第四話
浴衣姿の桃山さくらは階段を降りてくる間、手摺りを持ち、その速度を最後まで変えなかった。楼の下に立つ星野部長が上品ねと感想を漏らした。桃山さくらは上品に降りますと返した。
「それ、上品なの?」
「…上品です」
「まだ、上品を着てる」
「…浴衣の上に上品を着るのが今年の流行」
ボクはその「流行」を三年生が決めるものだと思った。流行というのはそういうものではない気がしたが、説明のしようがなくて黙った。後で知ったのだが、その年の流行は特になかった。
堤防の先で花火が上がり始めた。海がそれを全部受け止めて、鮮やかな色を水面の下の暗さに書いて残した。ボクの隣に桃山さくらが立った。浴衣の袖の少し離れたところ。空を向いて、笑っていた。光が割れる度に、その笑顔が一度、白く置き換わって、また戻ってきた。ボクはその白い置き換えの間に、ずいぶん長いこと見入ってしまった。
「よく、似合う」
そう言ってしまった。
いや、似合うんだから仕方がない。似合うというのは事実の報告で事実の報告に罪はない。
桃山さくらの肩がほんの少しだけ上がった。
「…ありがとう」
花火の音の切れ間にその「…ありがとう」は消えなかった。消えなかったから、ボクは続けてしまった。
「役にぴったりだね」
言った瞬間、自分の失敗に気づいた。この「ぴったり」には「祭りに」が抜けていた。浴衣が花火に、夏に、そういう幅でぴったりだったはずなのに、ボクの口から出た「ぴったり」は俳優と役を結ぶ結び目の話になってしまった。
桃山さくらの笑顔が一秒止まった。
一秒とはどれほどか。
花火が最高高度に達して、割れる前の、あの溜めの長さだ。あの長さの間、彼女は笑ったままで、少しも表情が変わらなかった。変わらないことがかえって変わって見えた。
ボクはすぐに言い直そうとした。だが、その一秒の間に、遠くで海原みつきが顔を両手で覆った。花火を見る仕草にしか見えない速度で、完璧な角度で覆った。そして横から手が伸びて、ボクの口を手のひらが塞いだ。海原みつきだった。海原みつきは、遠くの花火を見ながら、真っ直ぐに前を向いたまま、ボクの口を塞ぎ、ゆっくり首を横に振った。早く言い直してという顔ではなかった。今は黙ってという顔だった。
「…今のは黙って」
「黙って?」
「…今は黙って」
「今、黙って?」
ボクは黙った。花火は打ち上がっていた。海の上の色は、その夜の明るさの名残をいつまでも残していた。
夜の波打ち際はやはり明るかった。花火が終わっても、空の色が海に降りてきて、宵の海が深い青で、ボクたちの足元を照らしていた。
ボクは道具の片付けをサボって、潮溜まりを覗く口実で、一人で浜に出た。二度目の書き直しだ。昼間に桃山さくらが読んだセリフを書いても、翌朝はすっかり違う色になっていた。汐鳴座のあの声の通し方がボクの耳に残っている。台本の上の文字は同じ字なのに、読み方がわからない。
「…ねえ」
気づいたら、桃山さくらが隣に立っていた。裸足だった。波のあがり際を避けて、歩幅が三歩縮まったまま止まっていた。
「…書き直し、ずっとやってるの?」
「一枚目から全部、書き直してる」
「…なんで?」
「理由はないです。書きたくて書いてるんです」
「…じゃあ、どうして今日、私に見せたの?」
ボクは答えなかった。答えは書くのをやめたからだ。書き直しをやめて、静かに海を見ることにした。桃山さくらはその沈黙をボクが言えないことなのだと解釈してくれたらしい。ありがた迷惑な優しさだが、その方が楽だった。
桃山さくらが口を開いた。
「…私ね。ねえ」
そこで、口を閉じた。ボクは「うん」と言った。うんは返事ではない。うんは聞いてるという印だ。待つべきところで待った。
「…役じゃなくても。私」
空にでかい音が割り込んだ。遅打ちの仕上げの大玉だ。海の上の色が全色を一気に書き換えた。音は波の音を消して、ボクの耳の奥まで直に入ってきた。
音が消えるまで、ボクは三秒待った。三秒は会話の中では永遠の長さだ。
「役じゃなくても、何?」
桃山さくらはボクを見ずに、海を見ていた。三秒の間に、この前の「役じゃなくても」は今はもうない。
「…なんでもない。忘れて」
「わかった。忘れる」
ボクがそうと言うと、桃山さくらは笑って波打ち際に下りて行った。ボクはそれを見送って、書いてもいない用紙の二枚目を暗闇の中で指で書いた。
あの三秒のことは一生、忘れられないだろう




