第四話
土曜日の部室は二人きりだった。窓の外の雨は小降りになっていた。机を二つ並べて、その間にボクが座る。向かいに桃山さくら。台本は二部、印刷してきた。
「では、台本通りにお願いします」
ボクは静かに言った。
「…はい」
彼女は台本を受け取った。
受け取った瞬間から部室の空気が少し変わった。
公民館で見た。
あれ。
背筋が伸びて、視線の位置が上がって、声帯の奥が温められるのが外からでもわかる。
桃山さくらが『役』になる。
最初の一周は座ったまま通しで読んだ。ボクの主人公の行と彼女のヒロインの行が交互に窓の外の雨音を縫っていく。
台詞と台詞の間には紙をめくる音しかない。
一周読み終わった。
「…これ、いい台本ですね」
彼女はやさしく笑った。
価値判断の早い役者だ。
「まだ途中です」
「…途中なのがいいんですよ」
そう言って、また笑った。
今度は真面目な眼で。
ボクは意味がわからなかったが、先に進んだ。
【『潮鳴りのわすれもの』より 第十一場】
ヒロイン
「…先生。私、ひとつ、忘れものをしてます」
主人公
「なんだ?」
ヒロイン
「…言うと、海が聞いてるからって言い訳をして、今日も来てしまいました。海を頼ってると、いつまで経っても言えない気がして。だから今日は、海を頼りません」
主人公
(黙って、待つ)
ヒロイン
「…私」
ボクの主人公の台詞は現在、二種類ある。
「なんだ」と「なんだ⋯⋯」だ。
棒読みの理由を先に言っておくと、朗読劇だから仕方がない。
最初の抜き合わせは座ったままやった。
「そこ、もう少し。ヒロインは言う前の行で一度引き返してる。台詞には出なくていいから、一度やめたことにして、それでも言う。その距離感」
「…一度、やめたことにして?」
「はい」
桃山さくらは言い直した。ヒロインは一度口を閉じて、それから、閉じなかった。台詞が机の向こうからボクの正面まで、真っ直ぐに来た。
「上手いなあ。二回目の稽古でここまでできる役者なんて見たことない」
「…そうですか」
「感想じゃなくて、観察です。ヒロインの『言うと、海が聞いてるから』の行、普通の役者だと『海が聞いてる』で笑っちゃうんですよ。台詞を自分のものにする前に、台詞の巧さを自慢したがる。桃山さんはそれをしない。台詞が、ただそこにある。だから聞いてる側が安心して、台詞の中に入れる」
「…観察するんですね」
「ええ。書き残すのは人間の言葉だけって決めてるんで。演技の記録も残していきたいです」
「…舞台に立つと距離感が変わるじゃないですか。この場面、実際はもっと近いんじゃないかな。ヒロインは、一歩入ってる。机とか椅子とか、道具ごしに言う台詞じゃない」
「近くですか?」
「はい。そこ、もっと近く」
桃山さくらは少し黙って、それから席を立った。台本を胸のあたりに持ったまま、机の角を回って、ボクの正面に来た。
机のない距離。
一メートル弱。
窓の外の雨が遠くの海の上で白く崩れる音がした気がした。
「…こうですか?」
「はい。それで続きを」
彼女はページを見た。
『私。好きです』の行。
ヒロインは言った。
「…好きです」
雨音が一回、減ったみたいな静けさだった。一メートル弱の彼女の声は公民館の客席に投げる声よりずっと小さくて、小さくて、だから逃げ場がなくて、ボクの耳の奥に正確に着地した。
「上手いなあ。一回目でここまでできる役者は見たことないです」
「…そうですか」
「台本の段階でも思ってたんですけど、この告白、届いてる感じがする。ヒロインが本当に言いたくて言ってる感じがする」
「…そう」
「ここがこの劇の一番難しいところだと思ってたんですけど。プロだと初見でここまでやるんですね」
ボクは主人公の台詞の欄を見た。欄は白紙だった。まだ書いていない。今日ここに来たのは、その白紙に何を書くかを決めるためだった。用意してきたのは、テスト用の返し、三パターン。
