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第一章 地に横たえられた人  3

 三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。


 この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか。

 昼前、奏は目白署の小さな応接室に移された。紙コップの緑茶が、手の中ですっかりぬるくなっていた。

 ドアが開き、久我が戻ってきた。若い刑事を一人伴っている。二人は奏の向かいに腰を下ろした。

 「奥さんと連絡がつきました。新大阪から、いまこちらに向かっています」

 久我は短く告げた。

 「冴子さんは……」

 「動揺されていました。当然ですが」

 久我は机の上に手帳を置いた。

 「一つ、あなたにも聞いておきたいことがあります。奥さんの携帯に、昨夜、氷室さんからメールが届いていたそうです。送信時刻は、二十三時十分」

 奏は顔を上げた。

 「二十三時……」

 「英語の一文と、日本語の短い謝罪の言葉。それだけの文面です。奥さんは公演のあとの食事会で、気づいたのは深夜一時を過ぎてからだった。折り返しても出なかったので、もう寝たのだろうと思った、とおっしゃっています」

 「謝罪、ですか」

 「内容については、いずれ詳しく伺うことになると思います。いまは二十三時十分の時点で、氷室さんが自分の手でメールを送れる状態だったかもしれない、ということだけ覚えておいてください」

 久我はそれ以上は言わなかった。奏も、それ以上は聞けなかった。

 先生が、冴子さんに謝罪を。

 何を?

 「昨日の氷室さんの予定について、あなたが知っていることを教えてください。誰かと会う約束があったとか」

 奏は記憶をたぐった。

 「……先週、先生から聞いた話があります。いま、ある写本の鑑定を頼まれていて、それで少し気が重い、と」

 「写本」

 「《ディドとエネアス》の、古い楽譜の写本です。パーセルの自筆譜は、一枚も残っていないんです。いちばん古い総譜でも、パーセルが死んで半世紀以上たってから写されたもので。だから、もし十七世紀の、それもパーセルが生きていた時代の写本が見つかれば、とんでもない発見になります」

 若い刑事が、ペンを走らせる手を止めた。

 「その写本が、見つかったと?」

 「そう言われているものがあります。『チェルシー写本』と呼ばれていて。去年の暮れに、古楽譜を扱う商人が海外のオークションで手に入れた、という触れ込みでした。《ディドとエネアス》が十七世紀に上演された、チェルシーの学校に由来するものだと」

 「その商人の名前は」

 「篠原玲司さんです。神保町に店をお持ちです。先生のところにも、何度か出入りしていました」

 久我が、手帳の頁をめくった。

 「鑑定を頼んだのは、その篠原という人ですか」

 「いえ……依頼したのは、英国の財団だと聞いています。写本を買い取るかどうかを判断するために、第三者の意見がほしい、と。その財団の調査担当の方が、いま日本に来ていて——ルーシー・ブラントさんという、英国の地方の文書館の研究員の方です。先生とは、以前から学会で面識があったそうです」

 「なるほど」

 「それから……」

 奏は少しためらった。

 「チェルシー写本が本物だという論文を、今年の春に発表した先生がいます。東都藝大の高槻誠准教授です。氷室先生の、大学での後任にあたる方で。その論文で、高槻先生は、かなり有名になりました。テレビにも出ていましたし」

 「氷室さんは、その写本についてどう考えていたんです」

 「わかりません。先生は、はっきりしないうちは口にしない人でした。ただ、先週の電話で……」

 奏はあの電話を思い出した。

 ——早瀬くん、きれいすぎる楽譜というのはね、ときどき、何かを消した跡なんだよ。

 受話器の向こうで、氷室はそう言って、少し笑った。そして何事もなかったように、演奏会の段取りの話に戻った。

 「……先生は、『きれいすぎる楽譜は、何かを消した跡だ』と言っていました。何のことかは、聞きませんでした」

 久我はその言葉をそのまま書き取った。

 「奥さんの冴子さんは、その写本の件をご存じでしたか」

 「さあ……。冴子さんは歌手なので、写本の真贋そのものにはあまり関心がなかったと思います。ただ、もし本物なら、自分が歌うディドの楽譜が変わるかもしれない、と冗談めかして言っていたことはあります」

 「ご夫婦の仲は」

 奏は言葉に詰まった。

 冴子は氷室にとって二人目の妻だった。十二年前に結婚し、以来、氷室の演奏会ではほとんど必ずディドを歌ってきた。舞台の上の二人は、息の合った共演者に見えた。けれど舞台を下りた二人が、並んで笑っているところを、奏はあまり思い出せなかった。

