第三話
そのあたりから、合宿は書き直しの形になっていった。三日目から六日目までは、朝は脚本を書き、昼は海に入り、夕方は縁側で読み合わせという同じ形が四日続いた。
読み合わせは不思議な時間だった。星野部長と海原みつきは椅子を並べ、黒田賢太郎はいつの間にかパンの耳だけを上手に食べていて、ボクが書いたばかりのセリフを桃山さくらが机の上に立って読む。
読み合わせが終わると、机の上に戻って、今度は書かれていないセリフを読む。
「…この辺り、台本にないですよね」
「台本の周りを演じるものです。台本が書いた後の残り香みたいなもの」
「…残り香は台本に書いておいた方がいいの?」
「書けませんよ。書いたら、その香りは台本の匂いになるだけ」
そういうことかと思うと同時に、まったくわからなかった。ただ、書き直しの後の桃山さくらはいつもより少しだけ、言葉の距離が近くなる気がした。机の上に立ってセリフを読むと目線の高さがボクの目と同じになる。そこから先の机とボクの間の距離が台本の上では書かれていない。
黒田賢太郎が差し入れついでに、ボクの書き直しを少しだけ読んでくれたことがある。彼は読み終えて一言だけ言った。
「このヒロイン、書き手が誰の目で書いてるかが読み手には全部伝わりますよ」
「伝わるんですか。まだボク自身がなんの目で書いてるのか決めてないのに」
「決めてないからこそ伝わるんだよ。オレは役者なんで、詳しくは脚本家に」
「脚本家がボクなんですが」
「がんばれ」
助言になっているのか、逃げているのか、役者の言葉はいつも二義的だった。ただ、ボクはその言葉を覚えていた。覚えていたから、翌日の読み合わせで、ボクは自分の書いた台本の男役を自分で読む羽目になった。
「…脚本家が自分の台本を読むのは尾びれだらけになるから禁じ手なんだけど」
「部長に言われました。学校で」
「…じゃあ、私が読み方教えてあげる。はい、座って」
桃山さくらはボクの正面に座って、背筋を伸ばした。教わる側のボクは、原稿を持ち、教わる内容というのが「声の大きさ」だった。
喉を開ける。
腹を使う。
最後まで息を残す。
声を大きくする理屈は簡単だった。
「…はい、じゃあ、ここ。『もう一度だけ、名前を呼んでいいですか』」
読んで、止まった。
桃山さくらは少し黙ってから言った。
「…今の声は悔しがってないね」
「悔しい場面じゃないです。素直に頼んでるだけです」
「…じゃあ、どうして名前を呼んでいいかって訊くんですか?」
「確かに」
「…もう一回。今度は呼べなくなる前提で」
呼べなくなる前提で、もう一度読んだ。すると同じ文が、少しだけ重くなった。ボクは自分の脚本を初めて他人に書いてもらったみたいな気持ちで読んだ。桃山さくらは満足したように頷いて、それからふと、小さい声で言った。
「…私、この台本のヒロインの声、まだ知らないんだって、今、気付いた」
「まだですか? 書き直しの途中で声は」
「…声はあるけど。今、初めて教えてくれた声があるから」
「ボクが教えたんですか?」
「…気にしないで。稽古の無駄話です」
無駄話はいつも正体を伏せる。だから、ボクは気にしないことにした。気にしないでおくことに、この夏は慣れていなかった。
その日の夕方、星野部長がボクに新しい役を割り当てた。役名は「置物」。仕事は、脚本家であり続けながら座っていることだけだった。
「置物は役を降りられます」
「降りたら誰が台本を書くの」
「書き直しはボクの仕事で、座るのは刑罰ではないです」
「では罰ゲーム。私の差し入れを一枚も食べずに眺めてて」
「それはちょっと、さっき、みつきさんからお裾分けをもらったので」
「ああいうことよ。みつきは」
六日目の夜、花火大会があった。ボクたちは朝から浴衣を着た。ボクは浴衣の着方がわからず、部屋の中で手間取っていた。海原みつきがドアの隙間から顔を出す。
「帯の結び方を教えるわ」
「帯は自分で結べる」
「じゃあ、帯の口を直すのを手伝うわ」
「口は?」
「帯の口?」
「帯に口はない!」
結局、帯の位置は桃山さくらが直してくれた。ボクは壁に手をついて立ち、桃山さくらが背中で帯の位置を調整した。普段の三メートルが、このときだけ三十センチに縮まった。彼女の指が帯を引くと、ボクは自分の身体が少しだけ絞られるような気がして、背中が静かになった。




