第一話
梅雨が来て、海が灰色になった。六月の海は、波が低い。寄せては引くと表現するには素っ気なくて、水平線に向かって何度も同じ長さの皺を作り直しているだけのように見えた。雨の日はなおさらで、海と空の間の境界線が溶けて、世界の上半分がまるごと水蒸気に置き換わる。窓を開ければ磯の匂いの代わりに濡れた鉄の匂いがして、旧校舎三階の部室はその灰色の海の真ん中に錨を下ろした船の底みたいだった。
その船底でボクは脚本とにらめっこをしていた。
文化祭の朗読劇
「潮鳴りのわすれもの」
テーマ
「海の見える町の、言えない恋」
原稿用紙に換算して三十二枚のうち、書けているのは二十一枚。
止まっているのはラストの近く、主人公がついに言うはずの「あの一言」。
タイトルの「わすれもの」の正体だ。
言えない一言が書けない。
理由は単純だった。
自分が言えない言葉だからだ。
これを文章論で説明することはできる。主人公は一生分の勇気を一行に圧縮しなければならない。圧縮に失敗した告白は青臭くなり、読者は感想欄に「中学生でも、もっと言える」と書く。
だから、ここは机の中にしまってあるはずの言葉を出すしかない。
理屈は完璧だった。
ピアノのない家で育った人間にしか言えない理屈だという事実に気づいたのは、もう少し後になってからだった。
直前のシーンを読み直す。
ヒロイン
「…私、ひとつ忘れものをしてます」
主人公
「なんだ?」
ここまでは潮の匂いも波の音も指先が勝手に動く速度で出てきた。
問題はその次だ。
ヒロインの告白に対して、主人公が何を言うのか。
二時間書いて、消して、書いて、消して。
保存フォルダの「潮鳴り_ラスト_修正1」が修正12まで進んで、どれも一行目で終わっていた。
困ったことに、書けない自分を題材にするなら一冊書けるという自覚だけはあった。
それが一番の症状だと気づいたのは、それよりずっと後だった。
水萌に言わせると「バカ兄の顔、書けない時はずっと同じ顔」らしい。
紙に鼻をつけたまま消しゴムの汚れを数える顔を妹は「海で拾った空き缶」と表現する。言い得て妙すぎるので、その比喩だけは借りることにした。海で拾った空き缶が六月の間、ずっと書けないラストの隣に置いてあった。
夕飯を作りながらも、頭の中では主人公の台詞だけが回っていた。味噌汁の蓋を開ける手は覚えているのに、あの一言を書く手が覚えていない。
「バカ兄、今日の卵焼き、しょっぱい」
水萌がキレる。
「青春の味」
「青春ってしょっぱいの?」
ボクの言葉にわけの分からない質問で訊いてきた。
しょっぱいのかもしれないと思った。
少なくとも今のボクの青春は保存フォルダの修正12と同じで一行目で終わっている。
部室の扉が開いたのは放課後五時を少し回った頃だった。
「尺、何枚?」
星野部長は相変わらずだった。肩までの髪、右手の缶ミルクティー。喫煙所のないこの高校で星野部長は代わりに屋上で缶を開ける。それが何を代替しているのかについては、ボクの就業規則では「訊かない」ことになっている。
「二十一枚です」
「ラストは?」
「言えません」
「脚本家が言えませんは普遍的だね。文学賞の裸像って感じだ」
星野部長はボクの隣の椅子を蹴り倒すように座った。
「読めよ。あんたの脚本、今のところ潮の匂いだけして、潮が一滴も流れてない」
「書いてる途中ですから」
「わかってる。で、主人公が誰を好きなのか、あんたは本文より先に知ってる?」
「ヒロインです」
「あたしの質問、ずらした?」
「ずらしてない」
「ふーん」
星野部長はミルクティーを一口飲んだ。
「進んだね。三週間前のあんたは『主人公は設定であり、青春ではない』とか言ってた」
「言ってない」
「言った。あたしの記憶に残ってる。未来の文学賞作家の黒歴史として、卒業まで保管する予定」
「備品とかにしないで」
「むしろ文化祭で借り出してやりたい。『文芸部の脚本家の軌跡』ってパネルと一緒に」
「パネルはやめてくださいよ」
ボクは会話メモを開いて、使えそうな星野部長の言葉に印を付けた。
潮の匂いだけして潮が一滴も流れてない
今日の分はこれで確定だった。星野部長は自分の言葉が記録されることを知っていて、知っていて無表情で缶を見つめる。
「あのさ、台詞が書けないんじゃなくて、あんたが言えないだけなら、その台帳、いつまで続けるつもり?」
「台帳?」
「人の言葉ばかり集めて、自分の言葉が一行も書いてないやつ。あれ」
ボクはノートを閉じた。
閉じるのが早かった。
「だいたいねえ」
星野部長は缶を振って、中身の残りを確認した。
「あんたの脚本の主人公さ、ヒロインに何か言われたら、まず意味の解釈から入るじゃない。『おはよう』を言われて、『この挨拶は何を含意するのか』って三秒考えるタイプ。普通そこで『おはよう』って返すの」
「台詞に含意がなければ、返しの台詞も書けないので」
「青春を台帳でやるなよ」
星野部長は缶を潰して、ゴミ箱に放り込んだ。放り込んだ缶の音が部室に乾いた響きを立てた。
「秘密主義か。いいよ。ただ」
星野部長は立って扉のところで振り返った。
「あんたの脚本のヒロインはさ。まだ名前をもらってないんだよね。地の文では一歩も喋らないし、主人公からは『彼女』。舞台に立つ役者は名前のない役をやらされると泣くよ。ふだん泣かない子ほど」
言い残して、星野部長は廊下へ出て行った。缶の最後の一口を誰に見せるでもなく飲む音が廊下まで聞こえた。




