第三話
後で聞いたところによると、あの「役者として」がその日のうちに劇団中に伝わっていたらしい。研究生の誰かが「桜田くん、桃山さんと黒田くんを公認しちゃったってよ」と笑いながら流したのだという。
ボクは翌週、その話を黒田賢太郎本人から聞いて青くなった。
「おかげで桃山さん、一週間、灯台の稽古だけ完璧だった」
黒田賢太郎は意味不明のことを誇らしげに言った。
帰りのバス停は海沿いにあった。夕方のバスを待つ間、ボクと桃山さくらはベンチに並んで座った。海は夕方に向けて色を濃くしながら、緑青から深い青へ変わりかけていた。
バス停のプレート「汐見坂下」が潮風で小さく揺れていた。彼女は缶コーヒーを二本買ってきて、一本を失礼しますと言って差し出した。甘いやつがいいですかと訊かれて、ボクは甘いやつと答えた。
「…今日、来てくれて、ありがとうございました」
「脚本を書く人が稽古を見に来ること。それが条件でしたから」
「…うん。来てくれたね」
「演出助手って、具体的には何をすればいいの?」
「…わからないことは桜田くんに訊く。桜田くんがわからないことは私が調べる。それでいい?」
「それで務まるんですか?」
「…務まります。前回よりは」
「前回って、誰の前回ですか?」
彼女は答えず、カバンから一冊のパンフレットを取り出した。表紙に「汐鳴座研究生公演記録」とある。数年前のものらしく角が丸くなっていた。
「…これ、去年の。先輩たちの」
開いてみると、出演者の顔写真と横書きの活動報告が並んでいた。
研究生の人が初めて舞台に立った日の文章。
初めて客席の笑いをもらった日の文章。
最後のページはほとんど白かった。書く人がいなかったのだと思う。
「…昨年は脚本を書く人が足りなくて、台本が半分までしか仕上がらなかったんです。だから、公演も」
彼女は言葉を切って、海を見た。
「…だから、桜田くんみたいな人が来てくれて、嬉しい」
「はあ。ボクはまだ、誰の脚本も書き上げたことがないんですけど」
「…知ってます」
彼女は即答した。
呆れるように。
でも、おかしそうに。
パンフレットの最後の白いページを撫でて。
「…だから、楽しみにしてます。あ、そうだ」
彼女はそう言って、小指を立てた。
「…指切り」
その時、潮風が強く吹いて、彼女の髪の結び目が少しほどけた。彼女は慣れた手つきで髪を集め、ゴムを二度、三度、巻き直した。その仕草があまりに日常のものだったので、ボクは思わず言った。
「締め直しましたね」
「…ほどけるんです。走ると」
彼女はそう言って俯いた。
走って、どこに行くつもりだったのだろう。
ボクは後に、ずっと、その疑問を抱え続けることになる。
ボクは小指を見て、それから彼女を見て、誠実に答えた。
「締切ですか?」
彼女は無言で、指を引っ込めた。その顔が缶コーヒーの冷気に負けて、少しだけ下を向いた。バスが来て、扉が開いて、閉まった。次のバスまで二十分あると時刻表は言っていたのに、ボクたちの間には、それより長い沈黙が停まっていた。
バスの中で彼女はずっと窓側を見ていた。台本の余白に、何かを書き殴っているのが、チラリと見えた。覗こうとすると、台本ごと閉じた。
実は、お互いさまだった。
ボクは窓側の反対で膝の上にノートを開いて、会話メモを書いていたからだ。
桃山さくらの言葉を一字一句、写していた。ふと横に気配を感じて顔を上げると、彼女がこっちを見ていた。
「…なに、書いてるの?」
「メモです」
「…メモ。どんな?」
「聞いた言葉を忘れないようにするやつです」
「…誰の言葉を?」
「いろんな人のです」
彼女はそれ以上、訊かなかった。窓の外に視線を戻して、それから、自分の台本を少しだけ強く閉じた。その音がなぜか、後まで耳に残った。
演出助手というものが実際に何をするのかをボクはまだよく知らなかった。
知らないなりに想像していたのは「台本の書類を運ぶ人」程度だった。翌週の月曜、その想像はあっさり裏切られた。
放課後の部室、桃山さくらが一枚の紙を持ってやってきた。手書きのパンフレットのラフだった。B5のコピー用紙を横に折って、表紙と中面に鉛筆で枠を描き、配置まで決めてある。
出演者名簿の欄。
あらすじの欄。
スタッフの欄。
題名を入れる欄だけが白いまま開けてあった。
