第二話
翌朝、一番早く起きたのはボクだった。デッキの階段に座って空を見ていた。海は少し白かった。夜のうちに湿気が上がって、朝の空気に塩が沈んでいる。桃山さくらはやや遅れて現れ、ボクの隣一メートルを空けた位置に、こちらからは計りきれない正確さで座った。
「起きるの早いですね」
「…汐鳴座でも稽古の前は五時に起きてます」
「夜のうちに起きてません?」
「…起きてません」
朝の話にはとりあえず受けておくのが、演技の基本なのだろう。芝居の耳というのは、こういうところから鍛えられるのかもしれない。
「なぎさ」の店主のおばあちゃんはボクたちを孫のように扱ってくれた。朝食は焼き魚と味噌汁と海苔で、毎朝同じだった。それが三日目あたりから桃山さくらの席の湯呑みの湯の温度だけが誰にも言わないのにちょうどいい熱さになった。
桃山さくらは朝から湯呑みを両手で包む。
「おばあちゃん、上手ですね」
「上手じゃないよ。来る人の湯加減を数えてるだけ」
おばあちゃんは笑った。
ボクはその言い方が劇団の言う「経験」とどこか似ている気がして、ノートに一行だけ書き留めた。
来る人の湯加減を数えてるだけ
脚本に使えるかどうかはわからない。ただ、数えて熱さを知るという発想はボクには決して思いつかない種類の文だった。
昼は海に入った。ボクは浮き輪で遠くまで行って、戻れなくなった。
桃山さくらは腕だけで速く泳いできて、不格好に沈み込むボクの浮き輪を押して、岸まで送り返してくれた。
「これ、浮き輪が沈んでたんじゃなくて、ボクが沈んでた」
「…沈んだ振り、上手ですね」
「沈んだ振りはしてない!」
「…してないんですね」
「してない」
「…じゃあ、私が助けたことになりますね」
「なに、その事後の設定!」
波打ち際まで押されて、桃山さくらの髪がほどけて濡れたまま顔にかかった。髪を後ろで一つに結び直す仕草をボクは至近距離で見た。
潮の匂いがした。
胸が焼けるように熱かった。
その夜、事件が起きた。脚本の深夜の書き直しである。
原因は遠泳のときに感じた「沈む感触」だった。ヒロインの一人称を最初から組み替えなければならない気配がした。
これまでのヒロインは主人公の言葉を受け取ってくれる人だった。
だが違う。
このヒロインは自分から沈んでいって、その沈みにそっと手を差し伸べてくれる人だ。台本の上に並べてある言葉が一行ごとに意味をずらしていく。
夜中の二時、テーブルの灯りの下で、ボクは一枚目から全部書き直していた。鉛筆の削りかすが小瓶に溜まっていくのを見ていたら、食堂の奥で鍋をかき混ぜる音がした。
桃山さくらが夜食を作っていた。
海の音と鍋の音だけがしていた。
「…もう三時ですよ」
「あなたこそ、何を?」
「…夜食を作る稽古をしています」
「夜食は稽古しなくても作れるでしょう」
「…するのです。これは演技じゃないと私が思う唯一の稽古」
書き直したヒロインの一人称の書き出しは、こうなった。
この町の海は私の声を返してくれない。返してくれないなら私は声をやめて、目で訊くことにする。
ボクが書き終わった用紙を差し出した。
「…読んでもいいの?」
「いいよ」
ボクは彼女の言葉に頷いた。
彼女は差し出された紙を受け取らず、しばらく書き出しの一行だけを眺める。
そして、意味のないけど明るい返事を返した。
「…練習します。朝の発声で」
「声を出すのは、まだ早いと思う」
「…声を出す役をやると朝まで声が出ません。だから、今、出します」
「なんで?」
「…なんでと言われると困ります。練習の理由を訊かないの部活の約束でしょう」
一人で縁側に行って、海に向かって声を出した。最初は小さく、二度目からは遠くまで飛んでいった。ボクは縁側の板の温度だけを感じながら、二枚目を書いた。海の音が彼女の声の輪郭を真っ直ぐに拾い上げてくれた。
翌朝、その発声練習をボクは生で見ることになった。眠れずに四時半に起きたボクが縁側の奥でそれに遭遇したのだ。桃山さくらは真っ先にボクに気づいて、ピタリと声を止めた。
「…見てたの?」
「見ると言うか、聞くと言うか」
「…聞かない約束ですよ」
「そんな約束は誰ともしていません」
「…これからです。発声は見ない。朗読は聞く。逆はダメ。合宿の新しい約束です」
「今、作った約束ですね」
「…今作った約束ほど、破りやすい。だから、強いんです」
結局、その後もボクは発声は見ない。
朗読は聞くを守った。
おそらく、一度も破っていない。破った記憶があるとしたら、それはもう見ている方に問題がある。
その夜、ボクはノートの最後のページに「会話メモ」を取った。桃山さくらの言葉だけを一字一句。
これは演技じゃないと、私が思う唯一の稽古
練習の理由を訊かないの、部活の約束でしょう
星野部長が通りかかって湯呑みを置きながら言った。
「あんた、人の言葉ばっかり集めて、自分の言葉はいつ書くんだい」
「まだ書く言葉がないんです」
星野部長はミルクティーを飲んで意味がわからない言葉を言った。
「そのうち、一番書きたくない言葉を書くことになるよ」




