第一話
七月の海は、白く光った。梅雨が明けないまま、海だけがひとりで夏に先を越されていた。遠くから見る限りは綺麗な色で近づくほどに、眩しさだけが増える。波のひとつひとつが鏡の破片みたいに光を返して、水平線はどこまでも白い。六月までボクは海の色を季節の言葉で言えていたのに、七月に入ってからは「白」としか言えなくなった。作品に書くには一番、無力な色だった。
脚本の「あの一言」はまだ書けていなかった。六月の終わりに保存した修正13も、修正14も、一行目で終わっていた。潮の匂いは鮮やかになったのに、言葉だけが梅雨の湿度みたいに重かった。
その白い光の見える教室で、期末テストが始まっていた。
ボクの危機は古典だった。
中間テスト、三十四点。
三十五点が赤点だという事実を知った瞬間、「赤点」という言葉が初めて実務的な響きを持った。
古典の教師は鯨友先生だった。
四十代。
古文担当。
比喩だけで話す人。
答案の返却にも脈絡がなかった。
「返すぞ。発見の査定だ」
鯨友先生はボクの答案に、一枚の用紙を挟んできた。
用紙には『海は深し』とだけ書いてあった。
「点数は?」
「海に訊け」
要するに追試だった。
期末まで一ヶ月。
ボクに与えられた時間はこの用紙一枚分しかなかった。
放課後の教室。扇風機の下で桃山さくらがボクの答案を覗きこんだ。
衣替えの後、制服の袖は一気に短くなって、ノートをめくる度に、夏服の袖口から手首が覗いた。ボクはその手首を古典の点数ほどは見ていない。見ていないつもりでいた。
「…古典ですか?」
「古典です」
「…三十四点って」
「三十四点です」
沈黙が三秒。
桃山さくらは自分のリュックからノートを取り出した。
「…英語、教えてほしいです。私」
「え?」
「…交換で古典は私が教えます。十五点は上がります」
桃山さくら、劇団汐鳴座研究生は英語が苦手だった。
「…外国人の発声が情緒を殺す」
発音練習のことらしいが、それをそのまま言う人だった。
一方のボクの古典は発音以前に語彙からして他人のものだった。つまり、互いに相手の得意分野で自分の弱さを隠せる取引だった。知識の交換は社会の善意と同じで、始めは他人のものを借りる形から始まる。
「…では、契約です」
桃山さくらはノートの最初の頁に書いた。
交換ノート。
古典⇔英語。
俸給はなし。
「俸給って、誰が誰に?」
「…ないから、問題ないです」
その日から、ノートは毎日机の間を往復するようになった。
桃山さくらの古典講義は俸給なしどころか、正規の補習より中身があった。
彼女のやり方はこうだ。
古文をそのまま台詞にする。訳すんじゃなく、言わせる。
「…『慰めはありません』と訳すんじゃなくて。『なさいます。慰めは』、こう言う役だと覚えられます」
「どんな役が?」
「…優しくて、少し疲れてる人」
そう言ってから、彼女は本気で、少し疲れた優しい人の声で和歌をうたった。
意味がわからないまま、胸にだけ引っかかった。品詞分解なんてものは、言わせてしまえばいらなかった。
翌日、桃山さくらはコピー用紙を一枚持ってきた。和歌が十首、余白に赤字で「役」が振られている。
怒れる女。
待つ女。
諦めた女。
まだ、諦めていない女。
「…役が違うと同じ『待つ』でも読み方が変わります。待つ女は『まつ』を長く。諦めた女は『まつ』を一度だけ言って、次の行で忘れます」
「諦めた女が忘れるんですか?」
「…忘れたことにするんです。忘れるのとは違いますけど」
十首を全部、彼女の声で通してもらった。最後の「まだ諦めていない女」のところで、彼女は一度だけ、ページから目を上げた。
上げた先にボクがいた。
ボクの赤ペンを持つ手が一瞬だけ止まったのは暑さのせいにしておいた。
「…次は教わった側の言い分を聞かせてください」
桃山さくらが笑った。
「英語の?」
「…英語の」
ボクの英語講義は真面目だった。教える側に芝居がかったものを入れる必要もない。完了形の解説を三十分やったら、桃山さくらが机の端で小さく頷いた。
「…先生、誰に説明してるの?」
「受験生です」
「…私は、私の勉強がしたいんですけど」
「すいません。では、練習問題を」
翌日、桃山さくらから出題が返ってきた。ノートのページには、並べ替え問題とだけあった。
( )( )( ) 〔like / I / you〕
並べ替えの基礎だ。
主語、動詞、目的語。
ボクは赤ペンで『I like you.』と答えを書き、ついでに解説も書き込んだ。
この文型はSVO。中学一年レベルです。文法的に問題ありません。応用としては、「like」を「love」に変えると強さが変わります。試験には出ません。
返ってきたノートのボクの解説の横に小さくこうあった。
『文型は正しいです』
正しい。正しいだけだった。彼女は出題者として合格点をくれるのに、その次のページでは別の問題が追加されていた。
( )( )( )( ) 〔like / I / you / sea〕
「sea」は、どこにも入らないんですけど。
答案らしく、ボクは赤ペンで訂正を返した。
名詞が四つあると文が作れません。
例文として不自然です。出題者に確認してください。
翌日の返信の字は辞書のルビみたいに小さかった。
『確認します』
それきり、「sea」の行は消えた。ただ、問題の頁のいちば下の余白に「like the sea」という英文だけが残っていて、その下の和訳が破線で消してあった。破線で消された和訳は読む気になれば読めた。ボクは読まずに文法の解説だけ足した。読めば、答え合わせをしなければならなくなる。テスト前のボクに、それは贅沢だった。