「あるんですか、こんなの?」
「…劇団だとパンフレットって稽古と同時進行なんです。遅いと刷る前に間に合わなくなるから。だから、表紙は先に決めます」
「表紙はって、まだ題名が」
「…知ってます。だから空白。題名欄の空白は、来場者がもっとも気にするところですから」
言われてみると、確かにだった。ボクはその白い欄を見つめた。自分の書く言葉が、いちばん大きな枠に入る。今のところ、そこには何もない。
「あらすじの欄には何を書くんですか?」
「まだ書けないですよね、この人」
傍観を決め込んでいた星野部長がミルクティーのストローを指さした。
「早く題名を決めなよ。白紙のままじゃ、未来が見えないわよ」
「題名は書き終わってから決める主義です」
「それ、小説のやり方ね。劇はね、題名から刷るの。印刷所は待ってくれないのよ、桜田さん」
待ってくれない。その言葉が妙に胸に残った。紙は書き手の都合より、刷る日付のほうを先に歩く。それが劇という形式なのだとボクはその時、初めて少しだけ感じた。
桃山さくらはその後も部室の隅でラフに鉛筆を入れ続けていた。
読者席の配置。
照明の大きさ。
上演時間の目安。
時々、ボクの方を見て、何かを測るような目で。何を測っていたのかは、まだ、わからない。
その週の水曜、ボクは書き溜めていた小説の習作を初めて他人に見せた。小説ではなく、台本の形に直したものを。言いそびれた青年が、夕方のバス停で他人の傘を拾うだけの場面だ。
三ページ。
桃山さくらは窓際の自分の席で、それを音読した。
小声で、一人で。
そして、一行だけ赤を入れて返してきた。
【脚本 桜田孝介 初稿】
作者注 ※部分は演出助手のコメント
青年 「これ、君の?」
ここ、笑うところ?
それとも、怒るところ?
※青年はもっと待ってから言う。傘は持たせない。持たない方がずっと若い。
「傘は持たせない?」
「持たない方が言い訳の余地が残るんです。脚本って、書かないことを書く技術なので」
言いながら彼女は赤ペンのキャップを、パカパカと鳴らしていた。こっちが書いた三ページを三分で、十年やってきた人みたいに扱う。悔しいはずなのに、腹は立たなかった。なぜ立たないのかだけがわからなかった。
「演出助手って、ここまでやるんですか?」
「…劇団だと、もっとやります。脚本の行間を読んで、怪我を先に見つけるのが私の仕事なはずなので」
「行間に、怪我?」
「…ありますよ。台詞と台詞の間って、たいてい、怪我してるんです」
意味がわからなかった。わからなかったので、ボクはボクの答えを出した。
「勉強になります」
それだけ言って、赤ペンを借りた。気づいた時には、自分のノートに「書かないことを書く技術」と、一字一句、書き写していた。
その夜、ボクは机の上で脚本のノートを開いた。題名欄は、まだ白いままだった。
「海の見える町の、言えない恋」
五日ほど悩んで、書いたのはその一行だった。
海の見える町の言えない恋。黄昏色の商店街と、潮の匂いのする校舎と、言いそびれた一言をひとつだけ持つ青年の物語。書き出しの一文はすっと出てきた。
出てきた一文を読み返して、ボクは少しだけ、変な気がした。
ヒロインの名前はまだ決めていない。なのに、彼女の立ち位置が勝手に目に浮かんだ。背は中くらいで、髪を肩の下でひとつに結んでいて、走るとほどける。夕方のバス停で、缶コーヒーの滴を指で拭いながら、膝の上に台本を折り曲げて抱える。
当たり前だ。
たった今、その姿を隣で見てきたばかりなのだから。
そういうことだろうとボクは結論づけた。観察眼があると人に言われるのはこういうことだ。見たものをそのまま書ける。それだけのことだ。
最後に、ノートの最後のページを開いて、会話メモを書いた。
脚本のテーマはその週のうちに星野部長に報告した。
『海の見える町の、言えない恋』
【部室ノート 五月末】
文化祭 朗読劇 テーマ決定
「海の見える町の、言えない恋」
脚本 桜田孝介
演出助手 桃山さくら
※ヒロインのモデルは?
星野部長本人が消している。消し跡が読める。
消し跡が読めるというのが、星野部長の字の特徴だった。人は消した言葉の方が、残るのだ。
ボクはノートを閉じて、薄気味悪いくらい素直に思った。
この脚本は絶対うまく書ける。




