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潮霧高校物語  作者: 杉山薫
六月
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11/51

第三話

 その翌日の放課後、部室に会話メモを忘れたことに気づいて、ボクは旧校舎へ戻った。


渡り廊下の突き当たり、三階の踊り場で、二人の話し声が聞こえた。


桃山さくらともう一人。


聞いたことのない。

よく通る。

丸い声。


「で、告白は?」


「してないよ」


「じゃあ何さ、その顔は?」


「気候のせい」


「梅雨のせいにできる顔じゃないでしょ。さくら、告白しなよ」


しばらく、雨の音だけがした。ボクは消火器ケースの前で消防訓練の心得がある人みたいに直立していた。


「私ね、みつき。告白する役をやりすぎたの。研究生になってから数えてないけど、告白の役、いくつもやった。どれも上手くできた。拍手ももらった。私、告白する役をやりすぎて、本物のやり方がわからないの」


「は? 何それ、最強の悩みなんだけど」


「最強じゃない。一番弱い悩みだよ」


桃山さくらがふっと顔を上げた。


「誰かいるの?」


ボクは消火器ケースの陰に、高校生活で一番静かになる動きで隠れた。

数秒の沈黙の後、丸い声の主が言った。


「風でしょ。梅雨だし」


「そうだね」


足音が二組、階段の方へ遠ざかった。


ボクはその場でしばらく動けなかった。


役作りの相談だ。劇団の研究生は日常的にこういう話をするのだ。若い役者は自分の役と自分を重ねて苦しんだりする。ボクは書く側の人間だから、それは知っている。


知っている。


知っているのだが、踊り場の空気は役作りの相談の空気より、ずっと濃かった。


会話メモはポケットの中にあった。取り出すのは簡単だった。


本物のやり方がわからない


その一行は間違いなくボクの小説を強くする。

取るか、取らないか。

ボクは二分考えた。

答えは出なかった。ノートはページを開いたまま、ポケットに戻された。


 翌日の昼休み、教室の扉がノックもなしに開いた。


「桃山さくらの友達、海原みつき! 本日初出勤!」


入ってきたのは、腰まである髪を高い位置で結んだ、声の大きさに見合う元気のある女子だった。

海原みつきは真っ直ぐボクの机の前に来て、握手を求めてきた。


「桜田くんだね。この間の台本読み、劇団で評判だったらしいよ。棒読みでね」


「棒読みって付くのか。評判に」


「付けたの。私」


「ごめん」


桃山さくらが苦笑いをした。


「…この子、うちの劇団の同期なの。学校では隣のクラス」


「兼業、応援団! のつもりが台本が面白くて」


海原みつきは笑った。


「桜田くんの書く台本、もっと読みたいな。今度、完成原稿貸してよ」


「あ、ちなみにさっき、職員室の前で先生に会ったんだけど、先生がね、『朗読劇というのは源氏物語と同じで、声に名前をつけてもらえんと存在できないんだ』って言ってた。意味、わかる? 私はわかんない」


「鯨友先生ですか。いつもの比喩です」


「でも、あれ。名前って訊いておいた方がいいと思うの」


桃山さくらが小声で言う。


「うん?」


「物語の中での人の」


海原みつきは首を傾げて、桃山さくらを見て、ボクを見て、また桃山さくらを見る。


「なーんか空気が読めない会話だ」


苦笑した。

読めているくせに、わざと読み違える人の特技をボクはその時、初めて見た。


「あ、そうそう。本題ね」


海原みつきはこちらに向き直った。


「さくらの分の後片付けをしておこうと思って。あの子ね、人前での役と本物の役を分けてるだけ。営業用の笑顔ってあるでしょ。あれの台詞版っていうか」


「ボクの棒読みも営業用だと思うんですけど」


「それは違うと思う」


海原みつきは言い残して、笑って教室を出て行った。


 金曜日の部室で星野部長が決めた。


「通し稽古。朗読劇なんだから、立って読む練習くらいしなさい。土曜の放課後、ここで」


「部長は?」


「私は席を外す。あたしが聞くと全部台詞を覚えちゃって、百パーセントの役者がいないステージを聞くのがつらくなるから」


「部長こそ役者になったら」


「あたしは読む側にプロを置く主義なの。ほら、さくら、やる?」


二人の顔が同じ方向のボクに向いた。ボクは桃山さくらの顔を見た。


「告白の場面の朗読稽古に付き合ってほしいんです」


桃山さくらの台詞が一瞬出なかった。机の縁に置いた指先が白くなるのが見えた。息継ぎの位置が一度、ずれた。

何かを呑み込む動作は後ろの先輩のミルクティーを飲む音と混ざって、区別がつかなかった。


「…やります」


彼女の声はいつもの通り完璧な発声だった。それなのに、なぜかボクの耳にはちゃんと聞こえなかった。

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