序章 封蝋
初めまして。
ミステリーを主体に執筆しています。
文字数で110000文字になる予定です。
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三百年前に書かれた五小節の低音が、いまも同じ道を十一回歩く。上で誰が何を歌っても、地面は変わらない。だから、何かが変わったときには、低音を見ればわかる。
この物語は、その低音に隠された一つの名前をめぐって、十七世紀のロンドンと現代の東京を行き来します。密告された男と、殺された音楽学者。二つの時代で、同じ問いが繰り返されます。——覚えていることと、赦すこと。その二つのあいだで、人はどこで息をするのか。
一六九五年十二月 ウェストミンスター
封蝋を押す前に、写譜師はもう一度だけ、その頁を広げた。
窓から差し込む冬の朝の光が、オランダの紙の上に、斜めに落ちていた。女王の最後の歌。五線に並ぶ黒い音符の、いちばん下の段。同じ六つの音が、ゆっくりと半音ずつ下る形を、何度も繰り返している。
その低音の上に、小さな点が打たれていた。
一回に一つずつ。遠くから見れば、ペン先から散ったインクの染みにしか見えない。十個の点は、音符の黒に紛れて、ほとんど見分けがつかなかった。
最後の一回にだけ、何もなかった。
五つの小節が、黒くなめらかなまま、紙の上に横たわっている。
写譜師は、その五小節の上に、長いあいだ指を置いていた。
この一葉は、西の町の古い友人のもとへ送る。自分が生きているうちは、誰にも数えさせないでほしい、と頼んで。
点を読めば、一人の男の名前が出てくる。けれど、何もない五小節を読める者は、この世にいない。そこに何が書かれていないのかを知っているのは、自分だけだった。
写譜師は頁を折り、封筒に収め、熱い蝋を垂らした。
三百年後の秋、遠い東の国で、この点を数えた一人の老いた音楽学者が、殺されることになる。そのことを、写譜師はもちろん知らなかった。
窓の外で、朝の祈りを告げる鐘が鳴り始めた。
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




