第一章 地に横たえられた人 2
三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。
この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか。
救急隊員が死亡を確認し、所轄の目白署の警察官が到着するまでに、二十分とかからなかった。奏は廊下に出され、階段の踊り場に置かれた椅子に座らされた。制服の警察官が一人、奏の傍らに立っていた。見張られているのだと気づいたのは、少ししてからだった。
踊り場からは階段の下の台所が、半分だけ見えた。流しの横の水切りかごに、客用のカップが二つ、取っ手の向きを揃えて伏せてあった。奏はそれを見たが、何も思わなかった。
書斎の中から、低い声とカメラのシャッター音が聞こえてきた。何かを床に置く音が、ときおり混じった。
「第一発見者の方ですね」
声をかけてきたのは、濃紺のスーツを着た男だった。四十代半ばくらいだろうか。背は高くないが、肩幅が広く、髪を短く刈り込んでいる。首から下げた身分証には、警視庁の文字と、「久我慎一郎」という名前があった。
「捜査一課の久我です。お辛いところ申し訳ありませんが、少しお話を聞かせてください」
「捜査一課……」
奏は、その言葉の意味を理解するのに数秒かかった。
「事故では、ないんですか」
久我は答えず、手帳を開いた。
「亡くなった方は、氷室慧さん。お名前は、けい、とお読みするんですね」
「はい。よく、さとし、と間違えられていました」
「では、あなたのお名前と、ご職業、亡くなった方とのご関係を」
「早瀬奏です。チェロを弾いています。バロック・チェロです。氷室先生は大学時代の師で……いまも、演奏会でご一緒させていただいていました」
「今朝ここに来られたのは」
「八時に、合わせの約束をしていました。十一月の演奏会の。少し早く着いて、呼び鈴を押しても返事がなくて、門も玄関も開いていたので……」
久我は奏の言葉を一語ずつ書き取っていった。急かすことも、口を挟むこともしなかった。奏が玄関の鍵のこと、家の空気が冷たかったこと、書斎の扉が半分開いていたことを話すあいだ、久我はときおり頷くだけだった。
「ご遺体に触れましたか」
「肩と、首に。脈を……」
「そのほかに、部屋の物は」
「チェロのケースが、楽器の脚に当たりました。それだけです」
「楽器の脚に」
久我が顔を上げた。
「弦が一本、鳴りました。ほんの少しだけ」
久我は何かを書き足した。それから手帳を閉じ、声を落とした。
「早瀬さん。検視官の見立てでは、後頭部に強い打撲の痕が二つあります。一つは、チェンバロの角にぶつけたもの。もう一つは、それとは形も角度も違う。床にあった大理石の置物と、形状が一致する可能性が高い」
奏は膝の上で指を握りしめた。
「つまり、人が倒れて頭をぶつけただけでは、傷は一つしかできない、ということです」
「……殺された、ということですか」
「その可能性を前提に、捜査します」
久我の口調は平坦だったが、冷たくはなかった。事実を、事実の重さのまま置いていく話し方だった。
「亡くなったのは、昨夜の遅い時間だと思われます。詳しくは解剖を待たないとわかりませんが。昨夜、氷室さんと連絡を取りましたか」
「昨日の夕方、六時ごろに、メッセージを。明日よろしくお願いします、と送ったら、了解と一言だけ返ってきました」
「そのあとは」
「ありません」
久我はまた頷いた。
「奥さんは、ご存じですか。いま大阪におられるそうですね」
「冴子さんは……昨日と一昨日、大阪で公演でした。今日の午後に戻ると聞いていました」
「連絡は、こちらからします」
久我はそう言って、踊り場の窓の外に視線を向けた。私道の入り口に、青いビニールシートが張られ始めていた。
◇
一時間ほど経ってから、奏はもう一度書斎の入り口に呼ばれた。遺体はすでに運び出されていた。床には番号札がいくつも置かれ、白い手袋をはめた鑑識の係員たちが、ルーペを手に棚の一段一段を覗き込んでいる。
