第二話
鯨友先生の補習は週に二度、放課後の空いた教室だった。
「古文は七百年前の人の心の聞き取りだ」
「桜田は耳が良い方だろう。脚本家だし」
「脚本は自分で書くんです」
「書く者ほど、聴こえないものだ。自分の声は」
意味がわからずにいると、鯨友先生は話題を変えた。
「枕詞は心に袖を引く合図なんだ。袖を引くのは一人だけとは限らないが、引かれた側の心はその瞬間、一人だけのものだ」
「どういう意味ですか?」
「わからいのか。まあ、いい。覚えろ」
ボクは覚えた。帰り道、会話メモに取った。
心に袖を引く合図
使いどころは、まだ決めていなかった。
テスト三日前、昼休み。海原みつきが教室の扉から顔を出した。
「さくらー、ちょっとー」
桃山さくらが廊下に出る。二人の声が扉の薄い板越しに聞こえた。途中で、海原みつきの声だけが急に低くなった。
「書類、今日が締め切⋯⋯」
そこで、声が切れた。
ボクが顔を上げると、海原みつきがいち早く教室に戻ってきて、ボクの机に両手をついた。
「桜田くん。お腹すいた」
「急に何?」
「ご飯、食べよ」
「今、昼ですけど」
「だから言ってるの」
謎のテンションだった。海原みつきはボクの答案を指差す。
「古典って、お腹すくよね」
意味不明の結論を出して、満足げに席に着いた。廊下では、桃山さくらがまだ立っていた。戻ってきた彼女の顔は何事もなかった顔だった。ただ、机の下でリュックの持ち手を握っている手だけが白かった。
あれが何を握っていたのかはボクは知らない。この日の教室の空気がなぜか少し緊張していたのは、テスト直前の潮風のせいだと思った。潮風のせいにするのは便利だった。
放課後、部室でノートを開いていると、桃山さくらが急に訊いた。
「…もし、私が文化祭の日に、舞台に立てなかったら、どうしますか?」
「体調ですか?」
「…万一の、万一です」
「代役を立てます。朗読劇は台詞が本番なので。台詞を覚えている人がいれば上演はできます。役者は替えがきく、なんて言いたくないんですけど。朗読劇では現実的なので」
「…現実的ですね」
桃山さくらはノートの自分の名前が書いてある行を指先で押さえた。押さえたまま、少しだけ長く、窓の外の白い海を見ていた。見ている間、ボクはさっきの答えのどこがいけなかったのかを考えていた。
考えつかなかった。
放課後、部室で脚本の進捗を報告すると、桃山さくらが先に訊いた。
「…ヒロインの名前は決まったの?」
「まだです」
ボクは首を横に振る。
「…そう」
彼女はそれ以上、訊かなかった。訊かない人だった。訊かない人の沈黙は答えをまだ持っていない人間に対しては、いつも少しだけ重かった。
「…文化祭、楽しみにしてます。朗読劇、一枠取ったし」
「うん」
ボクの言葉に桃山さくらは笑った。
あの笑顔は完璧だった。完璧すぎて、完璧だとは思わなかった。あれが彼女にとって、初めての演技だったとボクが知るのは、ずっと後になってからだった。
期末テストが終わって三日後、遠泳大会だった。潮霧高校の伝統で、プールの授業はあるのに遠泳は海でやる。沖の浮きぶちまで二百メートル、往復。監視の舟が二隻、救命資格を持つ先生が三人、浮き縄が一本。生徒は浮き縄の内側で泳ぐ。海は白く光っていて、正視すると目を細めるしかなかった。
ボクは三組。
桃山さくらは五組。
三組を終えて陸に上がったボクは白い砂の上で五組の泳ぎを見ていた。桃山さくらの泳ぎは美しかった。息継ぎの間隔が一定で、腕が水を取る度に、背中の線が真っ直ぐになる。水の中で背筋が伸びている人間をボクは生まれて初めて見た。
「水中でも姿勢が崩れない人いるんだ」
「あんた、口から水飲んでたぞ」
隣に日傘を差した星野部長が缶ミルクティーを実況席の飲み物にしていた。三年生は見学権があるらしい。浜で缶を開ける人間をボクは初めて見た。
「あれは劇団仕込みだよ。研究生はね。舞台に立ち続けるための体を夏のうちにつくるの。だからあの子、休みの日も休んでない」
「何をしてるんだ?」
「台詞を覚えてる」
実況が終わるか終わらないかのところで、五組の海に騒ぎが立った。浮き縄の内側で、誰かが沈んでいた。
ボクだった。
ここから先は、自分の記憶が正確ではない。右足のふくらはぎが突然、鐘をついたみたいに固まって、次の瞬間には頭より先に足が下にあった。海面の白い光が顔の上で明滅して、鼻の奥に潮が入った。手を挙げなければという思考はあったけれど、どちらの手を挙げればいいのかが、その瞬間のボクには重大な選択だった。