「すいません。ここ、まだ台詞がないんです。今日はボクが言う番です。三パターン言います。聞いてください」
「…はい」
「パターン一。なんだ、そうか」
「…はい」
「パターン二。気づいてたよ」
「…はい」
「パターン三。ごめん、僕にも言えないものがある」
言い終わると、部室に雨が戻ってきた。
「二番目がマシかと思うんだけど。一番は受身すぎるし、三番は主人公が逃げてる。ヒロインが勇気を出したのに、全部あと回しにしてる」
桃山さくらは何も言わなかった。
台本を持つ指の先が紙より白かった。窓を閉めたはずの部室に風はなくて、それでも頁の端が細かく震えていた。
この雨は本物だからなとボクは思った。梅雨の湿度は紙にまで届く。
「…二番目」
「でしょう。さすが、プロの耳ですね」
彼女は黙ったまま。
「書き直します。二番をベースに」
桃山さくらは、ふっと顔を上げた。
上げたというより、一瞬だけ視線がボクを通り越して、窓の外の灰色の海まで行って、戻ってきた。
それから、彼女は台本を持ったまま、台本にない一言を足した。
「…潮の匂いがしますね。今」
「え?」
「…台詞じゃないです。ごめんなさい。続きを」
「いえ、アドリブ上手いですね。完璧でした。プロって、こういう一言を降らせるんだなという感じでした。そのまま使わせてください。告白の直後にあれが入ると、場面の空気が決まる」
ボクは台本の余白に鉛筆で書き留めた。
「…潮の匂いがしますね。今」
台本の外から来る言葉を台本の一部にしてしまう。役者というのは、そういう仕事なのだなと思った。
桃山さくらは何か言いかけて、やめて、水筒の蓋を開けて、閉めた。
「…稽古、これで終わりでいい?」
「あ、はい。お付き合いありがとうございました。だいたいの方向性が見えました」
「…どの方向に?」
「まだ白紙なんですが。二番と『潮の匂い』を足すと、主人公はヒロインの告白を、一度も受け止めてないことになるんですよ。全部あと送りにしてる。それがこの主人公なんだと思います。わすれものの正体が、誰の言葉なのかを決めてから、書き直します」
「…そう」
「はい。急に片付きました。すみません、今日はボクばかり台詞を聞いて」
「…いいの。私も練習できたし」
「練習? また付き合ってもらえますか?」
「…稽古が続く限り」
「助かります。あと、完成したら、感想を聞かせてください。台本の」
桃山さくらは、扉のところで一度だけ立ち止まった。
「…読みます。ちゃんと」
桃山さくらは台本をカバンにではなく、カバンの底に沈めた。
そこに入れるとページが折れると思うんですがとは言わなかった。
その時、背中の扉のすりガラスに、廊下の明かりより濃い影が一瞬沈んで、消えた。
旧校舎は夕方から軋む。
音と影の多い、古い建物だ。
部室を出て廊下に出ると、階段の方から、勢いよく降りる足音が一つ聞こえた。長身の人影が踊り場の向こうで傘を翻して、勝手口の方へ消えた。
誰だろう。
土曜の旧校舎に用事がある人なんているのだろうか。ボクは考えなくなった。桃山さくらが三階の窓のところで一度だけ足を止めたのを、ボクは後ろから見ていた。
「桃山さん?」
「…なんでもないです。傘、忘れました」
忘れていなかった。彼女のカバンには今日も長い傘が入っていた。そういう日なのだろうと思った。
昇降口を出ると、雨はほぼ上がっていて、濡れた坂道が夕方の光を床に置いていた。海の方を見ると、水平線だけがまだ灰色で、その手前だけ、雨の上がった町の色を映していた。一メートル弱の距離の空気をボクはまだカバンに入れたまま持っていた。
帰りのバス停でノートを開いた。会話メモの新しいページ。他人の言葉を書くためのページだ。ボクはページの一番上に、一行だけ書いた。
なぜ、こんなに苦しいんだろう
書いて、三秒で消した。
消した後もページの真ん中だけが少し明るかった。




