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潮霧高校物語  作者: 杉山薫
六月
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第二話

 翌日の放課後は図書室の当番だった。雨は昼過ぎから本気を出して、高い窓をたたき続けている。返却本のカートを押して窓際に戻ると、指定席に水筒と文庫本を広げた桃山さくらがいた。返却本の整理を終えて戻ると、彼女はページをめくったまま動かなくなっていた。


最初は本に集中しているのだと思った。桃山さくらは劇団の研究生で休む暇も惜しんで台本と現代文と英語を読み込んでいるはずだ。

でも、十分経ってもページが変わらず、その次の十分でもページが変わらなかった。傾いた頭の角度が三度か四度、沈んでいる。


居眠りだとわかった。


起こすべきか、起こさないべきか。ボクは計算した。起こせば彼女はきっと「すみません」と誰に対するものでもない謝罪を完璧な発声でやる。そのためには今の睡眠を中断するコストがかかる。

結論、見守るのが最善だった。


ボクは音を立てないように、雨の来る方の窓を閉めた。

図書室の窓は古くて、閉めると雨音の質感が変わる。

バケツに打ち付ける音から、敷物の下に沈む音へ。

その音の変化で彼女のまつ毛が一度だけ動いた。眠っている人のまつ毛はあんな動き方をしないという知識がボクの頭の片隅を通過して、そのまま帰ってこなかった。


彼女の右手は文庫本のページを押さえたままで、左手は机の上で、何かを握る練習をするみたいに、開いて閉じて、開いて閉じていた。返却カートの車輪が一本だけ鳴って、彼女の肩が小さく跳ねた。

起きている人の肩はあんな跳ね方をしないという知識が今度も頭の片隅を通過して、帰ってこなかった。

ボクはそれを「雨の音への反射」と記録した。記録する仕事は正確であればあるほど、間違える。


 チャイムが鳴る直前、彼女は目を開けた。


「すいません、起こさず」


ボクの言葉が終わるより先に、彼女は首を横に振った。


「…寝てないです」


「え?」


「…深く、考え事をしてたの」


「そう、なんですか?」


「…そうなの」


耳の先が赤かった。閉められた窓の分、図書室は暑かった。六月の湿度と毛布みたいな図書室の空気のせいだと思うことにした。彼女は文庫本を閉じて、水筒の蓋を開けずに閉めた。


「今日、委員会に行ってくるって言ってたでしょ。どうでした?」


「…あ、うん。取れました。一枠」


「朗読劇の?」


「…朗読劇の。三番目。いい枠だったと思う」


三番目がいい枠かどうかはボクは知らない。桃山さくらはそれ以上の説明をしなかった。

窓の外で、低い波が一度だけ白く折れて、消えた。


 翌々日の昼休み、教室が少しだけ騒がしくなった。


桃山さくらが席を立って、行ってきますとだけ言って出て行ったのだ。

どこへ行くのかなんて、ボクは知らなかった。委員会室のある特別棟の方へと小さくなって歩いていく姿を窓から見た。二十分後、彼女は戻ってきて、ボクの机に一枚の用紙を置いた。


「取れました」


用紙は「文化祭企画申請書」で、ステージの欄に「十月十八日(土) 三番目 文芸部朗読劇」と実行委員長の印が押されていた。


「えっ。一枠、もらえたんですか?」


「…もらいました」


「どうやって?」


「…お願いしただけ」


教室がざわめいた。前の席の男子が「劇、やるんだ。演劇部、復活すんの?」と訊いた。

桃山さくらは振り返って、教室の後列まで届く発声で言った。


「演劇部ではありません。文芸部の朗読劇です」


それだけで、男子は姿勢を正した。研究生というのは、あれでいいのだろうか。先生の「着席」以来、ボクが知る唯一の物理的効果だった。


「申請書、最後の欄は空欄でしたか?」


放課後、ボクが訊くと桃山さくらは少し迷ってから言った。


「…『今回は劇団の協力は得られない見込み』って書きました。正確な情報だと思って」


「劇団は協力してくれないんですか?」


「…忙しいの。研究生が学校の行事にかかりきりになるのは本望じゃない人もいて」


彼女の声はそこで一度だけ、平らになった。海が凪いでいる時、沖の方で変わる色みたいに。ボクはその色の名前を知らない。知らないまま、書類を受け取った。


 放課後、部室で星野部長が補足資料を出してきた。


「委員長から聞いたよ。あんた、委員会室に入るなり最前列に立って、腹式で一分間『お願いします』を唱和したらしいじゃない」


「発声練習を兼ねました」


「委員長の証言だと『断る空気を出したら、全部持っていかれる気がした』だって。あんた、無伴奏であれをやるんだから、槍持ってるのと同じだよ」


「そうでしたか」


「なに、その台帳。さっきから人の名言ばかり取って」


「部長の言葉は取っておく価値が高いので」


「あたしの名言集が文芸部の備品になるのだけは廃部より先に阻止したいんだけど」


桃山さくらは小さく首をかしげた。自分の武器の大きさを本人が把握していないタイプだ。把握しているのは部長で、星野部長はミルクティーを飲みながら、こちらに振ってきた。


「で、脚本はいつ完成するの。脚本家?」


振られた側の問題がいつの間にかボクに戻ってくる。部室の空気はサイクルが良い。


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