第二話
土曜の朝、ボクは海沿いのバスに揺られて公民館まで向かった。
五月の海は正直、間が持たない。夏ほど派手ではないし、冬のように物静かでもない。若葉を映した明るい緑青の色をしていて、太陽が差す度に海面が黄緑から青緑へと何度も塗り替わる。
その塗り替わりがバスの進行方向と逆に走って、窓の外を若葉の穂先が大量に流れていくみたいに見えた。
潮風が正面から来て、バスの中の匂いまで少しだけ塩っぱくなる。県道沿いの家々の軒先には昨年の帰り道にはなかった新緑が垂れ下がっていて、海の緑青と同じ色をしていた。
世界が半分ぐらい緑だった。残りの半分はまだ書いていない脚本の色をしていた。
公民館のホールは土曜の午前、劇団『汐鳴座』に貸し切られていた。中学生とおぼしき子供から六十がらみのおじさんまで十数人が雑然と、だけど妙に静かに動いていた。上履きのまま土足で上がれるホールで団員たちは思い思いの場所に広がり、ストレッチをし、台本を持ち、声を出していた。
桃山さくらは、そこにいた。
教室にいる『隣の席の人』とは別人だった。
最初に見えたのは伸びた背筋だった。
それから、通る声だった。
発声の練習を始めた時、ホールの一番後ろの壁に、彼女の「ローグ、ローグ」という音がちゃんと届いて返ってくるのが聞こえた。
同じ「ロ」を隣に立つ大人の団員より明らかに遠くまで飛ばしていた。
発声の後はストレッチだった。団員たちは年齢の順もなく床に寝転がり、六十年生きてきた身体と十四年生きてきた身体が同じ骨董品みたいな音を立てる。あちこちからうめき声がする。
入団費は月三千円らしい。
その価値は体の柔らかさに出るのかもしれない。そういう見知らぬ世界に、ボクは部室の椅子を借りてきた猫のように、少し緊張しながら座っていた。
走り稽古が始まると、彼女の歩き方が変わった。舞台の上を他人の家の玄関を借りて通るような所作で歩き、止まる。肘から先の動きまで、すべてに理由があった。
台本を開く手の角度。
相手の目を見る順番。
台詞を言い終わってから残る間。
教室で消しゴムを三回落とす人と同一人物のようには見えなかった。
ボクは備え付けのパイプ椅子を借りてホールの端に座り、純粋に感動していた。
「すごい。プロみたいだ」
思った通りに呟いたら、近くにいた団員が研究生ですよと苦笑した。
プロと研究生の違いがボクにはまだわからなかった。少なくともこの距離で見る彼女は、ボクの知っているどの教科書より真面目に文章を読んでいた。
休憩の後、台本読みが始まった。
それが悲劇の始まりだった。
「あ、桜田くん、いたよね。こっちの椅子」
人数合わせで、読み上げ係に指名された。今度の公演に向けた新しい台本を輪読するらしい。
ボクに回ってきた役は「青年」
【台本/汐鳴座五月公演『灯台守の手紙』より】
「いや、ほんとに、待ってほしいんだ。もう少しだけ。灯台の明かりはね、船のためじゃなくて、帰る場所を忘れないためのものなんだ」
ボクは読んだ。
読めた。
文字は読める。
「あの、その、だから。待つ、と。いうか、僕は、待ってる、けど。灯台の、あれは、明かりが、あるので」
輪が止まった。
ホールの空気が冷蔵庫の中みたいになった。
誰かが咳をした。
客席用のホールで咳があんなに大きく響くものなのかと、ボクは初めて知った。向かいの黒田賢太郎という高学年の研究生が台本の上で笑いをこらえているのが見えた。子供団員のひとりが、隣のおばさんに「あの人、なに?」と囁くのが聞こえた。
「読み手さんらしいよ」
おばさんはそう答えていた。
