第三話
夜の自宅では事件が起きた。風呂上がりのリビング。エアコンの効いた部屋で、水萌がテーブルに突っ伏して、何かを読んでいた。脚本のプリントだった。海原みつきに渡す分の予備をリビングの机に置きっぱなしにしていた。ボクのミスだった。
「お兄」
「勝手に読むな」
「読んでいいって言ったじゃん」
「言ってない」
「心で言った」
水萌は中学二年で証拠という概念に曖昧な子供だった。彼女は原稿の真ん中を指差した。
「これ、さくらさんじゃん」
ボクは手に持っていた湯呑みを机に置くまでが長かった。
「誰それ? 創作だよ」
「ふーん。この余白の『潮の匂いがしますね。今』ってやつ。だってバカ兄、ご飯のたんびに『さくらさんは』って言うし」
「海の町の人間なら誰でも言う」
「あと、このヒロイン、名前ないんだね。ずっと『彼女』って書いてある。読みにくい」
「朗読劇だから、名前、まだ決めてないんだよ」
「まだ? 文化祭は十月だよ?」
返事を待たずに、ボクは台所に逃げた。逃げた先の台所で皿洗いを始めたボクの背中に、水萌の声が飛んできた。
「感想はノートに書いといたから」
「どこに?」
「私のノート。学校の。ハートマーク、二個つけたから」
「二個って、なんの差が」
「さくらさんじゃんって書いたところ」
「あとさ、このヒロイン、『行ってきます』って言わないよね。どのシーンでも家を出ない?」
「朗読劇だから。舞台は海辺なんだよ」
「ふーん、外に出ないヒロインって、ずっと家にいるんだよ。誰かが帰ってくるのを、待ってる人だよ」
中学二年の感想に返す言葉がなかった。その言葉がないまま、ボクは皿を洗い続けた。
洗い終わって戻ると、妹の読んでいた原稿が机に残されていて、最後のページだけが、まだ白紙だった。『潮鳴りのわすれもの』の、あの一言の部分。白紙のまま、真夏の夜の台所の空気に置かれていた。
スマホを見ると海原みつきからメッセージが入っていた。
【ライントーク画面】
海原 付箋、貼りすぎた 17:32
海原 15枚 17:32
海原 ごめん 17:34
海原 原稿、明日持っていくね 17:34
既読 数えなくていいです 18:06
既読 渡したのは四日前なんだから 18:07
追試の結果は翌週の月曜に出た。
「六十八点。三十四点上がったな」
「三十四点の二倍」
「海は二倍になったか」
「いえ」
「でもな。前のお前の答案は『調べた』だけだった。今日のは『言いたいことがあって、言葉を探した』あとがある。古文は言葉を探す人のものだ」
廊下に出てから答案を見ると、「海は深し」の下に鉛筆で一行あった。
『次は名前を書け』
名前の欄には、ちゃんと「桜田孝介」と書いてあった。鯨友先生の言う「名前」が何を指すのかはわからなかった。わからないまま、会話メモの空いた行にその一句だけ写した。
放課後、交換ノートを受け取ると、桃山さくらの字で、新しい問題が追加されていた。
( )( )( )( )( ) 〔your / tell / me / name / please〕
単語が、また多い。
名詞が二つあると文が曖昧になる。ボクは赤ペンで答えを書き、文型の解説を書き込み、最後に一つだけ質問をした。
『出題の意図を教えてください。これは何の練習?』
翌日、返ってきたノートの、その行の横に破線で消された和訳がひとつだけあった。破線の下に小さくこう書いてあった。
『まだ、早いです』
何がまだ早いのかは答え合わせのしようがなかった。ボクは解説だけ足して、ノートを机の向こうに返した。破線の字は消してはいけない気がして、消しゴムは使わなかった。
七月も半ばを過ぎた頃、ボクは夕方のバス停「汐見坂下」で、桃山さくらを見かけた。
ベンチに座って、彼女は小さな声で、何かを繰り返していた。最初は暗記の復習かと思った。通り過ぎようとしたとき、台詞だと気づいた。ただ、知っている台詞ではなかった。
「行って、きます」
「ただいま」
『行ってきます』と『ただいま』
彼女はその二つの言い方を、何度も、何度も練習していた。同じ二語を、角度を変えて、温度を変えて。発声練習にしては短すぎた。芝居の台詞にしては、日常すぎた。
「桃山さん?」
彼女は、飛び上がるほどではなかったけれど、明らかに、驚いた。
「桜田くん」
「何の練習ですか?」
「おはよう⋯⋯とか」
彼女は正直に言った。
「朝の声の出し方の練習です。一番難しいので」
「おはようが難しいんですか?」
「一番難しいです。朝いちばんの声は、まだ誰のものでもないので」
バスが来て、彼女は乗った。ガラス越しに一度だけ手を挙げたので、ボクも挙げ返した。それから坂道を上りながら、ボクは考えた。あの二語は誰に向ける台詞なんだろう。劇の役だろうか。それなら、その劇の主人公は行ってきますを言う相手を持っていないことになる。
答えに辿りつかないまま、坂の上から海を見下ろした。海はもう、ただ白かった。
その翌週、終業式だった。式典のあと、部室。夏休み前最後の部活動の日。部長は缶ミルクティーを三本持ってきて、一本をボクに、一本を桃山さくらに渡して、残りを自分で開けた。
「夏休みの部活を発表する」
「あるんですか?」
「七日間。浜茶屋『なぎさ』を貸し切った」
「なぜ貸し切れるんですか?」
「訊くな」
「親戚の家とか」
「脚本家は台本以外の情報を求めるな」
ボクは求めるのをやめた。『なぎさ』という屋号から、この町の浜の四軒のどれかだろうと推測した。推測は知らないことを知らないままにしておく。作家の免許のようなものだ。
「メンバーは文芸部全員。あと」
部長は桃山さくらを見た。
「あんたの友達も呼んでいい。海原とかいう」
「みつきもですか?」
「あの子、合宿の差し入れの知識だけはあるから」
桃山さくらは缶を両手で持ったまま、少し遠くを見た。見てから、「行きます」と言った。その「行きます」に一瞬だけ、海が凪ぐときみたいな間があったことを、ボクは見た。見たけれど、理解はしなかった。
その時、テーブルの上で彼女のスマホが一度だけ震えた。彼女は通知を切った。切る動作が早かった。誰からの連絡かは、画面の見えない角度のせいで、わからなかった。
部長は黒板に貸し切りの日付と「持ってくるもの」を書き始めた。「脚本」「着替え」「水着」「虫除け」「日焼け止め」「各自の分」「都合のいい心」など、七割がた脚本家への嫌がらせが並んだ。
「なお、なぎさのルールを三つ言っておく」先輩は言った。「一、夜十時以降は脚本の話禁止。二、海に入るときは必ず誰かと。三、」ここで缶を開けた。「言いそびれた言葉は、拾わないこと。拾う権利があるのは、言った本人だけだ」
「三つ目の意味が、わかりません」
「わからなくていい。今は、わかっちゃいけない」
「最後にひとつ」黒板を書き終わって、先輩は振り返った。「夏休み、誰も、予定を入れちゃだめだぞ」
「……誰も、って」
「そういう夏休みが、あってもいい」
黒板の前で、桃山さくらがもう一度遠くを見た。窓の外には、白い海があった。
ボクはその意味を、夏休みが終わるまで知らなかった。知らないまま、ボクの鞄には脚本と交換ノートと会話メモが入っていて、「言えない一言」だけがまだ書けないまま、夏が始まった。




