第一話
八月の海は、夜でも明るかった。太陽が落ちてからも水平線にはしばらく朱が残り、やがて空の色がそのまま海に降りてきて、全面が濃い青に変わる。そこに花火の色が残る。割れた光が雲の裏に引っかかって、水面の上にぼんやりと色の帳を作る。昼間はまぶしくて目を開けていられない海が夜になると覚めるような青になって、ボクたちの声をいちばん遠くまで運んでくれた。七泊の間、ボクはその色の名前を一度も決められなかった。ノートには「夜も明るい」としか書けなかった。
浜茶屋「なぎさ」には、約束の日の午前、星野部長の号令で集まった。
「集合は九時と書いたはずだが」
「部長、九時は今日になったばかりの時間ですよ」
「八時半に来たボクはなんなんだ」
「むしろ訊くわ。あんた、お弁当持って来たのか?」
「食堂付きの浜茶屋を貸し切って、お弁当を持ってくる人はいないとボクは思うんですけど」
荷物置き場の縁台に桃山さくらが座っていた。麻のワンピースに麦わら帽子、膝には大きめのリュック。涼しい顔をしているが、座る位置が妙に端に寄っていてボクが三メートル以内に近づくと、帽子のつばが少しだけ下がった。
「遅い」
「すみません。バスが混んでて」
「嘘。あんた、一時間前から防波堤にいたでしょ」
星野部長がすらすらと暴いていく。桃山さくらは帽子を押さえたまま、真顔で返した。
「防波堤は発声練習に最適なのです」
発声練習なら確かにそうだろう。だが、なぜ夏休みの朝、合宿の前に発声しなければならないのか。役者の世界は謎が多い。
海原みつきは十時半に走ってきて、荷物を置くなり叫んだ。
「黒田くんがね、差し入れを持って三時くらいに来るって! 焼き芋って言ってたけど、この季節に焼き芋!」
「スーパーの焼き芋コーナーは年中無休です」
「じゃあ、十七時すぎにここに来るってことでいい? さくら、十七時ね、十七時」
「聞こえてるよ。なんでボクに念押しするの」
「念押しは心の栄養」
海原みつきはさらに、七泊分の差し入れ予算まで宣言してきた。
「毎日何かしら持ってくるから、期待して」
「合宿は脚本を書く場所であって、喫茶店ではない」
「じゃあ、脚本を書きながら食べられるものを」
そんなやり取りの後、翌日から実に真面目なお菓子のラインナップが並ぶことになった。かき氷用のシロップ、波の形に見立てた金平糖、浜で落ちていると思う貝殻。考えることは真面目で、方向が微妙だった。
黒田賢太郎は約束通り十七時すぎに来た。スーパーの袋に缶飲料を大量に入れて、麦わら帽子で顔の半分を隠していた。
「研究生に差し入れを送る先輩の土産用です」
「いや、送るんじゃなくて持ってきてるし」
「来たからには泊まる」
「泊まる!」
海原みつきが即答で拍手し、星野部長が許可した。
桃山さくらはダメですよと言いながら、部屋割り表を破って空白の列を作っていた。ダメと言いながら空白の列を作る役者というのは、正直、演技がうますぎて少し怖い。
部屋は二階の板の間が二つ。男女で分かれ、境界の襖にはビニールテープで「結界」と書かれた紙が貼られた。星野部長の字だ。宵になって結界の外から声がした。
「桜田、少しあきないか。海を見に行かんか?」
「いま結界の内側で役作り中です」
「内側に誰もおらんぞ」
「役作り中です」
役作り中だったのは縁側の濡れた部分を拭いている桃山さくらだった。
「手伝うよ」
ボクがそう言って手伝おうとすると彼女は首を横に振った。
「…掃除は一人でやるという役を演じているだけ」
ならば掃除している役を演じさせないでほしいと思ったが、口には出さなかった。
初日の夜の脚本会議は三十分で崩壊した。テーブルの上に昼間の波の写真が並べられた。
「この日差しの角度、先月と違うだろう」
星野部長は当たり前のことを言い出し、それが光の方向を台本にどう書くかという難題に発展したからだ。
「演劇は演じるもので、光の角度は照明がどうにかします」
「照明が浜辺の照りをどうにかしてくれるなら、演劇は何でもできるね」
「では、初日の宿題は朝の海岸の一場面だけです」
「教壇で言ってるね、今」
「教壇的な?」
「私は何をしましょう」
「安静にしておくれ。脚本家の目の前に置く大事な置物だから」
「置物役も競争率高いんですが」
その頃、桃山さくらは涼しい顔でかき氷をすくっていて、気づけば氷を七つ注文してきた。全員の分だった。
ん、とボクは思ったが、深くは考えなかった。
夜は縁側に並んで座り、各自に渡された原稿用紙の三枚目を書いた。それ以外の時間、ボクは書けなかった。