チェンバロの蓋は、閉じられていなかった。
「これについて、教えてほしいんです」
久我は奏を部屋の中には入れず、戸口から譜面台を指した。例の楽譜は開かれたページのまま、鑑識用の透明な袋に収められて、台の上に置かれていた。
「亡くなった方の手には、鉛筆が握られていました。この書き込みは、おそらく倒れたあとに書かれたものです。字が乱れている。本人の筆跡かどうかは確認中ですが」
奏は袋越しに、あの一行をもう一度見た。
全てはバッサカリアが教えてくれる。
「バッサカリア、というのは何ですか」
久我が尋ねた。
奏は喉の奥で何かがつかえるのを感じた。いまだ、と思った。先生はこんな字を書かない、と言うべきだった。だが、その言葉が口から出る前に、別の問いが頭をよぎった。——なぜ先生は、わざわざ間違えたのか。それを確かめないうちに口にしてしまえば、何かを取り落とす気がした。
「……パッサカリア、のことだと思います。パッサカリアは、バロック時代の音楽の形式です。低音が、同じ短い旋律を何度も何度も繰り返す。その上で、ほかの声部が変化していく。グラウンド・バスとも言います。地面の低音、という意味です」
「地面の」
「その楽譜の曲が、まさにそれなんです。パーセルの《ディドとエネアス》の、最後のアリア。女王ディドが、恋人に去られて、死ぬ前に歌う歌です。〈ディドの嘆き〉と呼ばれています」
久我は手帳を開きかけて、やめた。代わりに、奏の顔をじっと見た。
「続けてください」
奏は戸口の柱に手をついた。
「この曲の低音は、ト短調の主音、ソから始まって、半音ずつ下がっていきます。完全四度下のレまで、一段ずつ、ゆっくり下降する。それから終止の音型を経て、またソに戻る。それを何度も繰り返します」
声に出すと、不思議と呼吸が落ち着いてきた。何百回と弾いてきた低音だった。指が、勝手に弦の位置を思い出していた。
「その数字は」
久我が、楽譜の上の小さな「1」から「11」を指した。
「低音の繰り返しの回数です。この曲の低音は、全部で十一回繰り返されます。先生は、その一回ごとの頭に番号を振ったんだと思います」
「なぜ、わざわざ数える必要があるんです? 専門家なら、見ればわかるでしょう」
奏は答えられなかった。
確かにそうだった。氷室慧が、いまさらこの曲の低音の回数を数える必要などない。学生時代のゼミの最初の週、氷室はこの楽譜を配って言ったのだ。「低音は何回繰り返されるか。答えられるまで帰さない」
「……わかりません」
「わからない、ですか」
「はい。でも、先生はよく言っていました。『全てはパッサカリアが教えてくれる』。音楽の中で何かに迷ったら、低音に戻れ、と。繰り返されるものを見ていれば、何が変わったのかがわかる、と。私たち弟子にとっては、口癖というか、合言葉のようなものでした」
久我は少し間を置いてから言った。
「つまり、これは亡くなった方がふだんから言っていた言葉で、それを死ぬ間際に書き残した」
「……はい」
「普通に考えれば、この曲の低音に何か意味がある、ということになりますね」
「そう、だと思います」
久我は今度こそ手帳に何かを書きつけた。
奏は袋の中の楽譜から目を離せなかった。低音の五線に振られた「1」から「11」の数字。「11」だけ、ほかの数字より筆圧が弱く、かすれていた。
「刑事さん。このページを、写真に撮らせてもらえませんか。先生が低音で何を言いたかったのか、家で考えたいんです」
久我は少し考えてから、鑑識の係員に目で確認を取った。
「袋の上からなら。外には出さないでください。何か気づいたら、真っ先に私に」
奏はスマートフォンで一枚だけ撮った。画面の中で、「バ」の二つの点が、小さく光っていた。
そのことを、奏はまだ、誰にも言っていなかった。この部屋でそれを知っているのは、自分だけだった。
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




