第三話
その翌日の放課後、部室に会話メモを忘れたことに気づいて、ボクは旧校舎へ戻った。
渡り廊下の突き当たり、三階の踊り場で、二人の話し声が聞こえた。
桃山さくらともう一人。
聞いたことのない。
よく通る。
丸い声。
「で、告白は?」
「してないよ」
「じゃあ何さ、その顔は?」
「気候のせい」
「梅雨のせいにできる顔じゃないでしょ。さくら、告白しなよ」
しばらく、雨の音だけがした。ボクは消火器ケースの前で消防訓練の心得がある人みたいに直立していた。
「私ね、みつき。告白する役をやりすぎたの。研究生になってから数えてないけど、告白の役、いくつもやった。どれも上手くできた。拍手ももらった。私、告白する役をやりすぎて、本物のやり方がわからないの」
「は? 何それ、最強の悩みなんだけど」
「最強じゃない。一番弱い悩みだよ」
桃山さくらがふっと顔を上げた。
「誰かいるの?」
ボクは消火器ケースの陰に、高校生活で一番静かになる動きで隠れた。
数秒の沈黙の後、丸い声の主が言った。
「風でしょ。梅雨だし」
「そうだね」
足音が二組、階段の方へ遠ざかった。
ボクはその場でしばらく動けなかった。
役作りの相談だ。劇団の研究生は日常的にこういう話をするのだ。若い役者は自分の役と自分を重ねて苦しんだりする。ボクは書く側の人間だから、それは知っている。
知っている。
知っているのだが、踊り場の空気は役作りの相談の空気より、ずっと濃かった。
会話メモはポケットの中にあった。取り出すのは簡単だった。
本物のやり方がわからない
その一行は間違いなくボクの小説を強くする。
取るか、取らないか。
ボクは二分考えた。
答えは出なかった。ノートはページを開いたまま、ポケットに戻された。
翌日の昼休み、教室の扉がノックもなしに開いた。
「桃山さくらの友達、海原みつき! 本日初出勤!」
入ってきたのは、腰まである髪を高い位置で結んだ、声の大きさに見合う元気のある女子だった。
海原みつきは真っ直ぐボクの机の前に来て、握手を求めてきた。
「桜田くんだね。この間の台本読み、劇団で評判だったらしいよ。棒読みでね」
「棒読みって付くのか。評判に」
「付けたの。私」
「ごめん」
桃山さくらが苦笑いをした。
「…この子、うちの劇団の同期なの。学校では隣のクラス」
「兼業、応援団! のつもりが台本が面白くて」
海原みつきは笑った。
「桜田くんの書く台本、もっと読みたいな。今度、完成原稿貸してよ」
「あ、ちなみにさっき、職員室の前で先生に会ったんだけど、先生がね、『朗読劇というのは源氏物語と同じで、声に名前をつけてもらえんと存在できないんだ』って言ってた。意味、わかる? 私はわかんない」
「鯨友先生ですか。いつもの比喩です」
「でも、あれ。名前って訊いておいた方がいいと思うの」
桃山さくらが小声で言う。
「うん?」
「物語の中での人の」
海原みつきは首を傾げて、桃山さくらを見て、ボクを見て、また桃山さくらを見る。
「なーんか空気が読めない会話だ」
苦笑した。
読めているくせに、わざと読み違える人の特技をボクはその時、初めて見た。
「あ、そうそう。本題ね」
海原みつきはこちらに向き直った。
「さくらの分の後片付けをしておこうと思って。あの子ね、人前での役と本物の役を分けてるだけ。営業用の笑顔ってあるでしょ。あれの台詞版っていうか」
「ボクの棒読みも営業用だと思うんですけど」
「それは違うと思う」
海原みつきは言い残して、笑って教室を出て行った。
金曜日の部室で星野部長が決めた。
「通し稽古。朗読劇なんだから、立って読む練習くらいしなさい。土曜の放課後、ここで」
「部長は?」
「私は席を外す。あたしが聞くと全部台詞を覚えちゃって、百パーセントの役者がいないステージを聞くのがつらくなるから」
「部長こそ役者になったら」
「あたしは読む側にプロを置く主義なの。ほら、さくら、やる?」
二人の顔が同じ方向のボクに向いた。ボクは桃山さくらの顔を見た。
「告白の場面の朗読稽古に付き合ってほしいんです」
桃山さくらの台詞が一瞬出なかった。机の縁に置いた指先が白くなるのが見えた。息継ぎの位置が一度、ずれた。
何かを呑み込む動作は後ろの先輩のミルクティーを飲む音と混ざって、区別がつかなかった。
「…やります」
彼女の声はいつもの通り完璧な発声だった。それなのに、なぜかボクの耳にはちゃんと聞こえなかった。




