はもう一小節、地面の下に留まり続ける。

 「気持ちが悪いだろう」

 あのとき、氷室は笑っていた。

 「人間の耳は、四つで区切りたがる。二つ、四つ、八つ。偶数で区切れば、体は安心する。でもパーセルは、この低音を五つにした。だから、歌はいつまでたっても低音の上に着地できない。歌い手が息を吸うたびに、足元の地面がずれていくんだ。ディドが死に向かっていくあいだ、ずっと」

 氷室はチェンバロで低音を弾きながら、その上に鼻歌で歌の旋律を重ねてみせた。歌の区切りと、低音の区切りが、決して揃わない。揃いそうになると、また離れていく。

 「繰り返しは、同じことの反復じゃない。十一回、同じ地面を歩かされる。そのたびに、上に立つものが少しずつ違う。だから、低音を見ていれば、何が変わったのかがわかる」

 そして、あの言葉。

 「全ては、パッサカリアが教えてくれる」

 あの日のゼミで、氷室は低音の話を終えると、今度は歌詞のページを開かせた。

 Remember me, but ah! forget my fate.

 「私を覚えていて。けれど、ああ、私の運命は忘れて」

 氷室は黒板にその一行を書き、黙っていた。

 「ウェルギリウスのディドはね、こんなことは言わないんだ。去っていくアエネアスとその子孫を呪い、自分の血から復讐者が生まれよと願って、剣の上に身を投げる。怒りの女王だよ。ところがテイトとパーセルのディドは、誰も呪わない。覚えていてほしい、でも、どう死んだかは忘れてほしい。これは、矛盾だろう?」

 学生の一人が、忘れてほしいのは恥だからではないか、と答えた。別の一人は相手を苦しめたくないからだ、と言った。氷室は、どちらにも頷かなかった。

 「答えは、楽譜の中にある。——まあ、それは来週までの宿題にしよう」

 結局、翌週のゼミは学会の都合で休講になり、その宿題の答えを、奏は聞きそびれたままだった。

 十年以上前の、他愛のない一幕だった。それが今、なぜか胸の奥から浮かび上がってくる。

 奏は弓を取り、低音の最初の音を鳴らした。

 ソ。

 部屋の空気が震え、沈んでいった。

 一回目。二回目。三回目。奏は数えながら弾いた。十回目の終わりで、弓を止めた。本来なら、そこから弦楽器だけの最後の一回が続き、終結の合唱へと移っていく。

 だが奏の頭の中では、あの一行が、低音と一緒に鳴り続けていた。

 全てはバッサカリアが教えてくれる。

 パ、ではなく、バ。

 先生は、なぜ間違えたのか。

 死にかけていたからか。手が震えて、半濁点の丸が、二つの点に崩れてしまったのか。

 奏は目を閉じて、あの字をもう一度思い浮かべた。震えてはいた。途切れてもいた。けれど濁点の二つの点は、はっきりと離れて打たれていた。丸が崩れたのではない。最初から、二つの点として書かれていた。

 もし、それが間違いでないのだとしたら。

 奏は弓を膝の上に置いた。窓の外で、風が欅の葉を揺らしていた。


◇


 同じころ、目白の氷室邸では、鑑識の作業が続いていた。

 書斎の窓際に置かれた机の前で、若い鑑識係員が、久我を呼んだ。

 「警部補。こちらのパソコンなんですが」

 久我は机の上のノートパソコンを覗き込んだ。画面は暗くなっていたが、キーボードの横で、電源ランプが緑色に灯っていた。

 「昨夜のうちに、一度スリープから復帰した形跡があります。それと、ログイン状態のままです」

 係員が、手袋をはめた指でトラックパッドに触れた。

 画面が明るくなった。

 開いていたのは、メールソフトだった。受信箱の一覧が表示され、画面の端に、送信済みフォルダの小さなアイコンが並んでいる。

 久我は画面を見つめていた。

 死ぬ直前の男が、鉛筆で楽譜に謎めいた一行を書き残し、その一方で、パソコンのメールソフトを開いていた。

 ——氷室慧は、死の直前に、誰かへ何かを送ろうとしたのか。

 それとも。

 久我は画面の光に照らされた、開いたままのチェンバロの蓋を振り返った。花の文様の上で、夜の影が揺れていた。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

次話もお楽しみにしていただけると嬉しいです。

感想やご指摘をいただけると、今後の励みになります。


(更新:毎日22時投稿予定)

隠岐群青

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