次に見えたのは緑の水面と長い髪だった。
桃山さくらだった。彼女はボクの脇の下に片腕を通して、水平にこの浜の誰よりも正確な姿勢で浮き縄までボクを引いてきた。至近距離だった。水の中でほどけた髪が濡れたまま、彼女の顔にかかっていた。
「…足、つりました?」
ボクは恥ずかしくて俯く。
「…息継ぎ、あんまり上手じゃないですね」
救助された側の欠点を救助した側から指摘されるのは、人生で初めてだった。浮き縄までの間、彼女の息継ぎは一回だけだった。ボクの息継ぎは七回だった。
深呼吸を挟むと順番が崩れると、どこかで冷静に考えた。
「若いの! つったら手を挙げろ!」
監視船から声が飛ぶ。それに対してボクは手を挙げた。挙げるのが遅すぎて、海は白いままだった。
監視の舟に引き上げられるまでの三十秒をボクは後から何度も思い出すことになる。思い出す度、白い光の中で片腕を差し伸べてくる影の輪郭だけが不思議なほど鮮明だった。潮の匂いも日焼けの痛みも、回を重ねるごとに薄れるのに、その影だけは夏が終わっても色褪せなかった。
陸に上がったボクはバスタオルを二枚巻かされて砂の上に座った。桃山さくらは髪を結び直していた。濡れた髪を一度ほどいて、輪ゴムで一本に結ぶ。その仕草の間、彼女は一度もボクを見なかった。
「助かった。本当にありがとうございました」
「…監視員の先生が来てくれました」
「桃山さんが先でしたよ」
「…水の中には客席がありませんから。誰でもできます」
水の中には客席がありません。誰も見ていないところでも、水の中で完璧な姿勢を保つことはできる。それが彼女の答えのようだった。ボクはその答えに何かを返そうとして、水が入った耳の奥から、海の音みたいなものが上がってくる感触だけを覚えて、言葉を見つけられなかった。
「水の中でも姿勢が崩れないんですね」
言ってから、言葉を間違えたと思った。桃山さくらは結び直した髪の先をもう一度ほどいた。
ほどいて、結ぶ。同じ場所を三回結び直す人間を見たのは、あの日が初めてだった。
監視員の先生の指示でボクは保健室行きになった。付き添いは桃山さくらだった。
「あの子、県大会に出てるだろ。呼吸法が泳ぎの呼吸と同じなんだよ。声を出す呼吸と息を続ける呼吸は根っこが同じなんだ」
「声を出す呼吸と息を続ける呼吸は違うんですか?」
「同じなんだよ。だからあの子は泳げる。お前はどっちもダメだったな」
保健室はカーテン越しの日差しが薄い水色だった。ベッドに上がると、先生は一時間は安静と言って、次の組の監視に戻った。カーテンの外で、桃山さくらの靴音が一度だけ止まって、もう一度、近づいてきた。
「…水筒、机に置いておきます」
「ありがとうございます。あの、桃山さんは続きを泳いだんですか?」
「…五組は全員やる決まりなので」
「ボクが引き返した分も?」
「…引き返した人の分も泳ぐ決まりなので」
正論だった。正論を返されると質問をやめるのが会話の作法だ。作法どおり黙ると、カーテンの外で水筒の蓋を開けて閉める音がした。
「お礼を考えます。台詞ならあります。いくらでも」
「…台詞でいいんですか?」
「台詞で失礼でなければ、ですけど」
何かを呑み込む音がカーテンの向こうでした。呑み込んだのが彼女なのかボクなのかは自信がない。
「…いいです。お礼はなしで」
「なしって?」
「…なしなので」
なしなのでという理屈はボクには作れなかった。作れない理屈の数だけ、その人の本当のところがあるのだと、今では思う。
帰りのバス停で会話メモを開いて、ボクは迷った。
あの一分間、桃山さくらは台詞を三行しか言わなかった。
足、つりました?
息継ぎ、あんまり上手じゃないですね
水の中には、客席がありませんから
後から書き起こせば、どれも彼女の言葉だった。ただ、そのどれもがボクの中では台詞として残らなかった。残ったのは、白い光の中で片腕だけで人を支えて泳ぐ影のほうだった。
言葉は記録できる。
言葉にならなかったものを、ボクはどうやって記録すればいいのか。
メモのページを開いたまま、ボクは何も書けなかった。言葉を集める仕事をしているつもりの人間が集められないものに出会うのは、それが初めてだった。
夜、ノートの最後のページにようやく一行だけ書いた。
セリフにならないものがある




