第一章 地に横たえられた人 1
三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。
この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか。
二〇二六年十月十五日 東京・目白
目白の坂を上りきったところで、早瀬奏は師の家から音が聞こえないことに気づいた。
駅前から階段坂を下り、崖の縁に沿った坂をチェロケースを背負ったまま上り返してきたせいで、まだ息が弾んでいた。目白は台地の縁の町で、駅を離れると、道はすぐに上ったり下ったりする。
チェロケースの肩紐をかけ直す。いつもなら、この角まで来れば、朝の練習のチェンバロの音が塀越しに漏れてくるはずだった。
十月の朝は、夏の名残をすっかり脱ぎ捨てていた。坂の両側に並ぶ屋敷の塀越しに、色づき始めた欅の葉が薄い光を受けて揺れている。時刻は七時四十分。約束の八時には少し早い。師はいつも六時には起きて調律を済ませ、朝の練習をしているはずだった。
氷室慧の家は、坂の途中で細い私道に折れた先にある。昭和の終わりに建てられた洋館を、十数年前に氷室が買い取り、書斎の床を補強してチェンバロを二台置けるように改装した。門柱の表札には、墨で書かれた「氷室」の二文字だけがある。
奏は呼び鈴を押した。
返事はない。
もう一度押して、待った。塀の内側で、雀が二羽、植え込みから飛び立った。
先生はきっと、弾いているのだ。書斎で音を出していると、呼び鈴の音など耳に入らない人だった。奏は門扉を押した。鍵はかかっていない。玄関まで続く敷石を踏みながら、書斎の窓を見上げる。二階の東側、カーテンが半分だけ開いていた。
音は、聞こえなかった。
玄関の扉も、鍵がかかっていなかった。
「先生、早瀬です。少し早く着いてしまって」
声は廊下の奥に吸い込まれた。靴を脱ぎながら、奏は奇妙な寒さを感じた。家の空気が、動いていない。いつもならコーヒーの匂いか、チェンバロの弦に塗る油の匂いが、どこかから漂ってくるはずだった。
今日は、十一月の演奏会に向けた最初の合わせの日だった。演目は、パーセルの《ディドとエネアス》から抜粋したもの。ディド役は氷室の妻の冴子で、通奏低音はチェンバロの氷室とチェロの奏。冴子が大阪から戻る前に、二人で低音の呼吸を合わせておこう、と師から言われていた。
「嘆きの歌の低音はね、早瀬くん。歌の伴奏ではないんだよ。あれは、歌が立っている地面そのものだ」
先週の電話で、氷室はそう言って笑っていた。
階段を上がる。踏み板が一段ごとに乾いた音を立てた。書斎の扉は半分開いていて、その隙間から、朝の光が廊下に細長く伸びていた。
「先生?」
扉を押した。
最初に目に入ったのは、チェンバロの蓋だった。フレミッシュ様式の二段鍵盤の楽器で、蓋の内側には淡い緑と金で花の文様が描かれている。氷室が「うちの長女」と呼んでいた一台だ。その蓋が、いつものように開いていた。
次に、床に散らばった楽譜が見えた。
そして楽器の脇に、人が倒れていた。
灰色のカーディガンの背中。白髪の混じった後頭部。右腕はチェンバロの脚に向かって伸び、左手は胸の下に折り込まれている。顔は床の側を向いていて、奏の位置からは見えなかった。
「先生」
奏はチェロケースを下ろすのも忘れて駆け寄り、膝をついた。肩に触れた。カーディガンの毛糸の下で、肩は板のように硬く、冷えきっていた。首筋に指を当てても、何も伝わってこない。
後頭部の髪が、黒く固まっていた。
チェンバロの角、ケースの縁の木部に、赤黒い筋がこびりついている。そこから床板へ、何かが垂れて乾いた跡があった。少し離れた床の上に、大理石のブックエンドが一つ転がっていた。書棚の楽譜を支えていた、二つで一組のものだ。
奏は立ち上がろうとして、よろめいた。ケースの角が楽器の脚に当たり、弦が一本だけ、かすかに鳴った。
その一音が、奏を部屋の中に引き戻した。
震える指でスマートフォンを取り出し、一一九を押す。救急です、人が倒れています、息をしていません、たぶん、もう——。自分が何を言っているのか、半分もわからなかった。住所を二度言い間違え、三度目にようやく正しく伝えた。オペレーターの落ち着いた声が、触らないでください、その場を離れないでください、と繰り返した。
通話を終えてから、奏は初めて、譜面台に目を向けた。
チェンバロの譜面台に、楽譜が一冊、開いたまま立てかけてあった。
見覚えのある版だった。《ディドとエネアス》の現代の校訂譜を、氷室が自分で製本し直したもの。背の角が擦り切れ、表紙には「Dido」とだけ鉛筆で書いてある。右下に、小さく「K. Himuro」。譜面台の端には、角の丸くなった消しゴムが一つ置かれていた。開かれていたのは、第三幕の終わり、ディドの最後のアリアのページだった。
When I am laid in earth.
私が土の中に横たえられたとき。
奏は息を呑んだ。
ページには、鉛筆の書き込みがあった。低音の五線の上に、1から11までの鉛筆の番号。余白に、震える線の「全てはバッサカリアが教えてくれる」。
はじめのほうの低音の音符の上には、鉛筆の芯が触れたような小さな黒い点が、いくつか散っていた。倒れるときに、鉛筆が紙をかすめたのだろう、と奏は思った。
奏はその一行を三度読んだ。全ては、パッサカリアが教えてくれる。氷室慧が、弟子たちに何百回となく言ってきた言葉だった。
だが、そこに書かれているのは「パ」ではなく、「バ」だった。
先生は、字を間違えない人だった。
けれど、それを口に出すことはできなかった。口に出せば、床の上の灰色のカーディガンの背中が、ほんとうに先生のものになってしまう。
遠くで、サイレンの音が聞こえ始めた。
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




