第10話:新しい場所で
朝の光は、やわらかかった。
窓から差し込むそれが、部屋の中をゆっくりと満たしていく。
小さな部屋。
質素な家具。
けれど、不思議と居心地がいい。
「……ん」
ゆっくりと、目を開ける。
見慣れた天井。
知らないはずなのに、安心できる場所。
身体を起こす。
窓を開けると、涼しい風が頬を撫でた。
遠くで、子どもたちの笑い声が聞こえる。
パンを焼く匂い。
行き交う人々の気配。
どこにでもある、小さな町の朝。
それが、なぜか心地いい。
「……いい天気」
ぽつりと呟く。
誰に向けるでもない言葉。
それでも、自然に零れた。
着替えを済ませ、外に出る。
石畳の道。
朝の光に照らされた街並み。
顔見知りの人たちが、軽く手を振ってくる。
「あ、おはよう」
「今日も早いね」
返事をする。
名前を呼ばれることはない。
呼ばれたとしても、それが自分の名前なのかは、よくわからない。
けれど。
それで困ることはなかった。
ここでは、誰も強く求めない。
誰も押しつけない。
ただ、そこにいることを受け入れてくれる。
それだけで、十分だった。
店先に立つ。
並べられた小さな焼き菓子。
昨日、自分で作ったもの。
手に取る人がいて。
「美味しい」と笑ってくれる。
それが、嬉しいと思う。
理由は、わからない。
なぜそれが嬉しいのか。
なぜこんなにも満たされるのか。
思い出せる過去は、何もない。
名前も。
家族も。
どこから来たのかも。
何も、わからない。
それでも。
不思議と、不安はなかった。
空っぽのはずなのに。
どこかが、満たされている。
そんな感覚がある。
「……あれ?」
ふと、手が止まる。
焼き菓子を包みながら、違和感に気づく。
ほんの一瞬。
胸の奥が、わずかに揺れた。
何かを、思い出しそうになる。
けれど。
掴めない。
すぐに、消えてしまう。
「……気のせい、かな」
小さく首を振る。
深く考える必要はない。
ここでは、それでいい。
過去に意味はない。
思い出せなくても、困らない。
今が、ここにあるのだから。
それで、いい。
それで――
いいはずだった。
ふと。
店の前を、一人の客が通り過ぎる。
見慣れない服装。
どこか、疲れたような顔。
こちらを見ることもなく、そのまま通り過ぎていく。
ただ、それだけ。
何の関係もない。
はずなのに。
「……っ」
胸が、強く締め付けられた。
息が、一瞬止まる。
理由は、わからない。
わかるはずがない。
知らない人だ。
関係があるはずがない。
それでも。
どうしても、目が離せなかった。
遠ざかっていく背中。
振り返ることもなく、消えていく。
その姿を、ただ見つめる。
追いかける理由は、ない。
声をかける理由も、ない。
何ひとつ、ない。
それでも。
ほんの少しだけ。
ほんの一瞬だけ。
胸の奥が、痛んだ。
「……なんだろ」
小さく呟く。
答えは、出ない。
出るはずもない。
それでも。
その感覚は、すぐにやわらいでいく。
やがて、消えていく。
残るのは、いつもの穏やかな日常。
「――いらっしゃいませ」
次の客に、笑顔を向ける。
それが自然にできる。
それで、いいと思える。
ここには、役割がある。
ここには、居場所がある。
それだけで、十分だ。
過去は、もういらない。
名前も、いらない。
誰かに必要とされる理由も、いらない。
ただ。
ここにいていいと、思える場所。
それが、今はある。
だから。
それで、いい。
やわらかな風が、頬を撫でる。
遠くで、誰かの笑い声が響く。
穏やかな一日が、また始まる。
その中で。
ひとりの少女が、静かに笑った。
――今度こそ。
“いらない存在”じゃない場所で。