輪のあちこちで、それぞれの反応が起きていた。子供団員はクスクス笑いをし、おばさん団員はあらあらと口元を覆い、奥の壁際では最高齢のおじさんが、誰にともなく「大事なのは、心の目ね」と説き始めていた。
二十秒の間に、劇団はわずかな惨事とほんのりした親近感に包まれた。
ボクの隣の席に桃山さくらが割り込んできた。彼女は女の台詞を持ち替えた。
「甘いわね、あなた。灯台の明かりが誰のものかなんて、最初から決まってるじゃない」
声が輪の中心に落ちてきた。
台本の上では青年と女は照れ合う間に入る。彼女の声は、その「間」を自前で用意して、ボクの棒読みを上から、綺麗に包み込んだ。ホールの空気が温かいものに塗り替わった。黒田賢太郎が即座に相手役に戻り、輪読が何事もなかったかのように進み始めた。
ボクはやっぱり、プロだなと思った。
あの間の取り方は明らかに職業的な何かだった。
羨ましかった。そして、こういう人の隣で脚本を書くことになった自分は案外ついているのかもしれないと素直に思った。
その方が楽だった。
「…桜田くん」
休憩に戻るタイミングで彼女がボクの隣で小声で言った。
「はい」
ボクは彼女の方へと顔を向ける。
「…息、足りてないです。台詞を中途半端なところで切らないで。最後まで届けて」
「直します。勉強になります」
「…うん。来てよかったでしょ」
彼女は米菓の袋を開けて、一枚、ボクに差し出した。海苔の味がした。演技の指導の後に、米菓。全体のバランスがよくわからなかった。
その米菓の袋をくれたのが桃山さくらだと後で知ったのだけれど、袋の主は黒田賢太郎だった。
「お疲れさま。桜田くん、だったよね。初めまして、黒田賢太郎です」
ボクの隣に、米菓の袋を持ったまま、背の高い人が立っていた。髪を少しだけ撫で上げていて、通りですれ違っても振り返るような、そういう外見だった。しかも声が良い。劇団に来ると、みんな声が良くて、正直、困る。
「桃山さんとはよく組むんですか?」
「ああ、研究生の中では互いにいちばん若いから稽古で組むことが多い」
「組むって台詞の相手を?」
「台詞を覚えるには相手が必要だからね。昔から台詞合わせが多いんだ。で、桜田くんは脚本?」
「朗読劇のです。まだ一行も書いてませんけど」
「ほお」
黒田賢太郎はボクの顔を値踏みみたいに少しの間、ボクを見た。
「書く人と演じる人はね、どっちが先に相手を知ったかで、芝居が変わる。今日、来たってことは、まあ、いい。じゃあ、見てて」
黒田賢太郎は稽古再開の鐘が鳴ると、桃山さくらと並んで場面練習の場所へ行った。二人はよく組むせいか、立ち位置の間合いが最初から整っていた。手を伸ばせば届く距離で、同じ呼吸で台詞を交換する。絵になるというやつだった。ポスターになるというやつだった。
「お二人、似合いますね」
ボクは純粋に感想を言った。
近くで見ていた団員の誰かがくすっと笑った気がした。黒田賢太郎はありがとうと恩着せがらずに笑った。
だけど、練習場の真ん中にいた桃山さくらだけが次の台詞を出すまでに、ひと呼吸余計にかかった。彼女の視線がボクの顔を掠めて床に落ちた。
「…桜田くん」
休憩に戻るタイミングで、彼女はボクの隣に来て、いつもより半音下の声で言った。
「はい」
「…さっきの」
「はい」
「…似合うって?」
「ああ、すみません。あれは役者としてです。演技の完成度の話で」
慌てて言い直した。
事実だ。
台詞の運び。
間合い。
二人の舞台距離。
そこに他の何かが入る余地はないという話だった。
演技の話以外の何物でもなかった。
桃山さくらは何も言わなかった。手の中の台本を斜めに、ギュっと持つだけ持って、去っていった。