 「……演奏家として、深く信頼し合っていたと思います」

 それが、奏の言える精一杯だった。

 久我はその答えの外側にあるものを見透かすように、奏を見ていた。そして、手帳を閉じた。

 「今日のところは、これで結構です。また連絡します。しばらく、東京を離れないでいただけると助かります」


◇


 午後三時過ぎ、目白署の廊下で、奏は冴子と行き会った。

 冴子は黒いコートの前をきつく合わせ、女性の警察官に付き添われて歩いてきた。舞台化粧を落とした素顔は、奏が知っているよりずっと小さく見えた。

 「奏くん」

 冴子は立ち止まった。目が赤く腫れていたが、声は震えていなかった。

 「あなたが、見つけてくれたのね」

 「冴子さん……」

 「ごめんなさい。こんな役目を」

 冴子は奏の腕に一瞬だけ手を置いた。その指先が、氷のように冷たかった。

 「あの人、ゆうべ、私にメールを送ってきたの。夜中に気づいて、電話したけど出なかった。いつものことだと思ったのよ。練習に夢中になると、電話なんか聞こえない人だから」

 冴子は自分に言い聞かせるように続けた。

 「すまない、って書いてあった。何に謝ってたのか、私にはわからない」

 付き添いの警察官が、そっと冴子を促した。冴子は頷き、奏から離れた。

 廊下の角を曲がる直前、冴子は一度だけ振り返った。

 「奏くん。十一月の演奏会、どうなるのかしらね」

 その問いに、奏は答えられなかった。


◇


 署を出たのは、日が傾き始めたころだった。

 正面玄関の前で、奏は二人の人物が警察官と話しているのに気づいた。

 一人は、ツイードのジャケットを着た五十代の男だった。痩せていて、銀縁の眼鏡の奥の目が落ち着きなく動いている。篠原玲司だ。奏は、氷室の書斎で何度か彼の顔を見たことがあった。

 もう一人は、濃い灰色のトレンチコートを着た金髪の女性だった。背が高く、髪を後ろで一つにまとめている。女性は流暢な日本語で、警察官に何かを説明していた。ルーシー・ブラントに違いなかった。

 篠原が、奏に気づいた。

 「早瀬さん……でしたね。氷室先生のお弟子さんの」

 篠原は慌てたように近づいてきた。

 「本当なんですか。先生が、その……」

 「……はい」

 「なんてことだ」

 篠原は額に手を当てた。

 「昨日の昼に、電話で話したばかりなんです。鑑定の結果がまとまったら、まず私に教えてくださると。それが……」

 篠原はそこで言葉を切った。自分が何を口走っているのかに気づいたような顔だった。

 「いえ、すみません。こんなときに、仕事の話など」

 ルーシーが、警察官との話を終えてこちらへ来た。

 「早瀬奏さんですね。ルーシー・ブラントです。氷室先生から、あなたのお名前を伺っていました。いちばん低音を理解している弟子だ、と」

 ルーシーは奏の手を取り、しっかりと握った。その手は温かかった。

 「お悔やみを申し上げます。先生はこの国でもイギリスでも、本当に大切な研究者でした」

 「ありがとうございます」

 「私、昨日の夕方に先生とお会いする予定だったんです。でも、先生から、今日はやめておこう、明日以降にしてほしい、と連絡があって。何か、ほかに急ぎの用事ができたようでした」

 「急ぎの用事、ですか」

 「ええ。どなたかと、先に話さなければならないことがある、と」

 ルーシーは眉を寄せた。

 「もしそのとき、お会いしていれば……」

 三人は言葉もなく、夕暮れの署の前に立っていた。遠くの線路を、山手線が通り過ぎていく音がした。規則正しい車輪の音が、奏にはなぜか、低音の繰り返しのように聞こえた。

 篠原とルーシーが警察官に呼ばれて署の中へ戻ったあと、奏は一人で歩道に出た。駅へ向かおうとして、足が動かなかった。

 目の前に、黒いタクシーが停まった。

 後部座席から降りてきたのは、紺のスーツを着た四十代の男だった。整えた髪に、薄い色の眼鏡。テレビで何度か見た顔だった。高槻誠。東都藝大で、師の研究室を継いだ人。

 高槻は奏に気づくと、まっすぐに歩み寄ってきた。

 「早瀬くんだね。大学に連絡があって、飛んできた。——見つけたのは、君だと聞いた」

 奏が頷くと、高槻は自分のマフラーを外し、何も言わずに奏の首に巻いた。そこで初めて、奏は自分が震えていることに気づいた。

 「今日は、もう何も考えなくていい」

 高槻は、停めたままのタクシーの運転手に紙幣を渡し、奏の住所を聞いて伝えた。

 「警察には、私から先生の研究のことを話しておく。君は帰って、眠りなさい。先生が一番信頼していた低音だ。今夜は、弾かなくていい」

 後部座席のドアが閉まる直前、高槻は、窓越しに頭を下げた。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

次話もお楽しみにしていただけると嬉しいです。

感想やご指摘をいただけると、今後の励みになります。


(更新:毎日22時投稿予定)

隠岐群青

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