第1話:名前のない朝
朝の光は、やさしかった。
窓から差し込むそれが、部屋の隅をゆっくりと満たしていく。
見慣れたはずの光景なのに、どこかだけが、いつも少し違う気がした。
――ここは、どこだっただろう。
そんなことを考えるのは、今日が初めてではない。
けれど、不思議と困ることはなかった。
生活に必要なことは、ちゃんと分かる。
火の起こし方も、水の汲み方も、簡単な料理の仕方も。
ただ、それを「いつ覚えたのか」だけが、ぽっかりと抜け落ちている。
「……まあ、いいか」
小さく呟いて、ベッドから降りる。
名前も、ない。
少なくとも、思い出せない。
呼ばれることもないから、特に困らないのだけれど。
――それでも。
ほんの少しだけ、胸の奥が静かに疼いた。
理由は、分からない。
分からないままでいいと、思っている。
だって――
ここでは、ちゃんと息ができるから。
外に出ると、朝の空気はまだ冷たかった。
小さな町。
石畳の道と、低い家々。
人の気配はあるのに、騒がしくはない。
「おはよう」
通りすがりの女性が、軽く手を上げた。
「……おはようございます」
自然に、言葉が返る。
そのことに、少しだけ驚いた。
知らない人のはずなのに、言葉はちゃんと出てくる。
けれど、その人の名前は――分からない。
「今日も手伝ってくれるの?」
「はい、できることがあれば」
「助かるわ。最近、人手が足りなくてね」
そう言って笑う女性の顔を見て、なぜか少しだけ安心した。
自分がここにいていい理由が、ちゃんとある気がしたから。
パン屋の裏口を開ける。
焼きたての匂いが、ふわりと広がった。
「じゃあ、水をお願いしてもいい?」
「分かりました」
頷いて、桶を持つ。
重さも、歩き方も、全部――迷いがない。
まるで、ずっと前からやっていたみたいに。
井戸までの道を歩きながら、ふと空を見上げた。
青い。
どこまでも、ただ青いだけの空。
――こんな空を、前にも見た気がする。
けれど、それ以上は思い出せない。
思い出そうとすると、胸の奥が、少しだけ痛む。
だから、やめた。
「……今は、これでいい」
ぽつりと、こぼれる。
桶に水を汲みながら、静かに息を吐いた。
名前はない。
過去もない。
それでも。
「……ここで、生きていけるなら」
それで、いいと思った。
そのときだった。
「あの、すみません」
振り返ると、小さな子どもが立っていた。
「お水、重くて……」
差し出された桶は、確かに大人でも少し重そうで。
考えるより先に、体が動く。
「持ちますよ」
「あ、ありがとう……!」
受け取った瞬間、自然と重さを分散させる持ち方をしていた。
――どうして、分かるんだろう。
自分でも分からない。
けれど。
「すごいね、お姉ちゃん」
無邪気な声に、少しだけ目を見開く。
「そんなふうに持てる人、あんまりいないよ」
「……そう、ですか?」
「うん! 前に見たことあるけど、すごく偉い人だった!」
その言葉に、胸の奥が、かすかに揺れた。
――偉い人。
自分が?
まさか、と首を振る。
「違いますよ。ただの、手伝いですから」
そう言って笑うと、子どもは嬉しそうに頷いた。
その顔を見て、思う。
――ああ。
こういうのが、いい。
誰かの役に立てて、
ありがとうと言われて、
それで終わる。
それだけで、十分だった。
それだけで――
なぜか、少しだけ、涙が出そうになるくらいには。
「……変なの」
小さく笑って、ごまかす。
理由なんて、知らなくていい。
知らなくても、ちゃんと生きていける。
ここでは。
――そう、思っていた。
まだ、自分が「何を失ってここにいるのか」を、知らないまま。




