↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/31

第一章 地に横たえられた人 1

 三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。


 この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか。

二〇二六年十月十五日 東京・目白


 目白の坂を上りきったところで、早瀬奏は師の家から音が聞こえないことに気づいた。

 駅前から階段坂を下り、崖の縁に沿った坂をチェロケースを背負ったまま上り返してきたせいで、まだ息が弾んでいた。目白は台地の縁の町で、駅を離れると、道はすぐに上ったり下ったりする。

 チェロケースの肩紐をかけ直す。いつもなら、この角まで来れば、朝の練習のチェンバロの音が塀越しに漏れてくるはずだった。

 十月の朝は、夏の名残をすっかり脱ぎ捨てていた。坂の両側に並ぶ屋敷の塀越しに、色づき始めた欅の葉が薄い光を受けて揺れている。時刻は七時四十分。約束の八時には少し早い。師はいつも六時には起きて調律を済ませ、朝の練習をしているはずだった。

 氷室慧の家は、坂の途中で細い私道に折れた先にある。昭和の終わりに建てられた洋館を、十数年前に氷室が買い取り、書斎の床を補強してチェンバロを二台置けるように改装した。門柱の表札には、墨で書かれた「氷室」の二文字だけがある。

 奏は呼び鈴を押した。

 返事はない。

 もう一度押して、待った。塀の内側で、雀が二羽、植え込みから飛び立った。

 先生はきっと、弾いているのだ。書斎で音を出していると、呼び鈴の音など耳に入らない人だった。奏は門扉を押した。鍵はかかっていない。玄関まで続く敷石を踏みながら、書斎の窓を見上げる。二階の東側、カーテンが半分だけ開いていた。

 音は、聞こえなかった。

 玄関の扉も、鍵がかかっていなかった。

 「先生、早瀬です。少し早く着いてしまって」

 声は廊下の奥に吸い込まれた。靴を脱ぎながら、奏は奇妙な寒さを感じた。家の空気が、動いていない。いつもならコーヒーの匂いか、チェンバロの弦に塗る油の匂いが、どこかから漂ってくるはずだった。

 今日は、十一月の演奏会に向けた最初の合わせの日だった。演目は、パーセルの《ディドとエネアス》から抜粋したもの。ディド役は氷室の妻の冴子で、通奏低音はチェンバロの氷室とチェロの奏。冴子が大阪から戻る前に、二人で低音の呼吸を合わせておこう、と師から言われていた。

 「嘆きの歌の低音はね、早瀬くん。歌の伴奏ではないんだよ。あれは、歌が立っている地面そのものだ」

 先週の電話で、氷室はそう言って笑っていた。

 階段を上がる。踏み板が一段ごとに乾いた音を立てた。書斎の扉は半分開いていて、その隙間から、朝の光が廊下に細長く伸びていた。

 「先生?」

 扉を押した。

 最初に目に入ったのは、チェンバロの蓋だった。フレミッシュ様式の二段鍵盤の楽器で、蓋の内側には淡い緑と金で花の文様が描かれている。氷室が「うちの長女」と呼んでいた一台だ。その蓋が、いつものように開いていた。

 次に、床に散らばった楽譜が見えた。

 そして楽器の脇に、人が倒れていた。

 灰色のカーディガンの背中。白髪の混じった後頭部。右腕はチェンバロの脚に向かって伸び、左手は胸の下に折り込まれている。顔は床の側を向いていて、奏の位置からは見えなかった。

 「先生」

 奏はチェロケースを下ろすのも忘れて駆け寄り、膝をついた。肩に触れた。カーディガンの毛糸の下で、肩は板のように硬く、冷えきっていた。首筋に指を当てても、何も伝わってこない。

 後頭部の髪が、黒く固まっていた。

 チェンバロの角、ケースの縁の木部に、赤黒い筋がこびりついている。そこから床板へ、何かが垂れて乾いた跡があった。少し離れた床の上に、大理石のブックエンドが一つ転がっていた。書棚の楽譜を支えていた、二つで一組のものだ。

 奏は立ち上がろうとして、よろめいた。ケースの角が楽器の脚に当たり、弦が一本だけ、かすかに鳴った。

 その一音が、奏を部屋の中に引き戻した。

 震える指でスマートフォンを取り出し、一一九を押す。救急です、人が倒れています、息をしていません、たぶん、もう——。自分が何を言っているのか、半分もわからなかった。住所を二度言い間違え、三度目にようやく正しく伝えた。オペレーターの落ち着いた声が、触らないでください、その場を離れないでください、と繰り返した。

 通話を終えてから、奏は初めて、譜面台に目を向けた。

 チェンバロの譜面台に、楽譜が一冊、開いたまま立てかけてあった。

 見覚えのある版だった。《ディドとエネアス》の現代の校訂譜を、氷室が自分で製本し直したもの。背の角が擦り切れ、表紙には「Dido」とだけ鉛筆で書いてある。右下に、小さく「K. Himuro」。譜面台の端には、角の丸くなった消しゴムが一つ置かれていた。開かれていたのは、第三幕の終わり、ディドの最後のアリアのページだった。

 When I am laid in earth.

 私が土の中に横たえられたとき。

 奏は息を呑んだ。

 ページには、鉛筆の書き込みがあった。低音の五線の上に、1から11までの鉛筆の番号。余白に、震える線の「全てはバッサカリアが教えてくれる」。

 はじめのほうの低音の音符の上には、鉛筆の芯が触れたような小さな黒い点が、いくつか散っていた。倒れるときに、鉛筆が紙をかすめたのだろう、と奏は思った。

 奏はその一行を三度読んだ。全ては、パッサカリアが教えてくれる。氷室慧が、弟子たちに何百回となく言ってきた言葉だった。

 だが、そこに書かれているのは「パ」ではなく、「バ」だった。

 先生は、字を間違えない人だった。

 けれど、それを口に出すことはできなかった。口に出せば、床の上の灰色のカーディガンの背中が、ほんとうに先生のものになってしまう。

 遠くで、サイレンの音が聞こえ始めた。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

次話もお楽しみにしていただけると嬉しいです。

感想やご指摘をいただけると、今後の励みになります。


(更新:毎日22時投稿予定)

隠岐群青

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。